菅谷亮介 (Sugaya, Ryosuke)
1979年、東京都生まれ。 very50代表。 高校時代に大手音楽会社主催のオーディションに合格し、プロのキーボーディストとしてエンターテイメント業界に携わる。 大学進学後は、学業と音楽の仕事の傍ら世界中の医療分野における国際協力に奔走。日系大手メーカー、外資戦略コンサルを経て、2008年にvery50を創業。
「自立した優しい挑戦者」育成への思い
very50は、国内外の社会起業家と協働し、高校生・大学生向けの探究教育プログラムを届けている認定NPO法人です。
very50のミッションは「『自立した優しい挑戦者』を増やして、世界をもっとオモシロク」。特に「自立した優しい挑戦者」という言葉には、2008年の創業以来の強い思いが込められています。
自らの頭で考え行動し、この社会で稼いでいく力としての「自立」。
身近な人はもちろん、遠くの他者や社会課題に対する共感力としての「優しさ」。
そして、敷かれたレールの上から抜け出し、自分らしい新たな道を切り拓く「挑戦」。
これらを高いレベルで備えた人材を育てるべく、高校生・大学生を対象に、さまざまな教育プログラムを提供しています。
そして「自立した優しい挑戦者」というコンセプトの背景には、代表菅谷の経歴や考えが色濃く反映されています。
この記事では、そんな菅谷がvery50を創業するまでを振り返りつつ、very50が目指すこれからについてを語ります。
★ very50のプログラムについて:国内・海外のソーシャル・ビジネス(社会企業や事業家)を題材として、高校生や大学生が社会課題の解決に取り組みます。リアルな経営課題を現役社会人や大学生といっしょに解決していく、超・実践型探究プログラムです。詳細はこちら。
2万人が自分のピアノに熱狂した日
—— very50を立ち上げるずっと前から、新興国を飛び回って活動されていたと聞いています。どのような背景で日本を飛び出すようになったのでしょうか。
菅谷:実は10代の頃、プロのキーボーディストとして7年間音楽活動をしていました。この話を初対面の方にすると、今の仕事と結びつかずに不思議な顔をされます。
しかし、今こうして世界を舞台に働いていることの原点も音楽活動です。
高校生の頃、広島球場で開催された「アジア平和音楽祭」という催しに出演する機会をいただきました。世界中から集まった観客の前で、あるバンドのサポートでピアノを弾くことになったのです。
そして自分の出番、The Beatlesの「Let It Be」を弾いた時、会場中が自分のピアノに熱狂しました。2万人が言葉を超えて、音楽の力でひとつになって……その瞬間の、心が震える感動は忘れられません。
あの経験がきっかけとなり「もっとこの広い世界を見ないともったいない」「世界の面白い音楽に出会いたい」と思うようになりました。
—— 菅谷さんのルーツは音楽活動にあったのですね。それからはどのようなことを?
菅谷:そこからは英語を猛烈に勉強しはじめ、大学入学後はESS(英語研究会)に入部。最終的には代表として、200人の学生をまとめていました。
ESSだけでなく、実際に世界のフィールドに飛び出し、現地の課題解決にも情熱を注ぐようにもなりました。パキスタンの医療支援に、カンボジアの児童買春問題……頭の80%が途上国のことで占められていましたね。
学生時代、フィールドでの活動に明け暮れていた頃
だから就活の時も、本当は途上国で何かやりたかったし、「社会問題を解決しながら稼げたらかっこいい!」と思っていました。しかし当時の自分は経営に関してとことん無知だったし、「音楽と英語だけで世界は変えられない」ということも自覚していました。
だからまずは企業に入って修行しようと、一旦就活することにしたのです。
大企業での修行の日々を経て
—— 新卒時代はどのような生活を送ったのですか。
菅谷:最終的に、新卒では日系の大手メーカーに就職。事業企画を通じて、原価計算の基礎や、ものづくりの考え方を叩き込まれました。
学生時代のような「フィールドでのアクションこそすべて」の発想とは180度異なる環境。まさに求めていた「修行」の日々でした。
そこから、外資戦略コンサルの香港支社に転職。将来的に起業したい気持ちがあり、もっと経営の力を養いたいと思ったのがきっかけです。
振り返ると、コンサル会社での日々は想像以上にハードで、挫折もかなり味わいました。特に自分は、元々アートっぽい、アイデア先行の考え方をするタイプで……。
最初の1年半は、メンバーに対して「細かいなあ」ってイライラすることもありました(笑)。
—— ビジネスの世界で洗礼を受けたことが伝わってきます。
菅谷:ただ間違いなく、世界中から集まった優秀な人に揉まれ、これでもかと鍛えられた期間でもありました。ロジカルシンキング、グローバルな視点、専門としていた金融知識。主にハードスキルの面で、大量にインプットすることができました。
そして、28歳の時。ある日ふと、「途上国に戻りたい」と我に返る瞬間があったんです。資本主義にどっぷり浸かる社会人生活のなかで、「もう一度世界の広さを感じたい」という気持ちが激しく再燃していたんですね。
そこからは会社を辞め、さながら学生の頃のように、世界各地を渡り歩く日々を送りました。特にタイやメキシコを中心に、現地の社会起業家のサポートに没頭。
コンサルタントとしての経験も生かし、企業改革や地域活性化に取り組みました。いわば、現地のリーダーの「伴走者」です。
知的障害のある子どものアートを生かした商品を手掛けるベトナムの起業家と
その国で生まれ育ったわけではない自分が現地の課題を解決するのは、決して簡単なことではありません。だからこそ起業家の「伴走者」として彼ら/彼女らを鼓舞し、さらなる活躍をしてもらうためのお手伝いがしたかったのです。
6年ぶりの国際協力の世界。「変わらなさ」にショックを受けた
—— 社会人として養った力と、元々備わっていた行動力が生かされたのですね。そこからはどのような活動を?
菅谷:そんな時期にふと、本当に突拍子がないのですが、「自分がお世話になったピアノで、世界のまだ見ぬ場所の人々を幸せにしたい」というアイデアが降りてきました。
「音楽で世界を良くしたい」という思いは、心の奥底にピュアにあったんですよね。
そして、大学時代のESS仲間と一緒に寄付を集め、ネパールにまず1台のピアノを贈りました。しかし現地の反応は芳しくなく、「ピアノではなくてその金が欲しい」と……。
もちろんその気持ちも状況も、痛いほど理解できます。「ピアノを贈ろう!」と一方的に思い立ったのも自分です。
しかし、それでもショックだったのです。国際協力に奔走した学生時代から6年が経っても、「支援する/される」の強固な構造が変わっていなかったことが。
そして「音楽で世界を良くしたい」という愚かなまでにピュアな思いが、その現実を前にしてあっけなく崩れたことが。
もちろんこうした状況は、それまで支援してきた国々の側に責任があるでしょう。しかし、「この構造のままでは現地の方の考える力を奪ってしまう」と思われてなりませんでした。
—— 菅谷さんの描いていた理想が打ち砕かれるような経験ですね。その経験を経て、どのような変化がありましたか。
菅谷:その経験をきっかけに、国際協力でよく言われる「魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ」という言葉の重要性を強く感じました。
物を送るのではなく、その国のリーダーを育て、自国の問題は自国民の力で解決してもらえるようにならなくてはと、身に沁みて感じた出来事です。
そこからは方針を変え、ネパールやバングラデシュの未来ある若者を対象とした、大学進学支援の奨学金事業をスタートさせました。年間150万円ほど出資し、20人くらいの若者に奨学金を送って。そのなかには、今ネパールでIT企業を経営してる方もいます。
もちろん、いまその20人全員がいわゆる「リーダー」として活躍しているわけではありません。しかし、「あの時応援してもらった、サポートしてもらった」感覚って、ずっと残るものだと信じています。それが“Pay forward”、恩送りの精神に繋がっているはずだと。
勉強会仲間に熱望され、ともにフィールドへ
—— 奨学金事業が、どのようにvery50につながったのでしょうか。
菅谷:ピアノの寄付集めの話で書いたとおり、実はその頃も、大学のESSメンバーとの仲は健在でした。自分は昔から国際政治や歴史の勉強が好きで、知識がかなりあったので、みんなで勉強会をやっていたんです。もはや英語研究会じゃないですね(笑)。
そのうち仲間からの提案で、金融に関する知識も盛り込み、「大人の政治経済」と題した講座を開催するようになりました。毎週のように開講し、参加費を奨学金事業に充てたりして。
そしてこの集まりこそが、very50の原点です。当時は今のような教育NPOではなく、「菅谷による勉強会と、新興国のリーダーに向けた奨学金事業を手がける団体」だったんです。2008年のことです。
そんな勉強会では私が世界で見聞きしたことについても語っていたのですが、次第に参加者から「自分も現地に行きたい」という声が上がり始めました。そこで、「じゃあみんなで行くか」と。
会議室で私の話を聞くだけでなく、勉強会参加者も実際にフィールドに飛び込むことが決まったのです。
しかし、「ただ見に行くだけ」のツアーには違和感がありました。だから、現地の起業家に伴走し、彼ら/彼女らとともに問題解決に取り組めるような構成にしたんです。
「国内外の社会問題を解決しながらまなべる学校」と称して、ネパールの農村での自然保護や、鳥取・大山での地域おこしなどに取り組みました。とにかく現地に入り込むこと、そして実践型であることにこだわりましたね。
2013年、インドネシアでのMoG
—— 今のMoGの形に近づいていますね。手応えはあったのでしょうか。
菅谷:ありました。特に嬉しかったのは、現地の方がこちらの想像以上に喜んでくれたことです。元気で優秀な若者が、わざわざ僻地まで来てくれたことに、とにかく感激してくれました。
また、参加したメンバーも、勉強会で「聞く側」だった時よりも圧倒的にイキイキしていたんですよね。目が輝いていた。
くわえて、参加したメンバーが志を同じにして、生涯の友になっていくさまも印象的でした。ちなみにこの時のメンバーは、あとになって起業した人が多いです。
この「菅谷と行脚しながら問題解決するプログラム」に人が集まるようになったのが、現在のメイン事業「MoG(Mission on the Ground)」のはじまりです。
MoGは回を重ねながら形を変え、企業の研修として提供していた時期もありました。
そこからまた紆余曲折を経た2015年頃、知人の教員から強く勧められたこともあり、高校生向けにプログラムを提供するようになりました。創業から7年経った頃です。
正直に言えば当初、この難しいプログラムを高校生に届けることには不安もありました。社会課題も経営も、高校生にとっては縁遠すぎるのではないかと。
しかしいざやってみると、思った以上に親和性が高かったんです。ロジカルシンキングやマーケティングの知識を素直に吸収しながら、アウェーな地でも行動に移していく勇敢さが、生徒たちにはありました。
高校生とのプログラムが本格化
そして受け入れ側の現地起業家も、そんな高校生に勇気づけられ、感化されていって。言い訳せず難題に立ち向かう姿は、時に大人以上に頼もしくも見えました。曇りなき真剣な眼差しに心を揺さぶられてか、引率をしていた私まで思わず涙が出てきたのを覚えています。
それから今日にいたるまで、very50のメイン事業は高校生向けプログラムです。上に述べたようにプログラムとしての可能性を感じたことも理由ですし、私自身が「若い頃の強烈な原体験」の重要性を感じているから、という側面もあります。
若者のまっさらな心に、激しい何かが入りこんで、それが燃え続ける感覚というか……その火種こそが社会を変える原動力になると信じています。
ミッションへの確信と、創業15年目の思い
—— とても強い思いでプログラムを届けていることが伝わってきます。15年間で変化したことも多いと思うのですが、逆に変わらない思いやスタンスがあれば教えてください。
菅谷:「自立した優しい挑戦者」というコンセプトは、創業当初から一貫しています。
私は43年間という人生を通し、さまざまな「エリート」的な人たちに出会ってきました。たしかにこの社会において、彼ら/彼女らが備える「頭の良さ」や「稼ぐ力」は重要です。
しかしその力を、自分のため、お金のためだけに使っていて良いのか。そんな疑問は絶えませんでした。むしろお金がなくとも、誰かのために体を張って挑戦し、それで感謝される方がかっこいいと、心の底から思っていたのです。
ただその一方で、新興国で活動していると、夢も挑戦心もある一方で、ビジネスを動かす力が弱い社会起業家にもたくさん出会います。それこそ、自分やMoGの参加者が「コンサルっぽい」動きをして彼らに感謝してもらえるのは、その現れだと思います。
そんな気付きのなかで、「自立した優しい挑戦者」を育てる重要性に確信が増していきました。だからこそ、事業が拡大した今も変わらず、very50のミッションの中核にあります。
—— これから新たに取り組みたいことはありますか。
菅谷:創業から約15年が経ち、新たに抱いている思いもあります。それは、「ひとりのリーダーを育てるだけではなく、温かい繋がりやコミュニティの醸成にも注力していきたい」ということ。平たく言い換えれば、「友だちって、当たり前に大事だよね」ということです。
私が「途上国」での活動に熱中していたあの頃から時は経ち、「途上国/先進国」という区分けはもはや、実態に即さないものになりつつあります。むしろ各国の内部における貧富の格差の方が激しくなっており、それは国を問わずに起きている現象です。
月並みな言葉ではありますが、「社会の分断」やそれによる孤独を、痛烈に感じる時代になったのは間違いないでしょう。そんななかで、ノブレス・オブリージュ的な使命を背負ったリーダーが孤軍奮闘する世界観は、少し古いように思うのです。
そもそもどんなリーダーも、孤独には弱いもの。繋がりを感じづらくなったこの時代だからこそ、誰かに挑戦を後押ししてもらえる心強さは、「自立した優しい挑戦者」が活躍する上でも欠かせないと思っています。
奨学金事業を行っていた際にも抱いていた「誰かに優しくしてもらった経験って一生残るはず」という考えにも通じますよね。
人は自分が優しくされた方法でしか他人に優しくできない。自分が救われた方法でしか他人を救えない。人から受けた愛情しか他人に与えられない。私はそんな考えを持っています。だからこそこれからのvery50は、ブレない志で「自立した優しい挑戦者」を育てながら、温かい繋がりを生み出せる団体でもありたいと思っています。
手前味噌にはなりますが、very50には、ミッションドリブンでありながら、大企業でも活躍できる優秀さを兼ね備えたメンバーが揃っています。また、NPOというと「清貧」的なイメージを持たれがちですが、私たちは収益を上げながらミッションを実現することにこだわり続けています。
もしこの記事を読んでくださっているなかに、我々のミッションに共感してくださる方がいれば、ぜひお気軽にご連絡ください。本質的な正しさを追求する情熱とスマートさを兼ね備えた新たな仲間のご応募を、心よりお待ちしています。