7月11日(宵宮)と12日(本宮)は生國魂祭りです。氏地にあたる10町会の氏子が集まってご奉仕するのが習わしです。中央区が東区と南区に分かれていた頃の区分に従い東地区が枕太鼓、南地区が獅子舞、そして天王寺地区が神輿方を担います。例年、錢屋本舗本館は神輿巡行の際には休憩所になります。神様が氏地を巡行されながら、お立ち寄りくださって休憩しておられると思うとありがたい気持ちになります。昭和の時代は錢屋本舗の社員も神輿の担ぎ手をしていました。今は地域の神輿方に加えて清風高校や上宮高校の柔道部やアメフト部員らが手伝ってくれています。祭りの起源について明確な史料はないようですが江戸時代には行われていたようで、その伝統を守り残すことは少子化が進む昨今は厳しい事情もあるものの各地区で苦心しながらも続けています。大変だと思いながらも、地域の人たちが集まって伝統を守り続けることには良い面がたくさんあります。年に1度しか会わないような方とも挨拶を交わし、協力し合いながら地域の神様のために働くわけですが、こういったことは現実的には、万一この地域が被災した時などに避難所で役に立つと思います。もちろん神様も守って下さると信じます。
生國魂神社に祀られる神様が国土、日本列島そのものであることをご存じでしょうか?生國魂神社の社伝によると神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのみこと、後の神武天皇)が東征の際に難波津(諸説あるが高麗橋付近と言われている)から上陸し、今の大阪城がある場所に日本列島の神霊とされる生島神、その島々が満ち足りた状態の顕れとしての足島神を祭神として祀ったのが創建ということです。その後に、いったん南下しながら最終的には今の橿原神宮のある地で初代天皇として即位されたのが、この国の始まりとされています。生國魂神社の権禰宜が「日本の神話の終わりで歴史の始まり」と言っていましたが、古代の上町台地とはそういう場所でした。大阪城のすぐ南に難波宮跡がありますが、大化の改新の舞台となった都はこの難波宮です。よく誤解されますが、その発端となった乙巳の変(蘇我入鹿暗殺)の地は飛鳥、その後の政治改革の中心となったのは難波宮です。この難波宮の造営のために孝徳天皇が(当時、その地にあった)生國魂神社の境内の樹木を伐らせたという記述が日本書紀にあり、それが生國魂神社の名称の文献上の初出だそうです。1583年の大坂城築城の際に豊臣秀吉によって今の場所に遷座されました。
少子化が進む日本で上本町界隈は子育て世代も多く住む人気の地域です。神話の時代から続くこの場所で生まれた子どもたちが、そのことに誇りをもって育ってくれたらと願います。(文・正木)