はじめまして。Planetway(プラネットウェイ)採用担当です。今日から、エストニア発の個人情報データプラットフォームを提供する当社のことについて、いろんな角度からお伝えしていきたいと思います。
まずはこれから2回にわたって、代表の平尾についてひも解いていきたいと思います。平尾は現在35歳。アメリカの大学で宇宙工学、有機化学、マーケティングを学び、日米での起業経験もあります。ソフトバンクでは孫正義氏らが考えた新規事業を具現化する役割も担っていました。
これだけ聞くと、華やかすぎるキャリアにちょっとひるんでしまうのが正直なところかもしれません。そこで平尾が直面した挫折経験と、それをどう乗り越えたかについて聞いてみました。
「世界のトップとビジネスを手がけ、失敗した僕を立ち直らせたたった一つの言葉。創業者・平尾の挫折人生(後編)」はこちら!
44℃の砂漠と-20℃の山の上。ひたむきに学んだアメリカでの大学生活
―― 高校を出たあと、アメリカのユタ、コロラド、カリフォルニアと3つの大学で学んだそうですね。
はい。ユタの語学学校で3カ月学んだあと、コロラドの大学で宇宙工学と有機化学を、カリフォルニアの大学でマーケティングを学びました。
―― どんな学生生活でしたか。
自分本位に、やりたいことをめいっぱいやっていたと思います。ユタは気温44℃の一面砂漠の中に学校があったし、コロラドは真逆で、-20℃の山の上にキャンパスがありました。当初はNASAで働くエンジニアか科学者になりたいと思っていたので、地学や物理を中心に勉強していました。その後、NASAは思い描いていたのとは違う場所だとわかって有機化学へ専攻を変え、最終的にはエンジニアリングをビジネス的な立場から推進したいとマーケティングを勉強することにしました。
―― 最初の挫折経験は、どういうものだったのですか。
当時手がけていたビジネスと友人をいっぺんに失い、婚約者から婚約破棄されてしまうという強烈な経験でした。
それは21歳頃、カリフォルニアの大学で学びながら就職支援の会社を立ち上げ、精力的にビジネスを展開していた時のことでした。あまりにつらいことが立て続けに起こり、正直、このまま死んでしまいたいとさえ思ったほどでした。
―― そこからどうやって立ち直ったのですか。
ビジネスで付き合いのあった方から「平尾さんに助けてほしいことがある」とかかってきた1本の電話のおかげでした。それは「すばらしいアーティストがいるんだけど、ビジネスがうまく軌道に乗らなくて困っている。彼らを助けられるのは平尾さんしかいない」というものでした。
電話越しの僕はいつ死のうかという気持ちでいっぱいだったのですが、その話を聞いて直感的に「やります」と答えていました。
そこから、オーボエニストとピアニストによる楽曲を映画会社やゲーム会社に売り込むという、新しいビジネスがはじまりました。彼らはバークリー音楽院へ通っていた天才的なアーティストでしたが、世間ではまだ評価されていませんでした。彼らをハリウッドなどへ営業するために奔走する過程で、僕自身も再生していきました。
「グーグルを超える会社を作る」グラミー賞アーティストと起業するも無念の帰国
―― 二度目の挫折について、教えてください。
二度目の挫折は、そのアメリカの大学を卒業する時に起こりました。
当時僕は先ほどの会社と、もう一つ別の会社も手がけていたので、卒業後もそのままアメリカに残るつもりでした。ところが地元・福井にいる父が体を壊してしまい、日本に帰ってきてほしいと頼みこんできたのです。病気になった父は珍しく弱気で「地元じゃなくていい、東京でいいから帰ってきてくれんか」と言うのです。それはよっぽどのことやろ……そう思い、就活して日本へ帰ることを考えはじめました。
―― 最終的には何がきっかけで、日本に帰る決断をしたのですか。
当時のビジネスパートナーに、「すべてを捨ててでも、両親のもとへ帰った方がいい」と言われたからです。
そのビジネスパートナーはグラミー賞を獲得したことのあるアーティストで、全世界でアルバムを3000万枚も売り上げていました。その頃僕は、彼と意気投合して「エンターテインメント業界のグーグルを作ろう」と会社を立ち上げ、本格的に事業を展開しようとしていたところだったのです。
一度、栄華を極めた彼は、僕にとって最初のビジネスの師匠でした。何かものを作るなら世界No.1以外は作ってはダメだというマインドや、情報収集の仕方、ビジネスの動かし方など、あらゆることを教わりました。その彼が、「シングルやCDの時代は終わった。他のことを探すためにもう一度学校で学ぶんだ」と、2000年代前半に同じ大学でビジネスや法律の勉強をしていたのです。
彼とたまたま同じ授業をとっていた僕は、先生に対する発言、質問、威厳、どれをとっても他の学生と違っていると感じ、思いきって声をかけてみました。よく話を聞いてみると、グラミー賞に7回もノミネートされていて、実際に受賞経験もあった。心底おどろきました。その彼とともに、意気揚々とビジネスを広げようとしていた、まさにその時だったのです。
彼に父のことを相談したところ、こう言いました。「実は俺も、両親が病気になった時に、すべてを捨てて実家に帰ったことがある。本当に一流のやつはそういうことをするんだ。できることなら、日本に帰った方がいい」と。
確かに僕が何度も大学を変え、専攻を変えたときも支えてくれたのは親でした。その親がここまで言うのはよっぽどのこと。僕は彼のその言葉をきっかけに、日本に帰る決断を下しました。
それでも、これから本格的に事業をはじめようとしていた矢先だったので、中途半端なまま終わってしまう悔しさでいっぱいでした。
―― そのもやもやを吹き飛ばしたのは、なんだったのですか。
ソフトバンクの孫(正義)さんの言葉です。日本に帰ることを決めた後、アメリカのキャリアフォーラムでソフトバンクの面接を受け、おかげさまで7回の面接を経て内定をいただきました。
その時の800人の内定者のうち、30人だけ孫さんの自伝本をもらったんです。中でも僕の本は孫さんの直筆サイン入り。それを渡してくれた役員からは、「孫さんからメッセージがある、『お前はおれを超えろ』。そう言っていたぞ」と告げられたのです。
僕は驚きながらも、日本での最終面接を終えてアメリカへ帰る飛行機の中でその本を読み、号泣。この人がいるなら、日本へ帰ろう。この人の近くで学ぼう。そう決意したのです。
当時の僕は、半ば日本という国に失望していました。こりかたまった画一的な教育にも、人にも嫌気がさし、日本にはぜったい帰らないとかたくなになっていたんです。日本人の中で自分が一番すごいと、おごっていたんですね。海外へ行って、グラミー賞のヤツと組んで、グーグルを超える会社を作るなんて考えている日本人は他にいないはずだと。
ところが孫さんはもっとすごかった。彼もカリフォルニアの大学を出て、ものすごい苦労を積み重ねて、成功しています。彼の学生時代の経験は、僕の経験ともかさなるところがありました。その生き様に心底共感しました。この人は間違いなく日本でNo.1の起業家だ、そう思いボロボロと涙が止まりませんでした。