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金融街から離島へ。学歴や経歴を手放し「人との関係性や小さな営みの中で仕事をすることを選んだ」理由。

連載:わたしの離島Life②

日本海の隠岐諸島に位置する島、海士町。
人口約2300人のこの離島には、なにかの引力がはたらいているかのように、
多様なバックグラウンドを持つ人々が引き寄せられ、生活をしています。

離島の営みを紹介する連載「わたしの離島Life」。第二弾は、離島歴5年目、Entôで一緒に働くメンバーから絶大な信頼を寄せられる笠原歩さん。畑作業の様子がもはや日常となった彼女は、都会で育ち東京大学を卒業、金融の中心街で働くという、離島とは無縁の人生を送っていました。今回はそんな彼女の人生と離島Lifeに迫ります。

プロフィール
笠原 歩:神奈川出身。東京大学を卒業後、大手金融機関にて5年間営業企画や金融商品の開発を行う。都会の価値観、社会観とは異なるモノサシではぐくまれる地で人の営みを体感したいと思い、海士町へ移住。現在はEntôにて宿泊ユニットのマネージャーを務める。


東京で積み重ねた時間とキャリア

--まず学生時代のことを教えてください。

神奈川県の川崎で生まれ育ち、中学から渋谷の学校に進学しました。渋谷なので、朝酔いつぶれて道で寝ている人の横を通学するなど、刺激的な生活でした(笑)。中学の時勉強が嫌いだったのですが、仲の良い友人が通っていた塾に通い始めたことがきっかけで成績が伸び、そのまま大学へ進学しました。

大学では新入生歓迎会の時期に体調を崩して、サークルに入るタイミングを完全に逃したのですが、クラスの人と遊んだり、文化祭の自治員をやったり、大学の外でフラダンスを習ったりもしていました。そして周りが大学のブランドを活かして家庭教師などをするなか、渋谷の魚民で三年間くらい働いたんですが、その経験は自分の原点のひとつになったと思います。今まで私は中高一貫校だったり、大学でも境遇がそれほど変わらない周囲のなかで生きてきたのですが、魚民の同僚たちは本当に多種多様で、同い年で家族のために働いていたり、役者やアイドル目指している人がいたり、家を追い出されて行くことがない人がいたりとか苦労している人もたくさんいました。これまで自分の見ていた世界はほんの一部で、みんないろんな想いを持って、いろんな状況のなかで生きているんだなと実感を持ちました。

その後就職活動の時期になり、昔から本が好きだったこともあり出版社をいくつか受けたのですが、落ちてしまって。他にやりたいこともなく、そこでどうしていいかわからなくなりました。悩んだ結果、経済学部だったということもあり、なんとなく需要のありそうな銀行や保険会社を受けたらいくつか内定をいただけたので、保険会社に入社することにしました。


--その会社ではどんな業務をしていたんですか?

入社して5年間その保険会社で働きました。1年目は会社や業務を知るという意味で営業をはじめ様々な業務を行い、2年目以降はいわゆる一般企業でいう営業企画のような仕事や5年目からは金融商品の開発などをしていました。そして、6年目が見えてきたタイミングで、役職が上がることになったのですが、そのまま働くことに違和感を持ち始めました。


--どんな違和感だったんですか?

そうですね。そもそもわたしは素朴な生活を好む両親から育てられたこともあってか、「今日天気がいいな」とか、「可愛い鳥が庭に止まっているな」とか、そういう小さなことに幸せを感じるタイプで、逆に「成功したい」とか「成長したい」、「こう見られたい」みたいな欲求は大きい方ではないように思います。働いていた会社には、能力の高い方がすごく多かったのですが、社会的なステータスやポジションが重視される雰囲気や価値観を感じる場面があったり、人間らしい温かみを感じられなかったりするところもありました。そうした違和感が徐々に自分の中で大きくなっていったのに対し、そのような価値観のズレを感じながら頑張れるほど、私に金融への想いや使命感があるわけではありませんでした。


「安定性皆無」を楽しむ離島キャリアとの出会い

--そのあとどうなったんですか?

結局その会社は6年目になる直前に辞めました。全く次を考えずに辞めたのですが、「一回都会を離れて、地方で暮らしてみたい」という思いはありました。そしてその時頭に浮かんだのが、知人が暮らしていて訪れたことのある海士町でした。知人からシェアハウスの生活をよく聞かされていて楽しそうだったので、深く考えずとりあえず海士町へ向かってみようと思い、すぐに東京から移動を始めました。とはいえこのまま行ったら住所も職もない人になるなと思い、一旦出雲のホテルに泊まりながら仕事を調べて電話したのが、Entoの前身であるマリンポートホテル海士です。すぐに面接が決まって、翌日今の代表である青山さんやGMの春馬さん、波多さんと面接をして、働くことが決まりました。

--面接の時の印象など覚えていますか?

そうですね。面接ではないのですが、当時、海士町の食材でJALのファーストクラスの機内食を作るというプロジェクトをマリンポートホテル海士でやっていて、海士町の食材をかき集めていた春馬さんに「ちょうど今から食材の芋を取りに行くけど一緒に来るか?」と誘われて面接後そのまま同行したら、その芋が腐って使い物にならなくなっていたんです。それに春馬さんも本気でショックを受けていて(笑)。

その時改めて島では人と人との関係性や小さな営みのなかで仕事をしていること、またその中ではこうした不測の事態も起こることを実感しました。大きな企業で働いていた自分にとって安定性皆無の状況のなか、前向きに物事を進めようとしている人たちを見て新鮮だったし面白そうだと感じました。

--強烈な印象ですね(笑)。


”ジオ”を感じる島暮らし

島の生活はどんな感じでスタートしましたか?

シェアハウスに住み始め、同居人が知り合いの畑や海に連れて行ってくれたりして、島の楽しみ方を教えてくれました。生活としては、午後からの出勤であることが多かったので、午前中は仲良くなったファームへ手伝いに行って畑をいじり、お昼前に帰って急いでシャワーとごはんを済ませて出勤。退勤後はシェアハウスの同居人達とゆるゆると呑み始めて、その流れで釣りに行ったりしていました。釣りって夜のほうがよく釣れるの知ってました?(笑)。単純に一日にいろんなことしたなという感じですごく濃かったです。


--楽しそうですね(笑)。都会で生まれ育った笠原さんにとって島暮らしはどのように感じましたか?

町の人の顔が見えやすいし、距離感が近くて、やっぱりそれがいいなと感じます。島に来て少し経ったころに家の近くの海沿いを歩いていたら、珍しいピンクの鯛が水面に浮かんでいるのを見つけてボーっと眺めていたことがありました。そしたらどこからともなくシュパっとおじいちゃんが現れて、道具で鯛を取って「さばいて食べな」と渡してくれました。私がその大きさの鯛を捌いたことのないことを知ると家まで捌きに来てくれ、刺し身の状態で皿に盛り付けて帰っていったんです。私の顔を見たことがあったという理由だけで(笑)。これは一例ですが、そうやって話しかけられたり、食べ物などをもらうことは多いんです。

またここで生活を始めてから自分で採ったり、もらったものを調理して食べるというルーティンができて、より「暮らしを営んでいる」という実感が湧いています。東京の時は外食やコンビニで済ませることが多かったのですが、畑を手伝ったりするとどれくらいの時間や手間がかかっているか意識するようになるんです。「6ヶ月かかって育てられたレタスを今一瞬で私食べたな。」みたいな。魚を捌いて食べるのもそうですが、物の成り立ちやどうやってできているか意識するようになりますし、「モノから受け取って生きている」という感覚を無意識のうちに持つようになったと思います。

隠岐諸島全体がユネスコのジオパークに登録されているのですが、単純な自然のことをジオと呼んでいるのではなくて、そこに人の営みが介在することでジオパークとなっているんです。ここで暮らしているとジオパークとは何なのかということを、知らないうちに感じさせられます。

--興味深いですね。


変わりゆく島の観光と自身の役割

--島での仕事についても教えてください。

マリンポートホテル海士ではフロントをやったりダイニングをやったりルーム清掃をしたり様々なことを行いました。そうして働いているうちにマリンポートホテル海士が大規模なリノベーションとさらに新館が建てられ、新しくEntôに変わるという、海士町観光の未来が懸かったプロジェクトが動き始めます。私も途中からプロジェクトに加わり、主に新しいホテルのオペレーション構築を行うことになりました。またそうやってホテルが生まれ変わるタイミングで大きく人が入れ替わり、オープン前に何人か新しいメンバーが入ってきたので、プレイングマネージャーとしてマネジメントの役割を持つことになりました。

--マネージャーとしての役割を持つなかで、意識したことはありますか?

そうですね。途中までは「道を指し示さないといけない」といったことも考えていたのですが、自分が強力なアイコンにはなれないなと感じました。新しく入ってきたメンバー達はやりたいことを持ってこの島に来ているのに対して、自分は特にそういうわけでもなかったからです。だから、まず話を聞いてメンバーと一緒に創っていこうと思いました。メンバーのやりたいことがうまい具合に実現できて、なおかつオペレーションも回るみたいな、そういう状態を目指しました。

またマネージャーになってシフト作成もするようになったのですが、シフトってどんな暮らし方をしたいのか、など人生に大きく関わるものだと思っていました。自分が島の暮らしを楽しめたように、オープン時で忙しいなかでも、なるべくメンバーが島の暮らしや自分の時間を作れるように意識したつもりです。

他には新しくできたEntôは建物の構造やコンセプト、それに伴うオペレーションや案内が大きく異なるため、「これまでこうしてきたよ」という教え方ができず、まず自分が進んでやってみるということに時間を使いました。そうやって試行錯誤を重ねその時々の最適解を見つけて、オペレーションにひとつづ落とし込んでいきました。


メンバーのWILLで島の観光とEntôを形作る

--ありがとうございます。改めて今後取り組んでいきたいことも教えてください。

未来に向けて「どんな施設にしていきたいのか、どんな価値を提供するか」というところがまだ具現化できていない部分があって、模索している状態です。もちろん大きな方向性としてはみんな同じイメージだと思うのですが、より具体的に未来の姿のイメージをメンバーで共有して、ゲストや島にとっての価値を体験やサービスに落とし込んでいくことが必要でそれに取り組まないといけないなと思っています。そしてその姿を実現させるのはメンバーなので、Entôの未来の姿をみんなのWILLで形作っていけるように頭を使って協力しながら取り組んでいきたいです。

またユニットマネージャーである自分のポジションをみんながやりたいと思えたり、ライフステージを経て働ける会社を作っていきたいし、自分のパフォーマンスを上げ、島の暮らしと両立させながら働いていきたいと考えています。

--最後に今移住や転職を検討している方にメッセージをいただけますか?

そうですね。何も考えないで来るくらいがちょうどいいような気がします。期待したり思い悩んでも、その予想を大きく上回ったり下回ったりしてくるのが離島なので、予想したり構えたりすることにあまり意味がないように思います。わたしも来た時に変な思い込みや過度な期待をせずに来たからそれが良かったなと感じます。等身大の自分でまっさらの自分で来るのがおすすめです。

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