【小説】しあわせな白昼夢
しあわせな白昼夢 カーテンをふわりと揺らし教室に入りこむ風からは、春のにおいがする。 おだやかで、どこかむずがゆい空気を胸いっぱいに吸い込むと、何となく期待というのだろうか、わくわくした気持ちで肺が満たされるような気がする。それと、ほんのちょっぴりの切なさ。 ちらちらと隙間から漏れる白い日の光と風とで、私はうつらうつらと心地よいまどろみに身を漂わせていた。 ふと誰かが床に落とした鉛筆の音で、ここが授業中の教室であったと思い出す。 まわりを見ると、半数以上が私と同じように、うららかな春の眠りに誘われていた。 べったりと額を机につけて寝ている者、かくかくと頭を一定のリズムで動かしている者、微動だにしない者、さまざま。 春眠暁を覚えずだな、とうまく機能しない頭でぼんやり浮かばせる。 先生が黒板に何かを書くカツカツとしたチョークの音が、ずっと遠いところで聞こえる。 「誰かが電話をかけてきたら、どう対応しますか」 先生はやさしくそう問いかけると、私を指名した。 私はそこで、一秒で深海から釣り上げられた魚のような勢いで覚醒すると、頭の中にある知識を色々な場所から引っ張り出す。 うーん、うーんと早く答えねばという緊張感とともに悩んでいると、私たちを乗せた汽車は、ゆるやかに止まった。 教室中がわいわいと騒がしくなり、皆窓のそばに駆け寄る。 私も事件を覗く野次馬のように、柔軟剤の香り立つ服をかき分け、なんとか窓枠にしがみつく。 その瞬間、サイダーのような青と魚の鱗みたいな水面のきらめきが虹彩に貼り付いて、思わず息をのむ。 満開の桜の木が一本。その隣に、大きなプール。 そのプールは天然の岩場、池のようなもので、水は深いターコイズブルーを湛え、どこまでも、限りなく透明であった。 そこにひらひらと舞い落ちる桜の花びらは、冷めやらぬ春を無邪気にあそぶ、なめらかで可憐な生物のようで、淡い桜色と水の色がどこか非現実的で、魔力をもった静謐が微笑んでいるようだった。 こんなものを見るのははじめてだった。 自分が今まで生きてきた世界には、こんなに素敵なものはない。 そのプールの横では私たちと同じ小学生が、授業を受けているところだった。 先生によればここはチバで、あのプールの水は海のものなのだという。 私は汽車を降り、プールのもとに歩いた。 風にスカートが揺れる感覚さえ、新鮮で覚束ないものだった。 足元から数センチのところにあるプールの透明な水が、もったいぶって泳ぐ魚のようにゆらりゆらりと波をつくっては太陽を反射する。それを見ているのが楽しくて、しばらくそこに留まって、じっと水面を見つめていた。 「あっちに行こうよ」 友達が肩を叩く。 私は頷いて、一緒に灰色の道を駆けていった。 気が付けば自分も、水着を着て、プールの横にいた。 どうやらここで授業をするようだ。 こんにちは、こんにちは、と道行く誰もが私に挨拶をする。 こんにちは、こんにちは、と私も返す。 少し肌寒さはあったが、それ以上に桜とプールがつくりだす視界の高揚感に、私の身体は舞い上がっていた。 「ねえ」 声がして振り返る。こげ茶色の髪、瞳、白い肌をした同い年くらいの少年だった。 「なあに」 「きみはどこからきたの?」 「わたし?」 「うん」 「わたしはね」 言いかけてはっとする。 私は、どこから来たんだっけ。 おかしい。 覚えているはずなのに、どうしてか何も思い出せなかった。 自分には、出発地点などもとからなかった、そんな気もする。 「うーん、わからないや」 「わからないの?」 「うん」 「ふーん、そっか」 男の子はなにやら無関心、という様子でぶっきらぼうに返事をすると、ざわめく人ごみのなかへ消えていった。 ひとり残された私は、自分がどこから来たのかもう一度考えてみた。 頭をひねって考えて、やっぱり思い出せはしなかったけど、不思議と焦りも、恐怖もなかった。そうしてまたぶらぶらと、人並みに逆行するように歩く。 「お嬢ちゃん」 少し淀んだ低い声が私を呼ぶ。 後ろを見ると、四十から五十歳ほどと思われる眼鏡の男性が、こちらを見ていた。 「こんにちは」 「こんにちは」 「きみはどうしてこんなところにいるんだい」 「そうですね、汽車に揺られてきたらここに着きました」 「…そうか」 男性は、訝し気に眉をひそめると、去っていった。 私は少しばかり質問の意図を考えていたが、まあいいかと軽く流して、もう一度歩きだした。 「お嬢ちゃん、君はどこに行くの」 「いつまでここにいるの」 「なんのためにここにいるの」 歩いている間、先程の男性と同じ年のころの男性たちにせわしなく声をかけられた。 答えは私にはすべてわからなくて、「わからない」と答えると、男性たちはやはり静かに去っていった。 知らない人と何度も話してなんだか疲れてしまった。 帰ろうと決意し、プールの奥にある錆がかった扉を開く。 開いた扉の先の壁には何の変哲もない無垢なシャワーが一つ備え付けられており、小さなシャワー室のようになっている。その先にまた扉があった。 扉を開く。 すると、また同じように一つだけのシャワーの空間と、扉がある。 扉、シャワー、扉、シャワー。 同じ味気ない景色が十ほど連なっていた。 私はその途中でシャワーを浴びると、奥へと進んだ。 見慣れた後輩や先輩が私を通過していく。 私は、濡れた身体と髪を乾かし、素早く服を着ると、にぎやかな声がする方に向かった。人が大勢いる部屋がある。小学生だけじゃない、色々な年齢の人々が身を寄せ合っている。 友達がたくさんいた。その友達のひとりが、ここでは班行動しなければならないようだと教えてくれた。なるほど、と納得し、私はシャワーで濡れた髪の毛をタオルでわしゃわしゃと拭いた。水が黒い髪の一束から滴って、床にぽとん、と落ちた。 近くにある扇風機の風が、肌をやわらかく撫でる。この風にあたりながら眠ってしまいたい。 そんなことを考えつつ髪を乾かしていると、そこに一人の赤ちゃんがやってきた。 ほっぺたが薄桃色でもちもちしていて、身体はむちむち、ぷっくり丸みを帯びている。赤ちゃんという生き物は、どうしてこうも可愛いのだろうか。人類史の七不思議に入っていてもおかしくない。 私はやさしくその赤ちゃんを撫でた。 キャーという喜びをはち切れそうなぐらい詰め込んだ声で赤ちゃんがはしゃぐ。 それが嬉しくて、愛らしくて、私は何度も何度も撫でる。 ところが、そうして撫でているうちに、その赤ちゃんは奇妙な笑みを浮かべた。 この世のすべてを知っていて、善悪の境をはっきり悟っている、そういう者の顔つきだった。 得も言われぬ気味の悪さを感じて、私は手を離すと、その赤ちゃんをお父さんのもとへ返した。赤ちゃんは泣きだした。 そのときには、赤ちゃんはあの可愛い赤ちゃんだった。 私は自分の心を疑った。 そこに同じクラスの友達が来て、服がとてもかわいいと褒めてくれた。 沈んでいた気持ちは一気に晴れやかになる。 私は彼女にお礼を言うと、部屋にいる皆の視線の先の大きなテレビに向き直った。 テレビではニュースが流れている。 新型の病原体が見つかったらしく、学校が臨時休校になったそうだ。私はこのニュースに既視感を覚えた。直感的に、こちらの世界でもそうなのか、と思った。それから、自分が感じたことなのにまったく意味が分からなくて、それはもう吐き気がするような違和感だった。自分ではない他の誰かが、私のなかで声を出したような、そんな気持ちだった。 ふと周りを見る。同じような人が一人はいると思ったから。 でも、みんな何も気にしていない様子だった。 早鐘を打つ心臓を何とか沈めるため、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出した。 何度か深呼吸するとすっかり落ち着いた。 そうしてしばらくテレビを見ていたが、私はここで、自分の服が入った袋がないことに気が付いた。 あれがなければ帰ることはできない。全身の毛穴から冷たくて嫌な汗が染み出る。 とはいっても、一日の活動は、私に殴られた後のような疲労をもたらしていて、目を開けているのもやっとだった。私は、明日早く起きようと決心し目を瞑ると、睡魔のなかに吸い込まれていった。 次の日。朝早く起き、例の袋を探す。 こぢんまりとした、ベッドと押入れがある部屋を見る。 暗いなかに無造作に袋が積まれている。私はその一つ一つを確認したが、どれも自分のものではなかった。 昨日の行動を思い出す。しかし、考えても、考えても、袋がどこにあるのか全く見当がつかなかった。 時刻は朝の4時。 大部屋に帰ると、皆すでに起きて出発の準備をしていた。 私も帰るための支度をする。 しかし、袋がないと帰ることができないので、またそれを探しに行く。 いったいどこにあるのか。 「私が私だったら彼女のもとにある」 突然誰かの声が聞こえた。 ひどく耳馴染みがある、どこか寂し気で痛々しく、それでいて芯の通った声だった。 その声が、遠い霧がかった丘の上から私を呼んでいるような気がした。 心臓から熱くなった血が全身に送られるのを感じる。どくどくと波打ち震える身体があまりにも重く沸いていた。別の生き物みたいに動き続ける手をふと見ると、それは小学生の若々しく瑞々しい手ではなかった。皺が現れはじめたごつごつした手。ぎょっとして全身を見る。 それはある程度年端の行った、ところどころガタがきて煤けていそうな男性の身体だった。 そこで私は気が付いたのだ、これが私の真の姿であったことに。 信じられない話だったが、心は波一つない湖のように、しいんと静まり返っていた。そして思い出した。 そうだ、私が私であるのなら、妻のもとに鞄はある。 ああ、私はなんて愚かなのだろう。 妻がいることすら忘れていたなんて。 絶望に似た焦燥を握りしめて走り出す。 私は彼女に会いに行く。 一秒でも早く、一秒でも長く。 ずっとずっと、薄水色の空と、綿菓子のような雲が浮かぶ場所に、ほかの何にも目をくれず、ひたすら走った。 会いに行く。 走って、走って、走っていると、目の前に白い扉が現れた。 私はその横開きの戸を勢いよく開いた。 ベッドの上の妻は入院着を着て、ぼんやりと白い光が差し込む窓を見つめていたが、ゆっくりとこちらを向くと、植物のようなやわらかでどこか無機質な笑みを浮かべた。 私はそこではじめて、自分の罪に気付いた。