すべての始まりは、「悔しさ」だった。
はじめまして。株式会社メンテモ代表取締役の若月佑樹です。
私たちがなぜ、SS(サービスステーション)という巨大な産業の変革に挑んでいるのか。そして、なぜ「優秀なあなたに、今ジョインしてほしい」と本気で願っているのか。その答えを話すには、まず私自身の「原点」からお話しする必要があります。
私のアイデンティティは、幼少期からずっと「反骨心」と「悔しさ」でできています。
「昔はすごかった」が、悔しかった
私は、父方も母方も経営者という家に生まれました。母方は今も続く自動車の鈑金業、父方はかつて宝石・貴金属の卸売業を営んでいました。 「営んでいました」と過去形なのは、父方の会社が、私が生まれる前に倒産してしまったからです。地元・山梨では、自社ビルを構えるほど目立つ会社だったと聞いています。
だから物心ついた頃から、私は周りの大人たちにこう言われ続けました。
「昔は、ワカツキはすごかったよね」
それが、たまらなく悔しかった。「昔は」って何だ。過去の栄光を、なぜ今の私に言うんだ、と。一代で築き、一代で失ったものへの複雑な感情——その反発心が、私のすべての行動の源泉になりました。
「普通」のレールに乗れない、生意気な学生
その反骨心は、当然のように学校生活にも出ました。私は「普通」の生徒が難なくできることが、どうしてもできませんでした。
ずっと思っていたのは、「裏の目的がわからないルールを、守る意味がわからない」ということ。高校では、自分で組んだ愛着のある自転車で通学していたのですが、「学校指定のステッカーを貼れ」というルールにどうしても納得できず、「何のために貼るのか」腑に落ちる答えをくれるまで先生と議論し、揉めました。
周りから見れば、ただの「生意気でめんどくさい学生」だったと思います。でも私には深刻な問題でした。「自分は、人が決めた枠の中でうまく立ち回って価値を出す生き方は、たぶん向いていない」。そう感じていた私は、「サラリーマン」という選択肢を、はじめから考えていませんでした。
かといって勉強や部活に熱中できたわけでもない。毎日が、ただただ「暇」でした。だから、自分でやるしかなかった。有り余る時間とエネルギーを、私は「事業」に注ぎ込み始めます。
世の中の仕組みをハックした10代
中学生の頃から、今思えば「事業」と呼べるものを10個以上は試しました。
1. iPhoneアクセサリ転売——知的好奇心と仮説検証
きっかけは、高校時代にバックパッカーとして訪れた東南アジアでした。タイ・バンコクに、秋葉原を一棟に凝縮したような「MBK」という商業ビルがあります。そこで、日本で2,000円ほどのガラスフィルムが、たった100円(30バーツ)ほどで売られていた。
「何かがおかしい」。直感的にそう思いました。ここで100円なら、大元の仕入れはいくらだ?「世界中を探せば、1枚10円で取れるんじゃないか」。そう仮説を立て、帰国後にアリババを調べると、まさにその通りでした。高校生ながら1,000個、10,000個と発注し、求める人に売っていく。これが、初めて明確にうまくいった「事業」です。
2. ホームページ制作——独学と価格破壊
事業には軍資金がいります。私は独学で覚えたHP制作で、クラウドワークスやランサーズを使って自分で稼いでいました。
なぜプログラミングができたのか。遡れば小学生の頃です。もともと電子工作が大好きで、「県下統一テストで1位なら1万円」と言われた時だけ猛勉強して1位を取り、その1万円を握って片道2,000円かけて秋葉原へ部品を買いに行く——そんな小学生でした。
ただ、電子工作は「ハード」なのでお金がかかる。800円のリレーを一つ壊すだけで、小学生には致命的です。「トライ&エラーを、もっと安くできないか」。そう考えてたどり着いたのが、パソコン一台で完結する「ソフトウェア」、つまりプログラミングでした。
趣味で身につけたスキルは、高校生になって「稼ぐ力」に変わります。当時のクラウドワークスは、実績数百件の猛者がひしめくレッドオーシャン。そこで私が取った戦略は「価格破壊」と「熱量」でした。30万円のコンペに「10万円でやります」と手を挙げ、みんなが1ヶ月取る納期を「寝ずにやれば3日です」と宣言する。さらに発注元のMVVまで調べ上げ、「御社のこの領域に興味があり、私ならこういうアニメーションを入れます」と熱のこもった提案を送りつけ、仕事をもぎ取っていました。
3. バックパッカー——異常な知的好奇心
そもそも、なぜ高校生で東南アジアへ行ったのか。これも知的好奇心の表れです。
私は昔から車(特にポルシェ)とAppleが大好きでした。ポルシェはドイツ、Appleはカリフォルニア。好きなものは全部、海外にある。だから海外に行きたかった。でも欧米は高い。LCCで往復2万円、1泊1,000円のドミトリーに泊まれる東南アジアは、高校生の私には最高の「冒険」でした。
当時の私は「地球の裏側で起きていることも全部知りたい」と本気で思っていて、暇さえあればストリートビューでウルグアイの街並みを眺めているような人間でした。
「普通」の枠に収まらない反骨心と、世の中の仕組みを知り尽くしたいという知的好奇心。この二つが、10代の私を突き動かしていました。
人生を変えた「熱狂」との出会い
そんな私にも、大学進学の時期が来ます。SFCのAO入試を受けましたが、ここでも面接官の教授とソリが合わず大揉め。「この学校には絶対に行くもんか」と、一般入試も受けずに辞退しました。
進学先はアメリカのコミュニティカレッジに決めましたが、入学は8月。高校卒業からの「暇な期間」が生まれます。そこでまた、いつものようにクラウドワークスで仕事を探していました。
それが、私の人生を決定づける出会いになります。
あるスタートアップからHP制作を受注し、ミーティングをすると、相手の社長(当時22〜23歳)が私をいたく気に入ってくれた。
「え、若月くんて山梨の高校生なの?面白いから、うちで一緒にやろうよ」「六本木にマンション借りてあげるからさ」
高校生に「六本木」は強烈です。即決でした。山梨から上京し、ドローンのスタートアップで働き始めたその日から、私の世界は一変します。
「死ぬほど、楽しかった」
教室で退屈そうに時計の針を眺めていた自分とは、真逆の世界。「寝ずに働けるって、こういうことか」と心の底から思いました。
何が楽しかったのか。それは「世の中はこうやって動いているんだ」という、リアルな手触りでした。ドローンパイロット、グロースハッカー——聞いたこともない職業の、とんでもなく面白い大人たちがすぐ隣にいる。学生時代に感じていた閉塞感の、ちょうど対極にある「熱狂」がそこにありました。
「これが、自分が本当にやりたかったことだ」。そう確信しました。
3週間のアメリカと、起業への決意
高3の1月から7月まで、約半年間そのスタートアップで働き詰めました。そして8月、予定通りアメリカへ渡米します。
けれど、私の心はもう決まっていました。あの「熱狂」を、今度は自分の手で創り出したい。
渡米前から、私は周りに「帰ってきたら、こういう事業をやる」と宣言していました。結果、アメリカでの滞在はわずか3週間。オリエンテーションにだけ出て、高額な入学金を振り込む前に、日本へトンボ帰りしました。
そして今、自分のルーツである産業に挑んでいる
——ここで、冒頭の話に戻ります。
母方は、自動車の鈑金業。父方は、宝石・貴金属の卸売業。
今のメンテモが手がけているのは、SSをはじめとする自動車領域のDXと、ジュエリーのリフォーム事業です。気づけば私は、自分のルーツそのものである二つの産業に、テクノロジーとオペレーションで挑んでいました。
どちらも、人々の生活を支えてきた巨大な産業でありながら、情報の非対称性とアナログな商習慣が放置され、変革が止まっている。「昔はすごかった」と言われる側ではなく、「今、変える」側に立つ。これは、偶然ではなかったのだと思います。
「昔はすごかった」と言われるのが、悔しかった。
「普通」のレールには、乗れなかった。
そんな私を唯一受け入れ、熱狂させてくれたのが「スタートアップ」という世界でした。だから今度は、私がその「熱狂」の舞台を創る。メンテモは、私の「反骨心」と、あの高3の冬に味わった「熱狂」の結晶です。
私たちのミッションは、「圧倒的付加価値の創造」。前例のない産業に、前例をつくることです。
この記事を読んで、もしあなたが——今の環境に「退屈」していたり、自分の中のエネルギーを持て余していたり、「普通」の枠組みにどこか違和感を抱いているのなら。
ぜひ一度、話しましょう。私たちは、あなたのような「普通じゃない」才能を、本気で求めています。