みなさんこんにちは!
なるテック(東成瀬テックソリューションズ株式会社)採用広報部です。
今回は弊社の社長である近藤を紹介します!!
近藤社長の幼少期から大学生時代までを振り返り、会社設立の背景や事業への想いを熱く語っていただきました!
ぜひ、最後まで目を通してみてください!
今回は近藤社長の幼少期から現在の起業に至るまで、インタビューさせて頂きます!
早速ですが、生まれは北九州の漁村だとお伺いしました。
幼少期から高校時代まではどんな生活を送っていましたか?
小学校5年生くらいの時に、地元の中学校がヤンキー中学で、このまま何も考えず進学したらわたしの人生が破滅するなぁ。と危機感を覚え、父親に頭を下げ、母親に送り迎えをお願いして、私立の中学に行かせて頂きました。
↑イカをさばく小学生の近藤
それから勉強をして当時、北九州市内で偏差値一位だった高校に行き、受験勉強を必死にして防衛大学校に進学しました。
生徒会長をしてみたり、体育祭の応援団長になってみたり、何かと催し物が好きな少年だったと思いますが、変わり者だったので友達は少なかったですね。
勉強は嫌いでしたが、人生には本気でした。なので必死に勉強していましたね。
というのも幼少期、漁師のじいちゃんとばあちゃんから、「おい、じゅんき!自営業は安定せんけ、サラリーマンになれ」と言われ続けていたので、「そうなんだ~。サラリーマンになるぞ~。」と思っていました。
ただ、運送会社のサラリーマンの父は子供3人を大学に行かせるのに苦労していました。
母が私の学校への送り迎えをしてくれて、その足でパートに出かけるのを見て「むしろサラリーマンにはなったらダメなのか」と肌で感じていたのがきっかけです。
最近も父と飲みながら話すのですが、あの頃の子育ての苦労話を聞くと頭が上がりません。本当に感謝していますね。
↑pumaのトレーナーを着ているのが近藤。
中学受験をしたことや高校で生徒会長になるなど、大学生になるまでに非常に多くのチャレンジをされていたんですね。大学時代はどんな生活を送っていたのですか?
私が進学した大学は自衛隊の幹部を養成する「防衛大学校」で、横須賀にあります。
・朝はラッパで起こされる
・上半身裸で乾布摩擦をする
・雑巾がけで1分1秒を争い、遅いと胸ぐらを掴まれ激怒される
・アイロンがけでシワがあると普通に殴られる
・自分のミスのせいで同期が腕立て伏せと空気イスを永遠にやらされる など、
日常がまさに戦時中か?と思うような状況でした。
↑防衛大学校イメージ画像
この日常を過ごし、戦闘訓練もしながら、大学の勉強をするところです。
1年目はとにかく上級生にシバかれており、忙しいので余裕がなく、気づいたら終わっていました。
2年目になってシバかれる側からシバく側になるので余裕が生まれ、自分の将来を考えた時に、幹部自衛官になるということが職業としてはなんか違うなと感じてしまいました。
どうしても自衛官というのは政治家の命令がなければ訓練しかできない組織で、幹部で実際に活躍されている方とお話をしていてもこの仕事に就きたいと思えませんでした。
防衛大学校では学費はもちろん、衣食住にかかる費用はすべて国費で賄われているのもあり、幹部自衛官になる気がないのにこのまま防大で過ごすのはドロボウだなと思っていたので、2年目の途中で中退しました。
そこからいくつか選択肢はありましたが、当時私は何がやりたいかが明確ではなく、
まずは東京に出て人生経験を積みたいと考えました。
ですので今一度父親に頭を下げて、実家で受験勉強を半年やらせてもらい、明治大学に進学しました。
↑防衛大学校イメージ画像
お話を聞く限り、なかなか想像しづらい非日常的な生活だったんですね、、。
そして、将来のやりたいことを明確にするために、東京に来ることを決めたんですね!
明治大学時代では、歌舞伎町でホストやDJをやったことがあるとお聞きしましたが、なぜ始めたのか、きっかけをぜひ教えてください!
上京して間もない時、テレビで見たカリスマホストとは何なのか、この社会の欲望の渦の中心はどうなっているのかを知るべく、新宿歌舞伎町のとあるホストクラブをネットで検索し、電話をして、アルバイトを始めました。
100万円越えのブランデーが軽々と開いているのを見て、「こ、これが歌舞伎町なのか」と心が震えました。
実際に働くと、
・地道な新規営業
・お客様に時間と空間を楽しんでもらうための高度に計算された戦術
・心理学に裏付けされたテクニックやセルフブランディングの技術
が必要でした。
そして何より、ライバルでもある同じ店舗のホストに、ヘルプで協力をしてもらう人間力、つまりは人格が必要です。小手先のテクニックでは5万円のシャンパンは開けられても、やはり長期に信頼関係を築く力、いわば人格がないと100万円のブランデーは開きません。
私はどうも上手い事が言えず、5万円のシャンパンすらほとんど注文頂けない、売れないホストでした。
約2年ホストで勤め、そこで得た対人関係スキルを活かして、イベント事業を始めました。
その中で自分もプレイヤーとしてDJができた方がイベント運営をしていくにあたり都合がいいなと思い、DJを勉強し、ある程度ターンテーブルやミキサーはいじれるようになりました。
他にはタイに留学してみたり、カメラ部品のせどりを始めてみたり、いろいろなことを経験しましたね。
↑タイに留学した近藤
2年間もホストを勤められていたんですね!!
ホスト経験から『人間力』や『対人関係スキル』を学び、さらにはイベント事業の運営に繋げていることには驚きました!!さすが社長です、、!
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他にもホストやイベント事業以外にも大学生活で勢力的に頑張ったことはありますか?
大学時代に経営者になろうと思った経験や当時の就職活動のことも踏まえて教えてください!
大学時代はイベント事業で、普通にバイトするよりはいいなと思えるくらいの利益を出すことができました。でも私は当時、とにかく稼ぎたかったんです。
↑大学のサークルの集合写真
イベント事業は規模も小さく、社会を知らなかったので、就職することにしました。
就活ではコンサルか広告を見ていました。コンサルは如何にクライアントの経営課題を解決に導けるかという仕事なので、広告は如何にクライアントの売上を上げるようにできるかという仕事なので、自分が今後事業をやるには最適だと考えておりました。
就活の面接では、「2年以内に御社を辞める予定ですが、その間に爆発的に成長して御社の売上向上に貢献します」と、堂々と話していました。と、いうのも2年以内くらいに独立することを隠して入社するのはスジが通っていないと思っていたからです。会社に入社するということは、仕事のできない新卒の私に企業側が投資してくださるということなので、企業に売上貢献せずノウハウだけをもらって独立するのは、いわばドロボウだと思っていたからです。
そんな「すぐ辞めるよ」発言をしていた私を拾ってくださったのが、株式会社フルスピードというWeb広告代理店の会社で、大学4年の時からフルタイムで働かせて頂き、セールスやマーケティング、Webに関する知識を主に学び約2年で退職し独立しました。
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大学4年からフルタイムでWeb広告代理店の会社で働いていたんですね!
大学を卒業してから『なるテック』を起業するまでに挫折した経験や苦労した経験はありますか。
その後はフリーランスで広告代理店事業とマーケティングコンサルティング事業を行ったのですが、まぁむちゃくちゃ大変でした。
主に私の分野はセールスプロモーション、つまりイベントなどを絡めてアプリや商品のPRをし、クライアントの売上に貢献するという仕事です。
当時はゲーム会社や広告代理店からお仕事を発注頂くために、とにかく六本木や銀座の街で飲み歩いて、渋谷や赤坂で合コンをセッティングしまくって人脈を形成していました。
↑フリューゲルの執行役員である木佐一(左)とはこの時期に飲み会で出会いました。
やはり現実は厳しく、貧困を極め、とにかくお金がなかったですね。
昼は派遣で事務職をし、夜は日雇いでピッキングをしてなんとか食いつないでいました。
出資を受け飲食店事業を開始しても、私の実力不足で倒産の危機に瀕し、アルバイトスタッフに給与が払えず、支払いを待ってもらうためにただひたすらに謝るという経験もしました。
ただ一方で、義理人情や礼儀を大切にしていたこともあり、うわべだけではない人脈を着実に構築していくことができました。
↑グループの飲食店の立ち上げを行った時の近藤
この時から、プロダクトの新規開発責任者をはじめIT関連のプロジェクトも複数携わることになり、全く知らない領域なので勉強しまくってキャッチアップしていました。
↑急にIT業界に飛び込んで苦戦する近藤
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仕事を頂くためにとにかく人脈形成に努められていたり、他にも、出資を受け飲食店事業を開始したりなど非常に多くのことを経験されていたんですね。
『なるテック』を起業するまでに得た成功体験は何かありますでしょうか。
大きく下記の2点が原点になります。
・Webプロダクトのリリース(クラウドファンディングサービス)
・フリューゲルの企画と立ち上げ
クラウドファンディングの事業は、懇意にさせて頂いていたオーナーから、次に取り組むべき新規事業を提案してほしいとオーダーを頂いたことがきっかけでした。
RBVに基づいて強みを分析し、当時の外部環境を絡めてロングリストを出して提案しました。その中でクラウドファンディング事業がオーナーに響き、5000万ほどの予算を頂けました。その後、プロダクト開発プロジェクトをマネジメントしましたがこれもやったことがないことだらけで焦りましたが、当時のメンバーの協力もあって、なんとか無事にリリースできました。
その後は事業部長を勤め、目標だった半年で1億の流通金額を達成し、任期を終えて離任しました。
そこから銀河ソフトウェア㈱の代表取締役である熊井氏に、とあるパーティーで出会いました。それから奇跡的に仲良くして頂いて、サシで飲みに連れていって頂けるようになり、そこで経営課題についてお話を伺いました。
課題は、当時500名ほどの組織だったグループをさらに成長させるにはどうすべきか?という問いです。
同氏の中では採用マーケティングの強化が解だと考えていらっしゃったのですが、それをどう進めるかが論点でした。
そこに対して、㈱フリューゲルの事業計画を提案しました。ビジネスモデルは全く同じで、教育や営業のリソースはグループと共有した子会社、いわば、OEMのような会社です。
その提案が承認され、そのまま立ち上げとなり、そこで仲間を集めないとと走り回っていたら木佐一と小島という気心の知れた女性2名が執行役員としてジョインしてくれることになりました。それからはあっという間に時が流れ、2022年現在、4期目となるフリューゲルはメンバー数80名に成長し、結果、銀河グループは600名体制になりました。
ですので、一定の成果を出せたと自負しております。
↑講義をする近藤
↑フリューゲルの執行役員、小島(左)と木佐一(右)
お金と人を動かしてきたこの2つの経験は素晴らしい成功体験ですね!!
『なるテック』を設立させるまでにたくさんのことにチャレンジされてきたと思いますが、どうして今回は東成瀬村での起業なのでしょうか。
東成瀬村で起業したかったのではなく、地方創生をやりたかったのです。
あ、ただ、地方創生については私は元々ネガティブな印象を持っていました。地方創生、つまり地方の魅力を磨き発信して、観光事業で売上を上げたり、地域経済を活性化し、移住者を増やすことなのですが、正直、過疎が進むのはその土地に魅力がないからであって、都市に住む我々にはどうでもいいことだと思っていました。
そして、移住者を増やすというのも、同じ日本の中で決まったパイを奪い合う世界観に見えて、ナンセンスだと思っていました。イス取りゲームで、イスの数は決められているのに、それぞれが頑張ってイスを取り合うようなことに思えて、馬鹿馬鹿しいとさえ思っていました。
なぜ、イスを増やすというアプローチをしないんだろうかと。
そんなところから、地方創生に本気になったのはある人の一言で気付いたんです。
そもそも、東京から地方に若い世代が移動するのが当たり前になれば、日本の少子化って止まるよねと。
つまり、地方なら子供3人産めるのに、東京だと1人産むのがやっと、という話をする友人もいます。
やはり、日本一生活コストが高く、子育てをしにくい街である東京に、日本一若者が集まっているという現象は、これやべ~んじゃないかと思っていました。
このままだと、我々の世代での社会保障費は膨らみ続けて、仕事をして、稼いだお金で家賃と社会保障費を払うだけの生活、子どもは本当は3人産みたいけど、お金もないし、育てられる自信がないから子どもは1人にしようみたいな世界が待っていることが想像できてしまい、これはどげんかせんといかんと思いました。
そんな時にコロナがやってきて、私の業界では仕事がほとんどリモートになり、今後もこの流れが主流になっていくということになりました。出社が必要な業務もありますが、リモートのみで完結する仕事も多く存在します。
ふと、フリューゲルがうまくいっているので、同じビジネスモデルを地方でやったらええやん!と思いつきました。
そうすれば、東京で生活コストが高く子育てがしにくい所にいる若い世代を、地方に呼ぶことができます。その結果、本当は子どもが3人欲しいけど、諦めて1人にしたという家庭が、本来の希望どおりに3人産み育てられるという、そういう世界が作れると考えたのです。
↑家でIT系の業務をやれば、子育てもしながら仕事ができるということを熱弁する近藤
その次は、じゃあどこでやるか?という話なのですが、
その時に地域おこし協力隊という制度を発見し、これで活動していれば立ち上げが早く進められそうだと考えました。それで全国津々浦々、ユニークな自治体を検索していきました。
自治体というとどうしても固いイメージがあり、私が何かいい企画を考えて持ち込んだとしても、誰かに反対されて潰されてしまう、なども想定できたので。
それでいろいろと情報収集や、実際に自治体の方と面談したりする中で、東成瀬村が最もレスポンスが良く、佐々木村長とWEB面談をしたときに、変わろうとする意志と強いリーダーシップを感じて、この村なら私の実力が大いに発揮できると思いました。
『地方創生』をやりたいこととして掲げ、東成瀬村以外にも多くの自治体を見てこられたんですね!
地域おこし協力隊のインタビュー記事はこちら👇
今後、『なるテック』で社長が実現させたいことや成し遂げたいことは何でしょうか。
日本全体としては、
・東京一極集中の解消への貢献
・出生率の向上
東成瀬村へは、
・地域の諸問題の解決
・若者の人口流出の解消
なるテックのメンバーへは、
・手に職をつけて自身の理想の働き方と報酬を得られるようになること
・居心地のいいコミュニティを提供すること
取引先には、
・リモートでもスムーズにプロジェクトが進むようになる、を当たり前にすること
このあたりをそれぞれ成し遂げたいと思っています。
最後に、社長の今後の目標やビジョンについて教えてください!
まずは、なるテックを5年で100人にします。
その過程で日本の平均年収以上に稼げるメンバーを50名以上輩出し、
東成瀬村をITで便利で安心な村にし、地方創生のモデルケースとなり、全国にいい影響や刺激を与えていきたいと思っています。
いろんな地域の方々が、なるテックの成功例を真似するために東成瀬村に視察に来るような、そんな感じになると面白いですよね。まだまだ始まったばかりですが、着実に成長させていきます。
近藤社長、本日はインタビューを受けて頂きまして、ありがとうございました!
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最後までご覧頂きありがとうございました。
記事をご覧頂き、少しでも『なるテック』にご興味を持って頂けましたらエントリーください!
気軽に一度オンラインでお話ししましょう!