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創業ストーリー 前編:「僕らのイチゴは未来を救う」日本の技術で挑む、世界最大の植物工場。

前編、後編2回に渡ってお届けするOishii Farmの創業ストーリー。
前編では、共同創業者で最高経営責任者(CEO)の古賀大貴(こが・ひろき)がなぜアメリカで日本のイチゴを生産する「Oishii Farm」を起業したのか、どのような思いでここにたどり着いたのか、そのヒストリーに迫ります。

“日本人として何かやりたい”

幼少期から、両親の仕事の都合で、海外に住む機会がありました。当時、インターナショナルスクールに通っていたのですが、学校には50カ国以上から来た生徒がいたにも関わらず、日本を知らない人はいませんでした。それはアニメや面白いコンテンツ、電化製品や自動車製品など、彼らの日々の生活の中に日本のモノが溶け込んでいるということであり、幼いながらに日本人でいることを誇りに思っていました。

しかし、私たちの世代は、高度経済成長期終焉後の「失われた20年」と言われた時代の真っ只中、「昔はよかった」と言われて育った世代です。私自身が海外で感じていたように、日本という国はとてもプレゼンスがあるにも関わらず、課題が山積みで、そのギャップにもどかしさを感じていました。この海外での経験が、「日本人として何かやりたい」という思いを抱くきっかけになりました。

スタンフォード大への留学経験で目の当たりにした世界のレベル

帰国してからは、中高大と日本の学校に通っていました。大学在学中、スタンフォード大学に短期の交換留学に行く機会があったのですが、そこで色々な国から来ている留学生と関わりを持ったことが自分の進路に大きく影響を与える体験になりました。

スタンフォードには、世界各国の名門校から、その中でもトップクラスの優秀な学生たちが集まります。彼らは、日本の大学で出会う同年代の日本人とは、思考の深さも、パッションも、見ているレイヤーも全く違い、世界のレベルの高さに打ちのめされました。彼らと日々会話し、様々な価値観に触れ合うことで、彼らとの差を痛感し、「このままではダメだ。世界に出なくては。」と改めて強く決意したことを覚えています。

大学卒業後、キャリアを選択するタイミングでも”世界”という舞台は常に意識していました。「早く世界の人たちと互角に戦えるところまで行きたい、そのための最も効率的な道は何か」と考えたとき、まず日本で社会人としての実践経験を積み、ビジネスの勘を磨いてからアメリカにMBA留学に行こう、という計画を立てたんです。

漠然と“世界”というキーワードは頭にあったものの、その当時はまだ自分が何をやりたいのかも明確ではなかったですし、色々な業界を多角的に見られそう、という観点でコンサルティング会社を選びました。

コンサルティング会社で見出した“農業”の可能性

コンサルティング会社では、金融、自動車、製造業、製薬など、色々な業界の大型プロジェクトに入りました。その中でも、直観的に興味を持っていたのが農業でした。日本の法律的に規制がされていたのもありますが、あまりビジネス面での改革が起きていない領域です。マーケットはかなり大きいし、今後も無くならない産業なので、私のような専門性のない人間でも、早い段階でこの領域に入っていれば活躍することができるのではないか、といった漠然とした期待感を持っていました。

私がいたコンサルティング会社では、農業は部門として存在しない程の規模だったので、私の農業への興味を確かめるため、社外の夜間で開講している農業学校に自費で通いました。これまで色々な産業を見ていましたが、農業はビジネスモデルがシンプルで、「良いモノを作って安く売る」という商いの原点みたいなところがあり、まずそこに魅力を感じました。そして、ここまで大きくブルーオーシャンがある産業もなかなかなく、この領域に大きなチャンスがある、と感じ、「農業をやってみたい」という思いがより一層強くなりました。

ちょうど社内で農業チームの立ち上げの募集があり、当時花形であった製薬チームから、迷わず農業チームに移りました。その時に最初に行ったプロジェクトが大企業の「植物工場」だったんです。植物工場は日本の技術で、世界で初めて商用化されたビジネスですが、ビジネスとしては成立していませんでした。技術的な問題でレタスしか作れない、しかしレタスは味に差が出にくいこともあり付加価値がつけづらい。結果、儲かるビジネスモデルを作るのが難しい、という状況だったんです。

アメリカの不味いイチゴと異常気象

そんな植物工場の現実を目の当たりにしながら、MBA留学に行く準備が整ったため渡米しました。このMBA留学中に、私のOishii Farm起業への後押しとなるいくつかの出来事がアメリカで同時に起きました。

まずアメリカに留学して驚いたのは、農業大国のアメリカ、その上一番作物が新鮮なところであるはずのカリフォルニアにいたにも関わらず、生鮮野菜が基本的に不味かった。特にイチゴなんか日本人からすると食べられたものじゃないレベルで、日本は農作物にとても恵まれていたんだなと改めて実感しました。

また、この頃は、世界的に異常気象や干ばつなど、農業を取り巻く環境が急変し始めた時期でもありました。「このままでは農業がダメになる」ということに世の中が気づき始め、“持続可能な農場”の解として注目を浴び始めたのが植物工場だったのです。それを契機に、一気に農業系ベンチャーへの出資が始まりました。その頃は、植物工場をやっている人は誰もいなくて、挑戦する人は出てくるものの、デューデリジェンスを出来る人はおらず、経験があった私のところへ色々な投資家からデューデリジェンスの依頼がやってきました。実はアメリカでも、あらゆる農業系ベンチャーが技術的に植物工場での栽培が比較的簡単な葉物(レタス)に流れていき、その結果価格競争が起き、なかなか事業として成立しなくなるという、私がかつて日本のコンサルティング会社で目の当たりにしていたことと同じ現象が起きていたのです。

なぜ「イチゴ×ニューヨーク」なのか

元々、植物工場は日本のお家芸で、日本の施設園芸がベースになっています。日本人が長年培ってきたものが、ベンチャー投資の波で海外勢に一気に持っていかれようとしていました。流れ込む金額は、日本が国全体で植物工場に使っている予算をすべて合わせたくらいの規模感で、桁が違う。このままだったら日本は一瞬にして追い抜かれるなと危機感を覚えました。それと同時に、日本初の技術で世界をとれるチャンスなのではないか、とも思ったのです。日本にいながらでは、植物工場のグローバル化はなかなかできない。そこで私たちは、日本の技術をもって、一番資金が集まるアメリカの地で、植物工場として適した場所にもっていき、そこで世界の植物工場と戦いたい、と考えました。それは小さい頃から「日本人として何かやりたい」と思っていたことを実現するチャンスでした。

もちろん、技術があってもビジネスとして儲かる仕組みにしなければ成立しません。そこで考え抜いた末にたどり着いたのがイチゴでした。新鮮なイチゴは、レタスよりも確実に味に差が出ます。この味の差があればあるほど、付加価値が高くなる。最初の作物は、イチゴに一点集中しようと決めました。

ニューヨークを舞台に選んだのは、美味しいものが何なのか、ということを分かっている人が一番多いと思ったから。欧米の中では一番食文化が進んでいるニューヨークで、本物の人たちに味の違いを評価してもらえれば、ブランドを確立できるだろうと考えました。

そしてもうひとつ、植物工場の一番のメリットである「どこでも作れる」ことを最大限に活かすため、産地から一番遠い場所が良かった。アメリカのイチゴの生産地であるカリフォルニアから離れたニューヨークには、美味しいイチゴがない。圧倒的なビジネスチャンスがニューヨークにあったんです。


後編では、共同創業者であるブレンダンとの出会い、そしてOishii Farmが目指す未来についてお届けします。
創業ストーリー 後編:「僕らのイチゴは未来を救う」日本の技術で挑む、世界最大の植物工場。

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