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離島生まれ離島育ちの取締役が語る、Entôの歴史とEntôの未来


連載:わたしの離島Life④

日本海に浮かぶ隠岐諸島に位置する島、海士町。
人口約2300人のこの離島には、なにかの引力がはたらいているかのように、
多様なバックグラウンドを持つ人々が引き寄せられ、生活をしています。

日本のどことも異なる離島の営みを紹介していく連載「私の離島Life」、今回は海士町生まれ、海士町育ちの春馬さんに離島Lifeをお伺いしました。島の高校を卒業した後は本土へ行き、また海士町に戻ってきてEntôのビジネスユニット統括部長を担っている春馬さん。海士町やホテルを昔から知っている春馬さんだからこそ語ることができる離島Lifeをお伺いしました。

■プロフィール 春馬清(はるまきよし)
島根県隠岐郡海士町出身。海士町にある隠岐島前高校を卒業し、本土へ渡り就職。その後、父親の病気が発覚し海士町に戻る。株式会社海士に転職し、Entô(旧マリンポートホテル海士)にてフロントスタッフを務める。現在はEntôのビジネスユニット統括部長としてEntôのあらゆる仕事を担当している。



離島暮らし・離島育ちのスタンダード

ーーまず、海士町で過ごした学生時代について教えてください。

海士町にある第一慶照(けいしょう)保育園、海士小学校、海士中学校、隠岐島前高校に通いました。慶照(けいしょう)保育園は現在のあまマーレになっているところですね。あまマーレは海士町教育委員会が運営する交流施設で、古道具屋さんやコワーキングスペースがある場所です。バスを使って通学していましたが、小学4年生からは自転車で山を超えて通学していました。

家では、親が漁師だったので、幼少期から家の仕事を手伝っていました。わかめの乾燥機が家のまえで回っていたり、堤防に落ちている針と拾ってきた竹で釣り竿を作って遊んだりしていました。休日は家事を手伝っていて、お風呂を沸かすためにまきを拾ったり、松葉拾いをしていたりしました。

薪拾いは誰もいない入り江に船をつけて船いっぱいに積んで帰っていました。隠れた入り江のほうが薪が多く拾えるんです。それを船いっぱいに積んで乾燥させました。

松葉は着火剤として火をつけるために拾っていました。この時代はまさしく自給自足ですね。子供ながらも日々生活するために働いていました。

ーー船で薪を拾いにいくのは聞いたことがなかったです。漁師さんの家ならではの家事ですね。

はい、ただ学生時代の私は海士町からは出たくて、高校を卒業した後は本土にある学校に進学しました。果物を作る学科でした。短大のような学校で、そこを卒業した後はそのまま本土で就職しました。

本土での仕事中心の生活

ーー念願の本土での就職は期待通りでしたか?

想像していたよりも、仕事中心の生活でしたね。休みも仕事を優先しながらとっていました。花屋さんで働いた後に、ホームセンターに就職しましたが、ホームセンターでは店舗のオープンに携わっていました。その後、店長も務めていたので、商品の仕入れ日を基準に、自分が休める日を決めたりしていました。お店の売上は必ず前年比を超えるように、と仕事一筋の生活でした。

しかし、海士町に住んでいる父親の白血病が発覚してこっちに戻ってくることになりました。今の海士町みたいに島留学や島体験の制度もなく、面白い海士町ではなかったので、このきっかけがなかったら戻っていませんでした

戻ってから、株式会社海士に就職しました。

株式会社海士の歴史

ーー海士町で再就職されたのですね。その頃はマリンポートホテル海士でしたね。

はい。株式会社海士は海中展望船あまんぼうの運営から始まって、それからマリンポートホテル海士の運営を始めました。今とは全く違って、団体客の受け入れが多かった時代です。何千人単位の宿泊を受け入れていたので、売上は団体に左右されていました。

その頃は、今の新館Annex NESTがある場所に1971年開業の国民宿舎の緑水園がありました。緑水園は男性5人部屋、女性5人部屋などの相部屋でした。今では考えられないですね。夜の宴会が多く、フロントスタッフの夜勤もありました。今では考えられませんが、月の半分は夜勤をしていたりしました。そこから、ご夫婦で旅行をされる個人のお客様が増えて、今の本館BASEの方のお部屋を販売するようになりました。

ーEntô一周年の際に飾っていた緑水園竣工記念品

そこから、累積赤字何千万円もあった赤字を0にしたストーリーがあったりしましたが、そのころはまだゲストに喜んでもらえる以上に目指す場所はまだありませんでした

「新しいホテルの魅力化をしていこう」という話が出たのはその時でした。そのころはまだ海士町観光協会に勤めていた青山さんも夜遅くにホテルに来て夜通し話し合いをしていました。隠岐諸島が隠岐ユネスコ世界ジオパークに登録されているので、ジオパークとしての予算もある状態でした。その予算が使える期限も決まっていたので、それまでにどんなホテルを作りたいか構想を練る必要がありました。

 ーマリンポートホテル海士時代のロビー

ホテルという価値観にとらわれたくなかったので、もとの「マリンポートホテル海士」のような”ホテル”という名前はつけたくありませんでした。”ラグジュアリー層”のように値段でホテルを判断するのではなく、本質でEntôを見てほしかったからです。

緑水園の取り壊し、建築設計図コンペの開始と、進んでいきましたが、施工者との契約が白紙になり1次は完全にストップしたリニューアル計画でした。ここは長くなるのでまたいつかお話します。

そこから、Entôスタッフやお客様のおかげでなんとか、今年の7月で開業から1周年を迎えました。
過ぎ去ってみるとあっという間でしたが、なんとかちゃんと想像していた通り、ホテルらしくない尖ったものができたな、と思いました。設計はMOUNT FUJI ARCHITECTS STUDIO(マウント フジ アーキテクツ スタジオ / 原田真宏(はらだまさひろ)さん、原田麻魚(はらだまお)さん)に依頼しましたが、その時麻魚さんがおっしゃった「最初に尖らないと、後から丸くするのは簡単ですから」という言葉がずっと刺さっていました。

廊下を部屋に含めるのか、そのまま廊下として建てるのか、といった議題があがったときも、尖る方向の選択肢を選ぶことができました。当初は、突き当りの部屋は廊下を部屋の面積に含めたほうが部屋が広くなるので、廊下を部屋に含める案で進めていきたいと思っていました。ホテルを経営する視点や、ホテルに宿泊するゲストにとっての利便性の面からそのような考えになっていました。しかし、「ホテルではない、尖った施設を作る」ということを考え直しました。当時の町長も尖った方向の図面に対して「この施設に泊まりたい」という一言を発してくれたため、この方向のままEntôを建設することができました。

それが今では、数々の雑誌やTVなどのメディアで取り上げていただいて、この道は正しかったんだな、と確信をもつことができています

取締役春馬さんの1日

ーーここまで詳しくEntôの歴史についてお伺いできたのは初めてでした。在籍年数が22年にも上る春馬さんだからこそ話せる内容ですね。入社当初はフロントをやったり、夜勤をしたりしていたとのことですが、普段はどんなお仕事をされているんですか?

「取締役」という肩書はありますが、Entôに関わることほとんど全てに携わっています。施設管理、人事、経営数字の確認などです。

朝は菱浦港(キンニャモニャセンター:キンセンと呼ばれている)にある「島じゃ常識商店」に行って、毎朝店番をしているスタッフと雑談をします。島民の方ともよく喋ります。キンセンにある「島じゃ常識商店」や「レストラン船渡来流亭(せんとらるてい)」も株海士が経営してるので、毎朝足を運ぶのが日課になっています。

Entôの事務所に出勤するのは大体8時か8時半くらいです。出勤したらまずはその日の予約情報を確認します。それからその月の売上や、今年度の売上、それに関する数字を一通りチェックします。数字を見ながら3か月くらい先の予約に対して戦略を考えることが多いですね。

それから、施設に関わる業者の方にメールを返します。お昼の時間は定例の会議が多いので、それに時間を費やしますが、Entôやキンセン付近を歩いているスタッフや島民の方と雑談をする時間も多いです。ただそれでも、スタッフ個人個人とはもう少し話す時間は足りないと思っています。ひとりひとりに、どんなことをやっていきたいのか、何に疑問を感じているのか聞いてみたいです。

最近は人事の仕事にも多く携わっています。夏忙しくなる時期に合わせてシフトを調整したり、社員が離島に引っ越してきて新しく住む場所を探すのを手伝ったり、本当に数えきれない仕事があります。

株海士としては、Entôという宿泊施設だけではなく、B&Bあとどや船渡来流亭(せんとらるてい)、島じゃ常識商店など、海士町の観光に関わる事業をいくつか運営しています。なので、関わる社員の数やアルバイトではいってくれる島民の方も多くなります。

ーーそうなんですね。より一層、春馬さんが管理する範囲が広がりますね。夏休みは島留学や島体験、隠岐島前高校からも手伝ってくれる方が多いと聞きました。

はい。島民の方の助けがあってこそ海士町にいらっしゃる方を万全の体制でお迎えすることができています

ー大晦日のEntô おせち配りのあとの株海士メンバー

これからのEntôに期待すること

ーー今後Entôをどうしたいか、お聞かせいただけますか。

そうですね。私は次の観光は若手が考えたほうが良いと考えているので、いま現場に入っている若いメンバーに託したいです。

Entôとしてもっとこういうことをやっていったほうがいいんじゃないか、とか、これを取り入れたらもっと楽しいんじゃないか、とか色々意見を言ってほしいです。日々の業務ももちろん大切ですが、お客様もスタッフも一緒に楽しめるような企画を考えていってほしいなと思います。

特に海士町は島体験や島留学制度で若い世代の出入りが比較的多くある島です。その利点を活かして、新しくこの島に来てくれる方には、この島での新しい出会いを大切にしてほしいなと思います。海士町では、新しい人が入ってきてくれることもあれば、違う場所に飛び立っていくこともあります。そういった人の流れを大切にしている場所なので、その流動性も楽しんでいただけたら、と感じています。

海士町に出入りする若い世代に対して

ーー若い世代の流入が多いとのことですが、新しくこの島にやってくる方に対してなにかメッセージはありますか。

実は、海士町に住んでいる島民は「島民と移住者」のような区別をほとんどしていません。むしろ「移住者」や「本土から来た・・・」みたいなキーワードを聞くのは新しくやってきた方のほうが多いです。なので気軽に、まずは旅行でもよいので海士町に実際に来島して島民の方と喋ってみてほしいです。みなさん気さくで、なんでも助けてくれるので心が温まると思います。

ーーつまり、移住者側は移住者だと思っているが、移住を受け入れる側は移住者と思って接していない、ということですね。私も海士町に来て、誰に対しても区別なく接してくれる島民の方々に何度も助けられました。

これからEntôに関わってくれる新しいスタッフも、この温かい環境のなかでわくわくするような+αの提案ができるとなると、なおさら離島Lifeが楽しみになりますね。春馬さん、お時間ありがとうございました。

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