自分の人生を変えたくて、椅子に体を縛って勉強した。
ーー早速お話聞いていきたいと思うのですが、古徳社長はどんな子供だったんですか?
もともと生まれた時は体が弱かったらしくて、幼少期も喘息であまり外で遊んだ記憶はない子供でした。今では想像できないと思うのですが、部屋で絵を書いたりゲームしたりして過ごすことが多かったです。小学校4年生の時に弟の見学に付き添ってサッカーの見学に行った時に、楽しくてしょうがなくて。喘息だったから反対されたんですけど、親に交渉してサッカーチームに入らせてもらいました。最初は時間を決めて体に負担がかからないようにやってたんですけど、気づいたら喘息の症状が出なくなっていて。
だから、小中高とサッカーにのめり込んでいきましたね。でも、そのサッカーもグランドが遠かったって理由と、新人戦で10番をもらえなかったって理由で高校1年の時に辞めちゃいました。笑
打ち込んだ記憶があるのはそれぐらいしか無いですね。それでも社会人に混じってサッカーしてたんですが、部活もなくなったらやることがなくなって、放課後は麻雀したり、特に頑張ることもなく過ごしていました。
ーーそうだったんですか、、、体が弱かったなんて意外です。(健康そうなシルエットなのに。笑)その後どういう経緯で上智大学に行ったんですか?
中退してますけどね!笑
そもそも勉強なんてまともにしたことなくて、アルファベットもABCDEFG…とGまでしかわからないレベルだったんですよね。授業中にロケット花火するようなやつでしたし、黒板に背を向けて授業中にカードゲームしてたり、学内も結構荒れていました。学校でも悪目立ちしていて、修学旅行の時に飲酒した人達が居たんですけど、僕じゃなかったのに「こんな事するのはどうせ古徳だろう」みたいな感じで決めつけられてしまって。その時はじめて、日頃の印象で、やってない事でもやったと思われるんだなって痛感しましたし、そう思われてる自分も悪いなって感じて。結果停学になったんですけど、その自宅謹慎中に見たのがドラマの「ドラゴン桜」でした。
それで、確かにちゃんとした学校に行ってるってだけで、イメージ変わるよなと思ったし、「今自分が変わるならこの瞬間しか無い!」と思って高校三年の夏ぐらいから大学受験の勉強をはじめました。
ーーその学生時代が起業当初の尖ってた古徳さんにつながってるんですね!三年生の夏ってギリギリですね!実際ドラゴン桜のようにうまくいったんですか?
今はだいぶ丸くなったって言われます。体型もだけど。笑
そもそも僕は勉強というものをしたことがなかったので、かなり苦労しましたね。まず、椅子に座ってられないんですよね。だから、自分の体を自分で椅子に紐で縛り付けて勉強してました。笑
とにかく学力が低かったので、目標を「早慶上智」に定めてトイレと食事や睡眠など必要な時間以外はすべて勉強に当てました。「人生変えるんだ!」ってめちゃめちゃ勉強して、現役では日大法学部だけ合格。目標は早慶上智だったので、浪人しました。浪人時は予備校に行ってみたんですけど、受け身な勉強方法が合わなくて、なんとか自分にあった勉強法がないかと模索してました。それでも成蹊大学法学部にしか合格しなくて。ドラゴン桜よりは時間かかりましたね〜。笑
その後、地元で勉強続けるよりは、一度上京して大学に通ってみて、それでも行きたいと思ったら仮面浪人しようと思い、成蹊大学に入学しました。大学生っぽいサークルに入って遊んだりしましたけど、結局自分が決めた目標をやり遂げてないことが気持ち悪くて、仮面浪人して、遊ばずにずっと勉強してました。
その結果、上智大学に合格できて、上智にいきました。(本当は慶応法学部に行きたかったんですけどね、、ボソ)成蹊大学は1年しか通わなかったですが、今も仲良く出来る友人に出会えたので行ってよかったと思います。
ーー仮面浪人って結構な精神力が必要ですよね、、周りみんな青春謳歌してるわけですから。自分が決めた目標に対して必ず実現するってすごいなと思います。有言実行って言うほど簡単じゃないですよね。
そうですね。「早慶上智」の上智に合格するって目標は達成できました。
僕はもともと、自分で決めたことを達成してないのが気持ち悪くて仕方ないんだと思います。
この頃の日々の目標に向かってコツコツと積み上げて結果を出す成功体験は、今の高い自己概念を作って居ますし、このおかげで今もなんとか会社が生き残れているのでいい経験でした。
東京で生きるために運営しはじめた塾。とにかく結果が出るまでやるだけ。
ーー成功体験って、自分に偽りなく努力した人だけが感じるものですよね。実際、上智に入ってみて人生変わりましたか?
僕は、大学に入学することをゴールに設定していたので、その後の目的とかやりたいことについて考えてなかったんですよね。社会に出た今の方が、アカデミックの重要性を感じるので、本来は「とりあえず大学行く」みたいな感じじゃなく、必要を感じてから行くべきなんだなと思いましたね。
だから合格発表が終わって、大学の学費とか家賃とか考えて「東京めっちゃお金かかるやん」と思い、お金を稼ぐ方に意識が向いてました。笑
単純にバイトで時給いいものやろうと思いついたのが塾講師だったけど、計算したら自分でやったほうが稼げるじゃんって思ったし、純粋に自分みたいに勉強で苦しんでる子達に自分でやってきたことを伝えたいなと思って自分で塾を運営することにしました。こんな自分でも結果残せるんだってことを伝えられる仕事っていいなと思って。
ーー自分で!?思いついてもなかなか出来ないと思うのですが、生徒さんとかはどうやって集めていたのですか?
図書館とかで受験生らしい子を見つけて話しかけて片っ端から営業したり、Twitterやブログで自分の受験勉強経験を発信して生徒を集めたりしました。「実績は?」って聞かれたら、当然ないので「俺」って答えて。(笑)塾の料金って支払うのは本人じゃなくて親御さんなので、親御さんにも話に行って説得していました。めちゃめちゃ断られまくりましたけどね。
営業なんてしたことなかったので脳みそちぎれるぐらい考えてやっていたので、この時に今につながる営業力が身についたように思います。
結果、上智に入学する前の3月に動き始めて4月には2人、5月には合計4人の生徒を確保できました。1人月謝が5万だったので、5万×4人で月20万円の収入になりましたね。
まずはこの4人が合格できるように実績つけようと思ってはじめました。
ーー月20万って、、、もうそれは大卒の初任給ですね。(笑)
そうなんですよね。笑
もう、大学卒業後の初任給稼げたんだ〜って思いました。まあでも、生徒が辞めてしまえば収入0ですからね。厳しい世界です。
しかも受験期の冬は受験生って家で勉強する時間が増えるので、収入も減って、もやしばっかり食べてました。もやしコスパ最強ですよね。もやしで生活してた時期があるやつとは仲良くなれる気がします。笑
そこから大学も始まって塾を運営しながら大学生活をすごしていたんですけど、単純に1ヶ月やってきた塾講師の仕事のほうが楽しいなって思ってしまって、結局大学は途中で辞めてしまいました。
塾の方は有り難いことに生徒も結果が出て、初年度は4人中3人がMARCH以上に行って、1人は浪人。その浪人の子が居たから最後までやりきろうと思って2年目もやりました。ありがたいことに結果が出たので卒業生の紹介とかで2年目はマックス20人ぐらいの規模になりました。
成果がでれば、何も持ってない自分みたいな人間でも、社会はしっかり評価してくれるんだなって感じましたね。2年目は東大入学者もでました。
ーー先生超え!!
鳶が鷹を生んだってね。笑
ーー何もないところから始める営業力とか、行動力とかどこから来ているんですか?普通は尻込みしちゃうと思います。きっとそこで悩んでる人も多そう。
今思えば、幼少期の体験は大きいかなと思っていて、祖母がコンビニやっていたんですけど、そこを掃除したりお客さん呼んできたりすると好きなもの買ってくれるんですよね。笑
自分が何か価値を提供できると、リターンが得られるんだって学びました。喜んでもらえてリターンももらえるなんておいしいなって思って。笑
塾も、お金っていうより、受験で失敗してほしくないし、自分の情報でうまくいってほしいって思いはあったので、予備校とか通ってもうまく行かなかった生徒などに価値提供出来たかなと感じ楽しかったです。自分が提供するものには確信を持って営業していて、「絶対いいじゃん!」って思っているので、営業は面白いし楽しいって感じています。
そもそもすぐに結果は出なくて当たり前だと思っていて、結果が出るまでやるだけ。
それでいうと、決めたことに関してはどれだけ時間がかかってもとにかく達成したいと思う人生を生きています。
ーー有言実行GRITですね!塾講師のあとは何をされていたんですか?
塾は2年やっていたんですけど、月収100万ぐらい行った時、なんか食べるためだけになってるな〜と思っていて。漠然とそんな自分に気合い入れたいと思って塾やりながら深夜ラーメン屋でバイトをはじめました。いつも美味しい賄い食べられるのいいなとも思って。だからデブなのか。笑
で、ある時なんか足が痛いな思ってて、はじめは「そろそろバイトに飽きてきたから足痛いっって感じてるのかな?」とか思ってたんですけど、いよいよ耐えられなくなって足見てみたら、なんか足の親指に黒っぽい海苔みたいなのがくっついてて。海苔だと思って水で流そうとホースで水かけたんですけどとれないんですよね。よく見たら、海苔じゃなくて自分の足の皮膚の色だったんです。笑
ーー「そろそろバイトに飽きてきたから足痛いっって感じてるのかな?」って思うの頭おかしいですよね。(笑)それどうなったんですか?
なんかバイオハザードみたいになってて、その青緑黒っぽいのがどんどん広がってるんですよ。笑
足全部そうなるのかなと思いつつ、救急で病院に行ったら、夜中だったんで若い先生しか居なくて、「ちょっとわからないですねえ、、、」って言われて。
こんな痛いし、どんどん皮膚を侵食していってるのに、わからないってなんだよって思いながら眠れない夜を過ごしたんですけど、次の日に先生に見てもらったら「2度だね」ってサラッと。
要するに、薬品やけどの2度の状態らしいんですけど、いきなりその皮膚を剥がし始めて、激痛でした。
僕はこの瞬間「医療って全然進歩してないな」って思いましたね。笑
その後、正常な皮膚を移植する手術をするまでは、歩いたり走ったりしないほうがいいと言われて車椅子生活を一ヶ月ぐらいしていたんですけど、場所にとらわれる仕事って何かあった時に収入なくなってリスクだなとその時に感じて。どこでも生きていける力をつけたいと思ってアフィリエイトはじめました。
▲会社創業間もない頃
社会を、世界を変えたいからこそ、個人の時代に組織でやる。
ーーすごい出来事ですね。想像するだけで痛いです。(泣) そこからどうして会社を起業するようになったんですか?
ある程度突き抜けて、上京する時に4年以内に住もうって決めたタワーマンションに実際に4年以内に住んだり、掲げた目標をある程度達成していった時に、若干やりがいを失い始めて。
1日ずーとPCの前に張り付いて俺はこんなに必死にやってるのに、社会は何も変わっていかないんだなって無力さを感じました。
お金を稼ぐとか、いい暮らしをすることよりも、もっと社会を良くしたり、人が使ってる身近なサービスがやりたいと感じ、やることを探し始めて。
いろいろ考えている時に久しぶりに実家に帰ったら、弟が統合失調症で自殺未遂を繰り返したりしてると聞かされて、漠然と精神疾患とか知ってはいましたけど、自分の想像以上に苦しんでいることにショックを受けました。それと同時に、そうなった時にどうしたらいいのかとか、予防とか出来ることは無いのかということを調べ始めたのが創業時の出来事です。
弟は、オンラインゲームが得意だしランキング上位にいて、それってすごいことだと思うんです。
能力は高いと僕は思うんですが、精神疾患で仕事を探すとなると、誰でも出来るような仕事になってしまう。でも、その人の長所を伸ばす働き方をするほうが健全な社会だと感じて、それが今のルーツというコミュニティ運営や、COMPASSという障がい者雇用支援のサービスに繋がっています。
ーー弟さんの存在が今につながっているんですね。
でも、これは障害に限った話じゃなく、障害の有無に関係なくその人が最も輝けるところを探して伸ばす、才能の開花をする環境を作りたいと思っています。
僕は世界を変えるような仕事をしたいけど、僕自身は出来ることはなにもないと思っていて。仲間と一緒なら、世界を変える企業を創れると思ったので会社を作って仲間を集めることにしました。
今までの会社は「便利さ」を追求してきて、世の中のを便利にしてきた会社が大きくなってきっと思うのですが、今は世の中がそこそこ便利になっていて、「豊か」になれるようなプロダクトを作れる会社が世界をリードしていくと思っています。
だから僕は、人々の生活を豊かにするプロダクトを作って世界をリードしたいです。
ーー事業についてのお話はぜひ次回詳しく聞かせてもらいたいと思います!いつも、話をする時自信をもっているなと感じるのですが、その自信はどこからくるのでしょう?
そうですね〜なんだかんだ時間はかかっても目に見える結果を出してきて、決めたことで成し遂げられなかったことは無いことが自信に繋がっていると思いますね。
受験も3度チャレンジする人ってなかなか居ないと思うんですけど、目標と定めたことは全部達成して自分を裏切っていないことは大事かなと。結局急に目標が達成できるわけじゃないし、日々の積み重ねでしかなくて、その日々の積み重ねを愚直にやってきているし、割と周りの優秀な人に助けてもらえるのは、自信に繋がってるかもですね。
ーー確かに、自信って結果が出たときの副産物ですけど、自分を裏切ってたり自分が納得できる努力をしてないと自分の中に積み重なっていかないですよね。今日はありがとうございました!次は第二弾として、現在の事業についてのお話などを伺いたいと思います!