株式会社毎日新聞社 / 記者
毎日新聞社を退職
小渕恵三内閣発足の日、自民党の大講堂で取材を行なった。 「小渕、万歳!」の声が聞こえた瞬間、右耳がピーンと聞こえなくなる。 突発性難聴かと思ったが、病院で診察を受けたところ脳腫瘍だった。 その後、3ヶ月休職。復帰後は東京版担当になったが、1年後に再び東京社会部に復帰を求められる。 そのときに、これまで張りつづけていた糸が切れたようになり、退職を決意。
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フリーランス / ジャーナリスト・作家
1961年、兵庫県生まれ。 かつてはあった人生のレールが取り外されつつある今、重要なのは「健全な生活」を送ることでしかないのではないだろうか。変わりゆく社会に、文句を言っていても仕方がない。触れる情報、読んだ本、出会った人などさまざまな経験を頭の中で分析し、自分なりの思考を組み立てる。そうして、自分が進む道、生き方を選び取ることが、これからの社会を生き抜く術だと信じている。
テクノロジーによって変化する死生観や宗教観についての本を書きたい。また、同じ文化観を持つ人たちとの新しい共同体を創出したい。
テクノロジーが進化し、近代と呼ばれる時代が終焉を迎えるなかで、社会がどう変わるのかを知りたいし、書いていきたい。
編集者として、物事を掘り下げて分析、解析する記事づくりを行う。
『月刊アスキー』リニューアルに伴い、いまはもうなくなってしまったWebメディア『ASCII24』に異動。 黒子的な存在の雑誌編集と異なり、署名記事を書くことが増えた。 存在感をアピールでき、知名度が上がるWeb記事のおかげで、フリーランスになっても何とか暮らせるだろうと思うことができた。 3年ほど編集者をやって思ったのは、編集者は基本的に管理職だということ。 ライターから校了間際にあがってきた原稿を読んで、「これはひどいから俺が書いたほうがいいな」と思ってしまったことをきっかけに、会社を辞めて書き手に戻ろうと決意した。
いまはなき雑誌『月刊アスキー』で編集デスクとなる。 ITの知識では同僚に歯が立たなかったけれど、記者時代の取材経験を生かして、迷惑メールを大量に発信していた悪徳業者への突撃インタビューなどを実施。 ほかにはない記事として、好評を博す。
小渕恵三内閣発足の日、自民党の大講堂で取材を行なった。 「小渕、万歳!」の声が聞こえた瞬間、右耳がピーンと聞こえなくなる。 突発性難聴かと思ったが、病院で診察を受けたところ脳腫瘍だった。 その後、3ヶ月休職。復帰後は東京版担当になったが、1年後に再び東京社会部に復帰を求められる。 そのときに、これまで張りつづけていた糸が切れたようになり、退職を決意。
遊軍記者時代は、エジプト・ルクソール観光客虐殺事件などで海外テロも取材。 夜、ポケベルに電話がかかってきて、出ると「今からエジプトに行くぞ」などと言われたり、とてもハードな日を過ごしていた。
ひたすら足と時間を使って、被害者遺族へのインタビュー、刑事からの情報収集などを行う。雨の日に刑事の家の前で出待ちすることも当たり前にあった。 記者としてそこそこ特ダネは取っていたが、あまりにも泥臭すぎた。 殺人事件を追うことは誰が犯人かを突き詰めるだけ。分析的な視点が少なく、物足りなさを感じていたことは、退職を考える一つの要因になった。
年に20日しか学校に行かず、山登りやロッククライミング、パソコンを使った政治討論などに興じていた。7年目に中退。
京都から上京し、バブル前夜の浮かれた空気が漂う東京の街についていけず、山登りに没頭するようになる。 ロッククライミングや冬の登山など危険な山登りを繰り替えした結果、2回ほど死にかけたことも。 なぜあんな風に山登りをしていたのか、当時は自分でも理由がわからなかった。 しかし、社会人になってから『荒野へ』という本を読み、誰もいない荒野に行き、極限の中で自分を試したかったんだと気づいた。
株式会社毎日新聞社 / 記者
小渕恵三内閣発足の日、自民党の大講堂で取材を行なった。 「小渕、万歳!」の声が聞こえた瞬間、右耳がピーンと聞こえなくなる。 突発性難聴かと思ったが、病院で診察を受けたところ脳腫瘍だった。 その後、3ヶ月休職。復帰後は東京版担当になったが、1年後に再び東京社会部に復帰を求められる。 そのときに、これまで張りつづけていた糸が切れたようになり、退職を決意。