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アートディレクターの日高由美子さんは、TAM入社25年のベテラン社員。絵を描きながらコミュニケーションすることをサポートする「えがこう!」という活動を立ち上げ、社内外でセミナーやイベントを開催しています。8時間におよぶ「地獄のお絵かき道場」もこの中で展開され、セミナー、研修の受講者は4000人を超えています。
ダイヤモンド社より上梓された『なんでも図解』もこの活動から生まれた本。簡単な図解によりさまざまな事柄の理解を深めるのを助けるもので、今年9月の発売以来、ビジネスパーソン、教師、学生など、幅広い層に受け入れられ、アマゾンの売れ筋本ランキングで「商品開発」部門の第1位を獲得しています。
日高さんが「えがこう!」プロジェクトに行きついたきっかけ、本を出版するまでに至った経緯、そして会社に頼らず、個人のエッジを立てるためのヒントを伺います。
豪雪地帯出身、「描くこと」は味方
―新潟県のご出身とのこと。
雪が3メートルぐらい降る秘境で幼少期を過ごしていました。実家が豆腐屋を営んでおりまして、「とにかくみんな手伝え!働け!」という家だったのですが、4人兄弟の末っ子の私は、それを免れるためにずっとノートにマンガを描いて、勉強しているフリをしていました(笑)。まずそこから、ノートに描くことが自分の「味方」になりました。
東京の美大に合格して「油絵科」を出たんですが、まだバブルの余韻の残るころで、卒業後は化粧品会社の宣伝部に入れたんですよ。その後は転職してレコード会社のデザイン部に入りました。この世の春みたいな感じで、「早く仕事を終えて飲みに行きたい!」みたいなアカンやつでした(苦笑)。
そんな矢先、28歳のときに授かり婚。相手は4歳年下。時は就職氷河期、やっと彼の就職がきまって、最初に赴任したのが大阪だったので、私もレコード会社を辞めて大阪に行きました。
―そこでTAMとの出会いが?
なんだかんだ言って仕事は好きだったので、大阪でも仕事をしようと思って、自分のポートフォリオを持っていろんなところを歩き回ったんですが、ちょうど阪神大震災の年だったこともあり、どこにも採用されず・・・。やっぱり1人でやっていくのは厳しいな、と思い知らされました。
そこで、当時の「パソコン通信」で、掲示板に「大阪の画材屋さんを教えて!」と書き込んだところ、TAMの前身の「トータル・アド・メディア」という会社から連絡が来たんですよ。社長が近所のファミレスで私のポートフォリオを見て、「ぜひ一緒になにかやりましょう」と言ってくださったときはすごく嬉しかったですね。
だけど、移転した今はきれいなオフィスですが、当時、25年前の会社は本当に崩れそうなボロボロのビルで、バッキバキに折れたブラインドと西日の当たる小さな事務所で(苦笑)。「すごいところだなあ」と思いましたが、「突っ走る現場感」がむしろ面白くて。最初にDMハガキのお仕事をいただいて、そこからおつき合いが始まりました。
そのころ、夫は単身赴任を繰り返していたので、子育てはほぼ「ワンオペ」。子どもがまだ小さくて大変でしたが、イレギュラーでベビーシッター代を会社が負担してくれて、なんとかやりくりしていました。子育てしながら働くことに関して、TAMはずっと同じ姿勢ですね。
―TAMではアートディレクターとして、活躍されています。
90年代後半ごろから会社がどんどんWebにシフトしていく中で、アートディレクターとしてビジュアル構築にシフトしていきました。それで40代半ばぐらいまでは今までの延長でやっていけばよかったんですが、2005年からTAMで「100スター」が打ち出されたんですね。「スタッフ100人、一人ひとりがスターとしてエッジを立てろ」と。
だけど「エッジを立てるなんて無理!」と思っていたんですよ。心の奥底では安定することが好きだったし、なんだかんだ言って「TAMが会社として安定してきてよかったな」ぐらいの思いがあったので(苦笑)。「どうやって会社に頼らずに一人でやっていけるのか?」と途方に暮れたし、40代なんで、若手をマネジメントして束ねる方向で、「このまま一会社員として逃げ切れるんじゃないか?」とも思ってたんですね。
それでも定期的なミーティングで自分の計画などを話さなくちゃならなくて、どんどん追い詰められて。そんな中で、転機になる出来事がありまして・・・。
「一生、会社が面倒を見てくれるなんてない」原点に帰って自分をたな卸し
―どんな転機が訪れたのでしょうか?
あるとき、大手文具メーカーの依頼で、ストーリー性のあるコンテンツを立ち上げる企画があって、そのアートディレクション(AD)をすることになったんです。そのときはモデルやロケを重視した架空のシーンを要求されることが多く、私はとにかく写真にこだわって、設定を作り込んでいました。
そのサイトは6カ月契約だったんですが、結果を見てみると、全然集客できていなかったんですね。私自身もそのサイトのSEOについて「これは私の担当じゃない」くらいのスタンスだった。それで、契約終了時には契約が更新されませんでした。全力でADをしていたし、前のめりになって「これからだ」と思っていたので、そのプロジェクトの打ち切りはすごくつらかった。
会社でも、「かっこいいものだけ作っていてはダメ」というような「ダメな例」として見られた時期もあって。それで私は、自分が「ダメな人」になっていることをはっきりと自覚したんです。「昔ながらのADだけ一生懸命やっていればいい」という自分のスタンスは、通用しなくなっていくということが、そのときに分かったんです。
自宅の冷蔵庫の前で号泣しましたね。気がついたらめったに握らない旦那の手をにぎって(苦笑)。それでもう完全にふっきれたんです。TAMのクレド(信条)にもありますけど、「会社があなたを幸せにできるのではない、幸せを手に入れるのはあなた自身しかできない」と、あらためて気づかされました。
―そこから自分のエッジがなにかを考え始めたんですね。
考えるというよりは、からだを動かしました。「やらなきゃ、やらなきゃ」というところから逃げていられないなと思って。でもなにをしていいか分からなかったので、とりあえず梅田の街を歩き回りました。でも、外部の刺激になにかを求めても、なにもないんですよ。
「これは自分の心の中の問題だなあ」と思って、ノートにまず自分が生まれたところから書き出して、「たな卸し」したんです。田舎で生まれ育ったコンプレックスとか、兄の目が不自由なこととか・・・ 人にあまり言いたくないことや今まで自分の中で抹殺してきたことを全部ノートに書き出してみたんです。
そうやってみると、「目が見えて、手を動かせて、しゃべれることで、ある程度人になにかを訴えることができる」というだけでエッジになる、と気づいたんです。原点に戻ったような感じです。それが「えがこう!」という活動のもとになりました。
ADしているとき、クライアントの前でWebサイトのラフなど描いていったら、みんなが納得してくれたじゃないかと。ADとしてきれいなものをつくるのも楽しいですが、その途中段階のみんなでコミュニケーションを取りながら、考えをアウトプットするときも、描くということは同じだったと気づいて、「描くこと」を自分の活動のベースにしようと思いました。
そして、TAMの個人面談で活動名を「えがこう!」に決定。「なにを売るのか」「だれに売るのか」「強みはなにか」など徹底的にブレストし、描くことのイベントやグラフィックレコーディングのメニュー化を進めました。その中で、それまでにも行っていた「絵が苦手なスタッフに向けた社内セミナー」を、あらためて外部向けセミナーとしてカリキュラムを作成し、開始しました。
―そこで生まれたのが、伝説の「地獄のお絵かき道場」。
「生ぬるいセミナーではお客さんが来ないぞ」ということで、8時間徹底したブートキャンプみたいなセミナーをする。これは譲れませんでした。
その前から社内セミナーはやっていたんですが、外部に向けて決して安くはない参加費をいただき、しっかりと結果が出せるプログラムにできるのかが怖くて、眠れないときもありました。
それでもTAMのみんながすごく協力してくれたし、「なにかあったら手伝うよ」という感じで、ひとりで突っ走ってバタバタしている私を温かく見守ってくれました。きれいごとではなく、本当にTAMがあったから一人でエッジを立てることができたと思います。
それでセミナーも順調になってきたんですが、またもや転機が訪れるんですね。
「本を書こう!」
―2度目の転機はなんだったのでしょうか?
セミナーでは「可視化」することを中心に、描いて伝えるメリットとスキルを伝えていました。その中に「グラフィックレコーディング」も含んでいたのですが、「グラレコ」という言葉が浸透していく中、だんだん「グラフィッカー」と呼ばれる人がやる、特殊技能が必要なアートのように捉えられてきたように感じました。
本来はだれもが仕事に活かすべきものが、変に専門性が高まってしまって、「機能のつきすぎた電子レンジ」のような違和感を感じたと言ってもいいかもしれません。それで、「現場で使える可視化」をあらためて伝えたくなったんです。
セミナーのほうもだんだん差別化が難しくなってきて、「教えることのマネタイズはこれから難しくなっていくんだろうな」とも思い始めました。「描くことで世界は変わる」というコンセプトも、伝え続けて行きたい気持ちは変わらないけれど、描くことをリアルの場で教えることだけでは絶対立ち行かなくなってしまう、形を変えて伝えなければいけないと思い始めたんです。それが去年の夏ぐらい。
そうしたことがきっかけとなって、「本を書こう」と思いました。描くというノウハウを自分だけで抱え込んで、それを小出しにしながら対価を得るスタイルではなく、自分の伝えたいことが場所や時間を超えて山村離島まで届けばいいな、と思ったんです。
―そこから『なんでも図解』プロジェクトが立ち上がったのですね。出版までの経緯は?
まずは出版社に企画書を送りました。郵便局で封書を送るとき、パンパンと手を叩いて「届きますように!読んでもらえますように!」と祈りながら(笑)。絶対にビジネス書の棚に並べてほしかったので、ダイヤモンド社の編集の方からメールが来たときは本当に嬉しかったです。
だけど、そのメールの内容は、「図解の本はこれまでに類書がたくさん出ているのでお力になることが難しいと思いますが、それでよろしければ一度お会いしましょう」でした。
編集の方は初めは断るつもりだったらしいのですが、その後「えがこう!」のWebサイトを見てくださって、そちらに興味を持っていただけたんです。そして「えがこう!」と「地獄のお絵かき道場」のエッセンスを活かして本にしてみようということになったんです。
編集者は図解の本のベストセラーも担当された中村さんという方で、渾身の企画書を書いてくださったのですが、編集会議ではタイトルが問題となり、「これではビジネスパーソンに手に取ってもらえない」ということで一度ボツになり、もう一度「ビジネス書として響くタイトル」を練り直して、やっと企画が通りました。
原稿の大筋は1カ月ぐらいで書きあげましたが、その後の書き直しに約半年。中村さんが全身全霊を込めて赤を入れてくださいました。その中で没ネタもたくさんありました。表紙のデザインも最後に直していただいたり、最後の最後に手書きの図版を大至急修正したり、いろんな紆余曲折を経てやっと本を出すことができました。
―今やアマゾンの「商品開発」部門でベストセラーですね。
「ビジネスパーソンに向けて徹底的にドリルにしよう、実践本にしよう」というところはブレなかったので、きっとコロナに負けなかったのだと思います。シンプルに描いて伝えるというのはオンラインでも必要なことだし、人に見せるためだけでなく自分の整理のためにも使えます。
本で紹介した内容は、私の8時間のセミナーの中でもいちばんシンプルで刺さりやすい部分を厳選しています。徹底的にこだわったのは「絵が上手に描けるようになる本じゃない」というところ。とにかく「丸と線だけ描ければいい」ということで、描くことのハードルを下げることがこの本の目的です。頑張って「絵」を描こうとしなくていいんだよ、と。
―本を出された今、今後の活動は?
『なんでも図解』を出したからといって、これから図解の道だけをまい進するということはないと思います。本はあくまでもひとつのツールで、これが一人歩きしてくれたらいいな、と。その代わり「えがこう!」という活動は続けていきたくて、これからも可視化につまづいて困っている現場の力になりたいと思っています。
現在はコロナの影響でオンライン営業が増えていますが、小難しい資料とかが増えて、誰も見てくれなくて困っている・・・ という声もよく聞きます。それを見やすくするお手伝いをするとか、会社の見せ方に悩んでいる人に伴走するとか、企業のダイレクトなお手伝いをしていきたいです。
考えすぎずに、動く
―若い社員など、自分のエッジを見つけるのに苦労している人も多いと思いますが、アドバイスをお願いします。
エッジを立てることをあまり深く考えないことがコツかな、と思います。本を出すということも、ベストセラーを出そうと思ったわけではなくて、とにかく出したい、自分の教えたことがどこかに届けばいいな、みたいにシンプルに考えて動きました。
これやったら失敗するんじゃないかとか、これはカッコ悪いんじゃないかとかを考えない。なにかをやる意味を考えすぎる前にやってしまう。だから、フラれることをおそれずに求められてもいない企画書を出版社に送ることもするし、コロナでみんな動けないときは「お絵かきおばさん」になって子どもに動画配信もする。
まわりが見えないぐらいに自分がこうしたい・・・ と突き進むことは「諸刃の剣」なんですけど、そこで120%の仕事をしてちょっとずつ信頼を勝ち得ることを積み重ねると、それは絶対に自分にとっての自信と答えにつながります。
「セレンディピティ」なんてものは本当はなくて、自分が1ミクロンずつ信頼を積みあげてきたから、それが起こるのだと思います。
―とにかく「DO」から始めることが大事なんですね。
「DO」のハードルが高いと思っている人は、たぶん自分で汗をかくのが怖い人なのかもしれません。私もすごく失敗が怖いし、人前で恥をかくのも嫌なんだけど、今やっておかないと・・・ という気持ちのほうが勝ってしまう。
例えば200ページの本を書くというのはとても怖かったんですが、4枚の紙に200ページ分を50個の四角いマスで書いてみたら、「あ、たった4枚なんだ」って思ったんですね。怖いものをなるべく目に見えるものにすると、暗闇で怪獣だと思っていた敵が、ライトで照らしてみたら小鹿ちゃんだったぞ・・・みたいな(笑)。
あまり難しく考えすぎずに動く。これに尽きるかもしれません。だから小さい手応えや成功体験を重ねて「うん、大丈夫だ」って動物の勘で思うんでしょうね。それは大阪で一人、パソコン通信に書き込んで「だれか教えて!」と訴えたときも、子どもを授かりそれまでの環境を捨てたときも、ボロボロの社屋に足を踏み入れて、「この人たちと仕事がしたい!」と思ったときも、一貫していたかもしれませんね。
[取材・編集] 岡徳之 [構成] 山本直子 [撮影] 藤山誠
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