インフォバーンで働く社員へのインタビュー企画。今回は、2023年9月から新設されたビジネスディベロップメント部でユニットマネージャーを務める、アカウントプランナーの平石勝哉さんです。
平石さんは、インフォバーン在籍12年を越えるベテラン社員であり、長年にわたってクライアント企業と制作現場をつなげるプランナーという立場で、活躍されています。
インフォバーンの社員には、「未経験」であっても恐れずに取り組む姿勢が求められると語る平石さん。お話をうかがうと、ご本人がまさに「挑戦を恐れない」キャリアを歩まれていました。
就職せずにお笑い養成所の門を叩く
――平石さんは、ちょいちょい関西弁を話されますよね。出身は関西のほうですか?
京都です。通っていた大学も京都にあって、最初に入ったWeb制作会社でも勤務先は京都支社でした。ちなみにインフォバーンの同僚である菊石和徳さんは、実はその会社でも同僚だったんです。
――そんなつながりがあったんですね。どんな学生時代を京都で送っていましたか?
そんなに真面目なタイプでもなかったし、特定のサークルに所属するわけでもなく、ふらっと学校に行って学食で昼飯を食べたら、ゲームセンターに行くような生活を送っていましたね。大学に入っても高校からの友達とずっとつるんでいて、ボウリングしたり、友達の家でひたすら『ウイニングイレブン』や『鉄拳』をしたり。
――今のゲームはオンライン対戦が中心になってますけど、昔はだいたい『ウイイレ』とか『鉄拳』って、友達の家でみんなでやるものでしたよね。
そうそう、ネット対戦がない時代でしたから。でも、インターネット文化は盛り上がってきていたので、友達と遊びで「bokete」みたいな大喜利サイトを運営したりと、簡単なWebサイトをつくっていました。当時は他にも個人サイトをつくる人がたくさんいて、ある種のコミュニティができていたんです。誰かのサイトに投稿したり、自分たちのサイトに投稿されたりという交流があって、オフ会にも参加していました。
――「Web2.0」という言葉が流行って、「相互リンク、オーケーですか?」みたいなノリがあった時代ですね。
まさにそういう空気でした。今は個人サイトをつくろうという人は少ないんでしょうけど、その当時は「自分で自分のサイトを持てる」というのは新鮮でしたから。
――そうした経験もあって、就活でもWeb業界を目指されたんでしょうか?
いや、就活も何も、新卒で会社に入っていないんですよね。実は大学の3年生の終わりごろから、お笑いの養成所に入っていました。
――ええっ、そうなんですか⁉
大学3年生の終わりに入ってから、4年生の間と大学を卒業したあとの2年、トータルで3年間ぐらい養成所にいたんです。最初は友達を誘ったんですけど、「全然興味ない」って断られたので、その養成所に入ってから相方を探しました。ちょうど同じ歳で家も近い奴がいて、「ネタ合わせしやすいね」とその人と漫才コンビを組んでいました。
――平石さんはボケとツッコミだと、どっちだったんですか?
基本はボケでした。
――そうか、Webサイトで鍛えた大喜利センスが炸裂したり⁉
いやいや、全然そんなものないですよ(笑)。子どものころからテレビが好きだったし、お笑い芸人に憧れがあったというだけで。
――お笑い養成所というと、入学して卒業する学校に近いものでしょうか?
卒業という概念はあってないようなものですね。自分が通っていたところでは、基本的に毎週、構成作家さんにネタを見せに行って、ダメ出しされて、直してまたネタ見せして、ということを繰り返していました。あと、月1で新人でも出られるライブがあって、良いネタができると「今月はお前らが行って来い!」「ありがとうございます!」という感じで舞台にも出ていました。
――生活面ではどうされていたんですか?
大学を卒業してからは、映画館でアルバイトしていましたよ。それと、養成所の学生に声がかかる昼寄席の手伝いのバイトがありました。大阪の道頓堀あたりの劇場で、中高年を中心としたお客さんを相手に、ベテランの落語家さんや漫才師さんが出演される寄席です。僕らは舞台袖で待機しながら、芸人さんが入れ替わるタイミングで「めくり」っていう出演者の名前が書かれた紙をペロってめくったり、座布団を置いたり、マイクを置いたりしていました。
未経験からWebディレクター、退職してロンドンへ
――そこから就職されたのは、何かきっかけがあったんでしょうか?
養成所に通っておきながら、けっこう頭は冷静で、社会人になりたいのであれば「第二新卒」という枠が使える24、5歳くらいまでに、そちらに切り替える判断をしないと考えていたんです。だから、ちょうど大学卒業から2年ほど経ったときに、「これはもう就職するか」と決断しました。
――現実的に、「売れるまで絶対にやめない」と腹をくくるわけじゃなければ、「いつか」というのはありますもんね。ただ、それでなぜWeb制作会社に?
先ほど、大学生のときにWebサイトをつくって遊んでいたという話をしましたが、テレビが好き、エンタメが好き、というのと同じ感覚で、「インターネット」というものに面白さを感じていたんです。今振り返ると、広告業界、テレビ業界と同じような匂いを、インターネットの世界にも感じていたから、Web業界に入ってみたかったんだと思います。
それで求職サイトで「Webディレクター」の募集を見つけて、興味を惹かれました。「第二新卒」「未経験OK」で探したんですけど、専門スキルや経験が必要なデザイナーやプログラマーに対して、クリエイティブに携わる専門職であっても、コミュニケーション能力が重要なディレクター職なら、自分でも活躍できるんじゃないかと。
実際に応募してみたら、「アルバイトからどう?」と拾っていただけて、社会人としてのスタートを切りました。
――実際の業務としては、どういうことをされていたんですか?
未経験なので、最初は右も左も全然わからなかったんですが、CMSの更新をするような単純な作業を先輩に教わりながら、徐々にWebサイトをつくるようになっていきました。ECサイト、コーポレートサイト、キャンペーンサイト、検索サイトと、いろいろなWebサイトに携わっていましたね。
インフォバーンとは違って、社内にSEやプログラマーもいたので、客先にはSEの方と一緒にうかがっていました。そこから、僕のようなWebディレクターは主にフロント側でデザインやUI設計の要件をお客さんと詰めて、SEは裏側のシステムの仕様などを固めて、両者を合わせてサイトを完成させる流れです。
――今とまたWebサイトづくりの雰囲気も違ったかと思うのですが、いかがでしょうか? あんまり「マーケティングのため」といった明確な戦略的な狙いはなかった?
いや、僕が入ったころには、もう「Webマーケティング」という言葉もあったし、なんのためのWebサイトかは考えながらつくっていましたよ。クライアントも中小企業から大企業まで、とにかくサイト制作にはニーズがありました。途中から正社員になりつつ、前職には4年ほどいましたね。
――それから転職して、インフォバーンに?
そうなんですけど、実は転職する前にその会社を辞めて、半年間、語学留学していた期間があるんです。
――それはまた、どちらにですか?
ロンドンに。昔から外国に住んでみたいと思っていて、ちょうど20代の最後に会社を辞めて行きました。
京都で働いているときに、東京本社から異動してきた先輩がいて、その人から東京での仕事についてお話をうかがっていたんです。それで、もっと自分の見聞を広げたいと思うようになって、若いうちしかできないことだし、と飛び込む気持ちで。
――ロンドンでは何をされていたんですか?
午前中は語学学校で授業を受けて、午後はまともに英語を話せない留学生同士で公園で遊んだり、買い物したり、パブに行ったりと、傍目には留学生活をエンジョイしている、ただの学生だったと思います。「滞在中は絶対に日本語をしゃべらない」というマイルールだけ課して、片言の英語で暮らす日々を送っていました。
「上京ありき」でインフォバーンに入社
――そこから、なぜインフォバーンに?
日本に戻ってきて、東京で就職しようと思ったんです。やっぱり外国にいても、「東京」という街のことはみんなが知っているんですよ。ニューヨーク、ロンドン、上海といった国際都市に肩を並べているのが東京ですからね。せっかく日本人で、すぐ近くに世界有数の都市があるなら、そこに出て働きたいな、そこに住んでみたいなと。
――うかがっていると、平石さんはかなりチャレンジングにキャリアを歩まれていますね。
常に「なんとかなるっしょ」という気持ちはありました。上京するのだって、別に東京と言っても同じ日本ですし、そこまで怖さはないでしょう。
そうして東京で仕事を探すことを第一に転職活動をするなかで、インフォバーンに出会いました。Webディレクターで最初のキャリアを積んでいたから、やっぱりWebディレクター枠で仕事を探していたんですけど、エージェントから紹介を受けた企業の中にインフォバーンがあったんです。
たまたまその当時、小林さん(※インフォバーン創業者で現会長の小林弘人)が出していた『メディア化する企業はなぜ強いのか?』(技術評論社/2011年12月刊行)を読んでいたこともあって、「あの本の会社だ!」と思って受けてみました。
――『メディア化する企業はなぜ強いのか?』は、平たく言えば、オウンドメディア戦略やコンテンツマーケティングの重要性を唱える本ですが、そこに共感するところがあったのでしょうか?
そうですね。ちゃんと自分たちでコンテンツをつくれる会社、というのに惹かれました。それまでは、Webページを制作するなかで、「原稿はご支給ください」という形で、お客さんからもらったカタログ情報を流し込むくらいしか、コンテンツづくりには関わってなかったんです。
でも、個人的には、誰が見るサイトなのか、誰が使うサービスなのか、その人たちがどういう情報を求めているのか、というところから考えたかった。Webサイトをつくることが目的ではなく、中身として何を伝えるかのほうが絶対に大事だと思っていましたから。
インフォバーンに入ったら、自分はそれまでと同じWebディレクターという立場であっても、一つのチームとしてコンテンツまで考えて制作して、発信していけるようになれると思ったのが、入社した一つの動機でした。実際に入ってみても、それは期待した通りでしたね。
――入社した当時は、どのような仕事を?
オウンドメディア制作の仕事が多くなってきたころだったので、立ち上げ時はWebディレクターとしてサイトの設計や制作進行、運用フェーズは、アクセス解析と改修提案などをしていました。Webディレクターとして働いていたのは、最初の3、4年ぐらいです。
――それ以降は?
これは転職の理由でもあったんですけど、もともとゼロから顧客と向き合ってマーケティング戦略を固めるような、いわゆる上流工程にも興味があって。ディレクターからプロデューサーになるというのは、よくある形だと思いますけど、30代はそちらの方向に伸びたいなと思っていたんです。
とはいえ、転職していきなりプロデューサーの仕事ができるわけもないから、まずはWebディレクターの仕事をちゃんとして、積み上げていこうと思っていました。それで3、4年目ぐらいにインフォバーンに「プロデューサーユニット」が新設されることになって、「平石くん、こっちに移る?」と話をいただいたので、晴れてプロデューサー職に。
それ以降は、肩書はプロデューサーから今の「アカウントプランナー」に変わりましたけど、基本的な役割としてはずっと同じ仕事をしています。
――「アカウントプランナー」という職種に馴染みがない方もいらっしゃると思いますので、少しご説明いただけますか?
会社によっても違うと思いますが、インフォバーンでは「企画営業」というイメージですね。インフォバーンのアカウントプランナーに求められる仕事は、3層に分かれていると思います。
インフォバーンのことを知ってもらい、相談してみようとお客さんに考えていただく機会をつくるのが一つ。そのお客さんから実際に相談されたタイミングで、お客さん側の課題感や要件を整理して、インフォバーンで解決できそうかどうかを検討し、具体的な提案をするという業務。それから受注したあと、案件を通して継続的にお客さんとコミュニケーションをしていくフェーズ。大きくはその3つに分かれますね。
――お客さんと会社をつなぐ立場として、大変さもありそうですが、いかがでしょう?
そうですね……インフォバーンチームの代表として向き合うことになるので、責任を感じることもあります。それでも、お客さんと受発注の関係を超えて、ワンチームでどのようにゴールに向かっていくかを考えながら進んでいるときは、とてもやりがいがありますね。そういう意味では、あまり大変さを感じたことはないです。
――お客さんとの信頼を築くうえで、何か心がけていることはありますか?
「お客さんの立場になって考える」ことに尽きますね。クライアント企業の担当の方にも、会社から求められていることがあるはずですよね。その方が感じられているプレッシャー、その企業が達成したいこと、いろいろな背景があるからこそ、インフォバーンにお願いしていただけるわけです。
だから、そのプロジェクトで何を達成したいのか、クライアントと同じ目線で、同じ方向をちゃんと向いておく。そのうえで、さまざまなご要望に対して「こういうやり方はいかがでしょう?」と、建設的な会話を積み上げるようにしています。予算とスケジュールだけを話し合うコミュニケーションでは、お客さんの目線に立っているとは言えないですからね。
やってみない限り、一生わからない
――平石さんが12年にわたってインフォバーンで働かれている理由はどこにあるのでしょうか?
長くいようと意識したことはなくて、「結果的にいた」というのが実感に近いですね。でも、それは仕事に飽きるようなことがなかったからだと思います。社内転職じゃないですけど、ディレクターからプロデューサー、アカウントプランナーと担当業務も変わっていきましたし、途中からマネージャーにもなっているんですよ。そうして3、4年ごとにちょっとずつ違う仕事を任せてもらっているうちに、気がついたら時間が経っていたという感覚です。
――これまでたくさんの社員を見ているなかで、「インフォバーンにはこういう人が合っている」と感じるタイプはありますか?
とりあえず手を出して形にしてみる人が、インフォバーンでは強いと思います。言われたことでもなんでも、とりあえず一回やってみるという。
インフォバーンは、ご相談いただく課題感が幅広いので、ご提供するソリューションも多岐にわたります。オウンドメディアの戦略策定やコンテンツ制作だけでなく、イベント企画や冊子制作もある。プロジェクトのタイプとしても、コーポレートコミュニケーション、BtoB/BtoCのマーケティング、行政とのコミュニティ形成、プロダクトや新規事業開発、組織開発など、さまざまです。
それを一人のスキルセットや経験値だけでは対応できないし、場合によってはインフォバーンにいる人間の中でも経験がある人がいないこともありえます。だから、「今までの経験を駆使したら、できそう」とか、「背伸びしたら、たぶんできると思う」という気構えが求められます。
そういう人が、手を出してみて形にすることで成功できた案件は、インフォバーンにとってのフラッグシップになるし、それを2つ、3つと積み重ねれば事例になる。ワークフローも整備されていく。最終的には、インフォバーンのノウハウとして、一つの財産になって残っていく。
だから、とりあえず手を出してみて形にすることに、躊躇しない人間が向いていると思います。
――会社としていろいろな案件を請け負うなかで、誰しも何かしら未経験要素は出てきますもんね。
「こうしたらできそうだけど、やったことはない」ということは、たくさん出てきますから、そのときに手を出せるかどうかが問われますね。
――平石さんも今日お話をうかがっていて、恐れないタイプだなと感じました。将来不安とかは、あんまり感じられなさそうですよね。
いやいや、ありますよ。むしろ不安を感じるからこそ、選択のリスクについても考えてきたんだと思います。
先ほど話したように、新卒で就職しなかったけど、第二新卒までの期間だと自分の中で決めていたし、海外留学してるときも、1年ぐらい働いていない期間があったところで、自分の培ってきたスキルが形骸化しないだろうと考えていました。2年、3年と空いたら、どうなるかわからないけど、1年くらいなら多少勘が鈍ったとしても、キャッチアップできるだろうと。そうした見込みは立てていましたね。
――飛び込んではいるけれど、無謀なことはしていないという。
自分ではそう思っています。お笑い芸人を目指したのも、上京したのも、僕の中で「やってみたい」という気持ちが強かったんだと思います。要するに、一度はチャレンジしたかったんです。なんでもやってみない限り、一生わかりませんから。そうして手を出してみたことに、特に後悔したことはないです。違うと思ったら、やめたらいいんですよ。
――人生を賭けたバクチだという意気込まないほうが、視野を狭めずに挑戦できるということはありそうですね。ぜひ、インフォバーンに興味を持っていただいた方にも、躊躇せずに一度ご連絡をいただけたら嬉しいです。