こんにちは!
SEKAISHAの笠巻です!
今回はインターン生の三浦 永理さんに、「教育に対する淡い期待」について語っていただきました。
17卒として一度就職したあと、教員免許取得のため通信制大学へ通う三浦さん。
一度は社会に出た彼女を突き動かした「教育」への想いとは、一体何なのでしょうか?
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SEKAISHAインターンの三浦 永理です。
私は、大学卒業後、現在、教員免許取得のために、また別の通信の大学に通っています。
ついこの間まで、こういう選択肢があることすら知らなかったのですが、学生時代から感じていた「教育」への課題感から、次第に、教育業界に飛び込みたいと考えるようになりました。
一方で、「教育」という事業について、私自身何か幻想を抱いているような気もします。
「教育」が変われば、世界が変わる?
私たちを踊らしている「教育政策」は便利なものです。
国の未来を担う子供たちを育てるために、より良い未来のために、様々な提言がされます。
国際的な学力調査や、大学ランキングが注目されることも、「教育」がひとえに「国力を示す指標」と思っている人が多いからでしょう。
誰しもが「教育」を受けたことがあり、それに対する不満・意見を持つ機会があるからこそ、様々な意見があふれています。
そして、「子供には、自分と同じような失敗をして欲しくはない」という親心。
「教育政策」とは、その「子供」の範囲が、国中・世界中に広がっているようにも思います。
「子供たちにより良い未来を」と子供への期待は高まる一方で、全員に同じような多くの課題を渡しているのが、「教育政策」の現状かもしれません。
なんとも、淡い期待ではないでしょうか?
広い世界を見たくて、大学へ
私自身が、「教育」が変わる必要を感じたのは、大学時代でした。(1度目の)
他のSEKAISHAの皆さんの進学校話を見聞きすると、私も、違う特殊な世界にいたことに気付かされます。
私は、都内の女子高にいました。同級生の半数以上が内部進学、または推薦で、大学に進学しました。
一般入試で大学に入ったのは、私含めて、30人程度だったと思います。
私にとって大学入試は、「広い世界」を見るための選択肢でした。
「広い世界」の大学に、私は圧倒されました。
苦労して入ったのに、大学の授業は、つまらない講義と面白いものの差が大きすぎる。
留学生や帰国子女の多い学部では、授業でも英語の内容にはついていけなかったり、気が引けて発言できなかったり。
ずっと好きでやっていたことも、全国から学生が集まる大学では、下手の横好き。
早いうちから、広い視野を持っていれば、今とは違う方法を探していたのに、と思う日々でした。
「広い」教室の「小さな」世界
そんな中、大学3年の時、社会学に興味を持っていた私は、「教育社会学」に関する授業を履修しました。
(https://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/opinion/society_160411.html)
家庭の社会経済的状況が大きく子供の教育に影響していること。
ジェンダーの違いで親が子供に期待する役割が違うこと。
豊かに見える日本の社会にも、格差は確かにあること。
様々な研究でわかっていることが教えられました。
そして、私の学部には留学生や帰国子女が多かったものの、クラスメートたちと議論していくうちに、似ている部分も多くありました。
両親のいずれかが大卒またはそれ以上。
教育への投資に熱心な親の元で育っている。
周囲の同級生の多くが大学進学を目指していて、進学が当たり前だった。
家庭にある程度の量の書籍がある。
こんなにも違う一方で、この教室にいる人たちは似通っている。
当時の私には衝撃的でした。
私がみてきた世界は、本当に限られた一部だったのだと。
広がったように思った大学の世界すら、限られた人間しかいないということ。
そして、私たちが、それぞれの親に反目したとしても、そのレールに従っていることがほとんどなのではないか、というほどに影響を受けているということが。
その「教育」は誰のため?
社会にはさまざまな人がいます。同い年以外の人とも関わりを持たなくてはいけません。ですが、学校では、そういう機会が限られて、生徒たちは守られています。
中高生の多くが、8時前には学校について、部活をして、6時間授業を受けて、放課後には掃除をし、また部活をして、下校。
10時間以上を学校で過ごしている生徒も多いでしょう。
そこには、限られた大人しか関わることがありません。
その学校を選ぶきっかけになるのも、親や家庭かもしれません。
果たして、学校という場は、本当に、社会に出るための準備の場になっているのでしょうか?
そして、「教育」は、その人自身が望んで受けているものなのでしょうか?
ただ、誰かの期待に応えるためのものなのでしょうか?
私は、そんな現状が変わらないかと思い、教育業界を様々な側面から見たいと感じています。
何より、様々な人が教育現場に危機感を持っている今は、「教育」が変わろうとしている時代なのではないかと感じています。
そして、いつか、多くの人が「限られた大人に会うのではなく、より多くの選択肢に出会って、自分の将来を考える」ことが可能な「教育」の場を目指していければと思います。
それが、私自身の「教育」という言葉に対する淡い期待です。