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RITのメンバーを紹介するインタビューシリーズ第19弾は、コンサルティングパートナーの藤原仁です。翻訳事業、日本酒の卸売事業、さらにはPEファンドの経営へ―。柔軟な発想と迅速な判断力で、自らのキャリアを次々と切り拓いてきたその背後には、人脈を最大限に活かし、確実にビジネスチャンスを形にする巧みなスキルの存在があります。インタビューでは、翻訳業や日本酒ビジネスを起こした理由や、RITに入社するきっかけなどについて伺いました。
プロフィール 藤原仁 国際基督教大学在学中に起業し、貿易及びクロスボーダー事業開発支援に携わる。事業売却後、大手マルチファンドHenyepグループにて日本案件の統括を行った後に、国内戦略コンサルティングファーム Field Management にて不動産・エネルギー・クロスボーダー案件などを担当し、新規事業開発、BPR、海外進出支援などを実施。
理想と現実の狭間で見つけた生き方。異色のキャリアから始まる挑戦
―藤原さんは海外経験が豊富と伺っています
うちの家族は少し変わっていまして。「中学生になったら海外に行かせる」という家訓があるんです。その家訓に従って、祖父も親も行っていたので、必然と私も海外に行きました。最初はイギリスの全寮制学校だったのですが、その学校はかなり荒れていまして……。中学2年間通いましたが、その間ずっと「イギリスは嫌だ」「全寮制の学校は嫌だ」と親に訴え続け、最終的にアメリカに移ることになりました。アメリカではシアトル近郊の学校に行きましたが、自然豊かでみなさんとても親切で、環境は非常に良く、何の心配もなく穏やかに過ごせました。高校を卒業したあとはギャップイヤーを取って、学費を稼いでいました。家族から「自分で稼げ」と言われたので(笑)。
というのも、ニューヨークのジュリアード音楽院で作曲を学びたかったからです。でもジュリアードは学費が非常に高額なので、諦めてドイツの学校に進むことにしました。ただ、作曲について学ぶ中で、将来性が厳しいと感じるようになりました。作曲家として月10万円や15万円稼ぐことはできても、生活費を十分に稼げるレベルで成功している人は世界中で50人もいないことに気づいたのです。作曲で生計を立てるには、もう大学で教員になるしかないのですが、教員にはなりたくなかったので、別の道を探すことにしました。アメリカの大学も考えましたが、奨学金が得られず、再び学費の問題がネックとなり、日本の大学に進むことになりました。
翻訳から日本酒の輸出へ。学生起業で切り拓いた新しい挑戦
―どのように学費を稼いでいたのですか?
最初は個人事業主として翻訳の依頼を受けていたんですけれども、1〜2か月ぐらいやって、全く金にならなかったんです。そこで、翻訳の依頼を請け負い、作業を他の人に割り振って、自分はプロジェクトマネジメントに専念しました。小さな仕事をいくつか取り始めて3か月ぐらい経った頃には、ある程度大きい仕事が入ってくるようになってきたのですが、フリーランスやコンサルタントのように個人としてプロジェクトに参加するというよりも、プロジェクト全体を請け負う形だったため、法人でなければ依頼が難しいケースが多くなり、法人化に踏み切りました。当時は仕事をお願いしている翻訳者が世界中にいたので、時差の都合で、2時間寝て起きてミーティングして2時間寝て起きてミーティングして……みたいなことやってました。なつかしいですね(笑)。
―大学入学後も翻訳の仕事は続けたのですか?
そうですね。続けてはいたのですが、大学在学中にまた別の事業を起こしたんです。そのきっかけは、実は私、フェンシングもやっていまして、試合の関係でいろいろな国に行って、そこで対戦相手と仲良くなることが多いのです。その中で特に仲良くなった香港出身の友人がいまして、ちょくちょく香港に行ってその友人と飲んでいました。
あるとき、日本で言う渋谷の道玄坂裏のようなエリアで友人と飲んでいると、日本酒がメニューにあったんですが、価格が非常に高く、驚きました。なぜこんなに高いのかと尋ねると、酒税の関係であったり、プレミアムがかかっているとのことでした。ちょうどその頃、海外で日本酒ブームが始まっていたんです。日本酒がこれほど売れていることを知り、私自身もお酒が好きだったので、「それなら日本酒を売ってみよう」と思い立ちました。
その場で友人に「日本酒の卸は難しいかな?」と尋ねたら、「そんなに難しくないよ、知り合いのレストランをいくつか紹介できる」と言われ、紹介を受けたので、すぐに日本に戻り会社を立ち上げました。そして香港でも会社を設立し、日本の酒蔵を訪ねて卸してもらうように交渉を始めたのです。
しかし、問題もありました。翻訳マネジメントの仕事は基本的にフルリモートなので、別のスタッフに任せながら、大学の授業に出ることができたのですが、酒蔵を回るとなると日本中を移動する必要があります。さすがに学校への通学は不可能だと感じたため、休学を決断しました。
逆境には逆切れが有効!?学生起業からPEファンドまで、挑み続けたキャリアの軌跡
―起業への判断が早いですね。日本酒の卸売会社は順調でしたか?
起業にあたっては、たまたま良い人脈を得られたことと、若さゆえに周りが助けてくれたおかげです。特に年配の方々が助けてくれることが多かったです。例えば、仕事が欲しいという人が現れたり、知り合いのおじさんが「若いのに頑張っているから手伝ってあげるよ」と仕事を紹介してくれたりすることもありました。
翻訳の会社も合併してお酒の事業と翻訳事業とでプロジェクトを分けて進めていたのですが、会社の規模的には、常に16、7人くらいで回すような感じでした。しかし、お酒の市場はトップシェアを伸ばすのが非常に難しく、特に2017年頃から飽和状態になっていました。主要なバイヤーも市場の伸びも頭打ちになっていました。
さらに他国にも進出しましたが、どの市場も同様に飽和状態に達していました。私のような中小企業では、市場に強く食い込むのはなかなか難しかったです。積極的に投資して、市場シェアの6割7割を取りにいくような考え方ではなかったので。始めた当初に、もっとしっかりとやっていれば2、3割のシェアは取れていたかもしれないですね。
―その後、大学に復学されたのですか?
はい。ただ、復学はかなりギリギリで(笑)。休学延長手続きをしに来てくださいっていうメールがガンガン入っていたんですけど、当時は日本におらず、香港や中国などを拠点にして、香港から周辺の国々へ出張していましたので対応が遅れました。休学中もわずかですが休学費用を支払う必要があり、払わないと除籍になりますよと言われていたのですが、支払い方法が郵便で届いた振込用紙でしか受け付けないとのことだったんです。私はオンラインで振り込みたいと連絡したのですが、折り合いがつかず、最終的に大学まで直接行って、現金で無理やり支払いました。除籍は免れて、復学も果たしましたが、逆境には逆切れが有効かもしれません(笑)。
―卒業後のキャリアパスについて教えてください
就職に近い形で、香港で仲良くしていた知人のおじさんが新しい会社を立ち上げるという話があり、その会社で働くことになりました。彼は元々ファミリーファンドを運営しており、7拠点ほどを持って資産運用をしていました。その方が新たにプライベートエクイティファンド(以下、PEファンド)を立ち上げようとしていたんです。
PEファンドというのは、企業を買収してその価値を上げ、IPOさせたり売却したりする事業です。そのおじさんから「日本市場でも同じようなことをやりたいが、今暇だろう?」と言われ、日本の事業を担当することになりました。彼が望んでいたのは、単に事業だけでなく、不動産などのバックアップアセットも含んだ事業を買収し、価値を高めて売却するというものです。
―これまでの事業とはまた異なる分野ですね
全く違いましたね。特にステークホルダーが非常に多く、これほど多くの関係者が絡む仕事は初めてだったので大変でした。私は執行役員として雇われの立場で、日本市場のマネジメントを担当することになりました。買収先や銀行、投資家、そして売却先といった多くのステークホルダーが関わってくる仕事で、すべての調整を行わなければならない立場なので、全員の意見をまとめるのは本当に大変でしたね。
ここでは海外であろうと日本であろうと、根回しがどれほど重要かを改めて実感しました。みんなの利益を最大化するために尽力した、というのが一般的な表現かもしれませんが、実際にはそれぞれを説得し、最終的な結論に持っていくことに必死でした。
根回しは、むしろ日本以上に海外で必要だと感じるほどです。日本の商社も根回しをしますが、海外ではさらにプライベートに深く関わることが求められることもあります。例えば、ビジネス上の承諾を得るために、お酒の場で一度同意をもらい、翌日再度会って詳細を確認し最終承認を得るなど、日本でもよくあるやり方ですが、海外ではそれ以上に家族ぐるみの付き合いが求められることが多いです。アメリカや中国、香港、東南アジアなどでは家族ぐるみの関係が求められますが、ヨーロッパではそういったことはあまりないです。エリアによって異なりますが、特に南の地域ほど距離が近く、関係を深める必要があると感じます。
その理由として他国では他人を信用しにくい環境があるからだと思います。日本と違って他人を信頼するのが難しい状況も多いので、信頼関係を築くために家族を含めた深い関係が必要なのです。海外、特に政治的に不安定な地域では、相手を信用するのはリスクが高いです。信頼できない相手とビジネスを行うと、すべてを持っていかれるようなケースが多々あります。ですから、身近な人間としか大きなお金を動かしたくないのです。
―PEファンドの会社にはどのぐらい在籍したのですか?
2年ちょっとです。コロナ禍に入る直前まで働いていましたが、パンデミックの影響で海外投資が一気に止まり、投資家を集めるのが難しい状況になりました。プロジェクトがストップして、私もこのまま給料をもらい続けるだけで良いのかと悩むようになりました。
悩んでいる最中に、投資家の足が止まってしまったので、別の投資家を当てようという話になり、上司と中国に行くことになりました。向こうではロビー活動で頻繁にお酒の席に参加していたのですが、これがきっかけで体調を崩してしまったんです。もともとお酒は好きですが、その量を大幅に超えるペースで飲まざるを得なくて。命の危険を感じてこのビジネスはもう無理だと、会社を辞めました。
PEファンドを退職後、お酒と翻訳の会社も売却しました。先ほども話しましたが、トップセールスがこれ以上伸びないという状況で、次の一手が見つからなかったんです。コンサルの友人にもプロジェクトに加わってもらって試行錯誤しました。市場が再び盛り上がる可能性もありましたが、仮に伸びたとしてもせいぜい15〜20%程度で、倍々で成長する見込みはないと感じました。ヨーロッパへの進出も考えましたが、まだ市場が飽和していないとはいえ、イチからマーケットを開拓するのは相当な労力がかかる。最終的には「売却が最良の選択ではないか」という結論に至ったからです。
感謝される仕事をしたい、信頼できる人と働きたい。真の価値を求めて進んだ先の成長物語
―その後、何か別のお仕事をされたのですか?
売却後は1年間ほど遊んでいました。一応、今後のことはうっすら考えていて、コンサルになろうかなと思ったんです。これは、翻訳とお酒の会社を売却する際にコンサルの友人に助けてもらった経験が影響しています。というのも、お酒の販売では、感謝されたことがほとんどなく、契約を締結しても「ありがとう」とは言われない。それに、PEファンドのときも、評価してくれたのは上司くらいで、他の金融機関からはむしろ罵倒されてばかりでした。
今でも鮮明に覚えているのが、ある会社の買収時のことです。来月倒産するっていう会社を買おうとしたんです。その会社には銀行が25億円ほどの貸し付けをしていたのですが、私たちはその価値が10億円しかないと判断しました。「10億円しか出せない」と伝えたら、当然、銀行側は残りの15億円の行方を気にしますよね。そうしたら、ある銀行の50歳をとうに超えた担当者が、顔を真っ赤にして机をばんと叩いて立ち上がって「ふざけるな、そちらが全額負担しろ」「このハゲタカが!」と怒鳴り散らし始めました。私たちも「10億円出さなければ1円も回収できない」と説得したのですが、とにかく相手から憎まれる仕事だったんですよね。
そのような経験から、やはり「感謝される仕事をしたい」と強く思うようになりました。お酒の卸売の会社を友人たちに助けてもらったときは心から感謝しましたし、クライアントワークの現場に憧れを抱くようになったのも、その影響が大きかったですね。感謝される仕事、誰かの役に立つ仕事をしたいと考える一方で、同時に「仕事、面倒だな、したくないな」という気持ちもありました。しかし、ある7月の日に「このままでは一生社会復帰できなくなるかも」という強い危機感を覚え、その場で転職エージェントに連絡を入れました。
―それでRITに参画したのですか?
いえ、この時は、戦略系コンサルティング会社に入りました。この時、RITからも内定をもらっていたのですが、ポジションはかなり上のロールだったんです。コンサル未経験の状態でこの職務を務めることに不安を感じてお断りしたのですが、代表の安武さんと家が近いことが分かり、飲み友達になりました。
コンサルティング会社では通常の事業会社の3倍の速度で成長できると言われていますが、それは3倍働いているからこそだと、入社した会社では痛感しました。また、前職では自分の思い描いていたコンサル像とちょっとズレを感じてしまい、他のコンサル会社に行くか、コロナで止まっていたPEファンドが再始動したこともあり、香港に戻ろうかとも考えていた時に、飲み友達の安武さんから、「うちに来れば?」と誘ってもらったんです。検討していたどの会社よりも良いポジションを用意してくれたことと、安武さんのお人柄をよく知っていて、より信頼できる人のもとで働きたいという気持ちが強く、RITに参画することを決めました。
現在の仕事内容として、主に海外進出や日本進出の支援を担当しています。ファンドでの経験を生かし、ベンチャーキャピタルやファンド関連の案件にも携わっています。業務内容としては、デューデリジェンスやPMI(ポスト・マージャー・インテグレーション)、成長戦略といった、基本的に戦略や上流工程に関わる案件が中心です。
私は関わる相手、特にお金を支払ってくれている相手の売上をどう伸ばすかを常に考えています。単なる報酬に見合う働き方ではなく、スコープ外のことも含めて、クライアントの利益を最大化するにはどうすべきかを考え、行動することがお金をいただく意味だと思うんです。結果として、自然とコミットメントの高い働き方になってしまうため、多分私と一緒にプロジェクトやってるメンバーは結構大変だと思います。
AI時代だからこそ、コンサルタントとしての本質を追求し、専門性を磨く
―今までのご経験で、失敗から学んだことはありますか?
そうですね、最大の失敗は、リスクミティゲーションを甘く見ていたことです。日本酒の卸売事業でのことですが、東日本大震災後、食品や飲料、化粧品、医薬品などの製造品や食品関係の輸出に規制がかかり、中国政府も時々、港で本来規制対象でないものまで止めてしまうことがありました。私が輸出していた日本酒も、あるとき2か月間も港で止められてしまったのです。
日本酒はある程度の期間であれば常温で保管できますが、1〜2か月以上になると低温保管が必要になります。当時はリスクを軽視していて、コンテナに常温で積み込み、低温庫には入れていませんでした。結果、2か月間も止められてしまい、40フィートのコンテナがまるごと損失になってしまいました。この経験から、リスクミティゲーションに投資することの大切さを学びました。過去の事例をよく調べていれば、似たようなことが何度かあったのに、私がそこまで情報収集をしていなかっただけで巨額の損失です。情報収集の重要性を痛感しましたね。商品の品質やプロジェクトの成功を絶対に損なわないこと、チェック漏れがないようにすることを常に意識し、臆病なくらい慎重であることが大事だと学びました。
―挑戦してみたいことについてお聞かせください
海外支店を出すことです。中国やシンガポール、ホーチミン、バンコク、ソウルなど、アジアを中心に展開していきたいですね。今まで一度に複数の拠点を立ち上げる経験はないため、これは私にとっても大きな挑戦です。そこでバリューが出せるグローバルストラテジーとしてのサービスを提供していきたいなと考えてます。
私が手掛けている「グローバルストラテジー」は、各国の市場や業界、国家制度について広範囲にわたり理解している人材が必要です。たとえば、日本の医療や医薬業界と中国の医薬業界について詳しい人がいたとします。でもその人は業界には詳しくても、海外進出の方法ついてはわからないんですよ。そこはもう進出戦略という別領域なので、海外進出をするにはどのようなスキームを作ればいいのか、どういったアライアンスを組めばいいのか、どのような規制があるのかなどを知らなければできません。
ここは海外進出する時の一番上流の部分ですけれど、そのような幅広い知識を持つ人材は非常に少ないため、今後はグローバルストラテジーに強みを持つファームをアジア圏に展開して各国でジュニアメンバーを育成し、グローバルストラテジーの価値を提供できる体制を構築していきたいです。
―求職者に向けたメッセージをお願いします
コンサルティング業界全体のトレンドとして、生成AIが急速に普及しています。たとえば、アナリストの仕事をAIに任せた場合、通常のアナリストよりも成果が高いケースも出てきています。私自身、AIの精度にはまだ課題があると感じていますが、それでも基礎的なリサーチ業務や一般的なデータ収集に関してはAIによって時間短縮が可能になってきています。
このため、近い将来、リサーチ程度の作業はAIに任せられるようになるでしょう。これにより、コンサルタントも仕事量が減って、時間が浮くようになると思います。これは実際にうちのジュニアメンバーと話していて感じるのですが、AIに頼りきっていて、これからのコンサルの価値って何だと思う?と尋ねると、答えられない人もいるんですよ。
私はコンサルタントとしての真の価値、つまり「どれだけ顧客にとって有益な情報を提供できるか」が問われる時代が来ると考えています。AIでは実現できない、他のコンサルが思いつかない判断材料や打ち手を提示することが、コンサルタントの価値を生むポイントであり、その点を意識してほしいと思っています。