僕は今、訪日外国人向けWebマガジン「MATCHA」の代表をやっています。
株式会社MATCHA (旧:株式会社Sen)を作ったのが2013年12月3日。なぜ12月3日かというと、123と数字の並びが良かったのと、12月3日が「カレンダーの日」という日ということを知ったからです。
カレンダーの日とは、1872年12月3日に旧暦が終わり、太陽暦が採用された日。つまり、日本標準から世界標準に変わった日です。当時はいきなり日付けが翌年の1月1日に変わって、大変だったそうです。
僕は、この日の存在を知った時、この旧暦から太陽暦への切り替わりが、なんとなく今の日本と自分のやりたいことを重ねてしまいました。
会社を作った主な目的に、日本を世界に発信し、日本と世界をつなぐことがあります。その理念とバッチリあっていたのと、毎年12月3日に、創業期の思いが蘇るのではないか、と考え決めました。
12月3日にしようと決めたのが11月末。すごい焦って、登記をして、4日で会社を作りました。こういう思いつきは、大体深夜に起こります。
会社を作ってから人に会うたびに聞かれることが、「なんで会社を作って、このメディアをやっているの?」ということ。
なぜやっているか、これは僕はとても大事だと思っています。事業をやっていると想像を絶するくらいに色んなトラブルが起こります。思い通りにいかないことばかりで、心が折れそうなこともいままでありました。
でも、なぜやっているか、というものがあると、ふとした時に自分の原点に立ち返ることができるんですね。そして、その理由があるから、どんなことがあっても立ち上がっていける。
例えば、これがお金を沢山稼ぎたい、流行っているから、というのが一番の理由になってしまうと、稼げなくなった瞬間、流行らなくなった瞬間、辞めてしまう。続ける理由がなくなってしまうからです。
それは代表である自分自身もそうですし、そういう意識で立ち上げた場合、そういう意識の人が集まってしまい、いざというときに脆い。会社をやっていて思うのは、続けていくことが大事で、続けるからこそ見えることが大きいからです。
始まりが長くなってしまったのですが、このエントリーでは、MATCHAを立ち上げた経緯についてまとめてみたいと思います。一回、自分のブログでも書いたのですが、Wantedlyのブログでも書いていこうと思います。前編、後篇に分けて更新します。
見出し
1.明治大学国際日本学部
2.ブラックなインターン
3.Twitterで広がった世界
4.約7ヶ月の世界一周
5.ドーハ国際ブックフェア‐
6.世界一周後の日本めぐり
7.augment5 Inc.
8.訪日メディア「MATCHA」の着想
9.起業の準備とMATCHAのスタート
10.訪日メディア「MATCHA」のこれからについて
1.明治大学国際日本学部
訪日メディア「MATCHA」を作ろうと思った一番のきっかけ、それは明治大学の国際日本学部です。高校3年生で受験でどこ行くか考えていた時に、明治のオープンキャンパスに行き、この学部が翌年できることを知りました。
「変な名前。」というのが第一印象。名前の通り少し変わった学部で、マンガやアニメ、ファッション、日本語や日本の伝統工芸についてを学問として学び、日本の文化を世界に発信できる人を増やす、そんなコンセプトの学部でした。
元々新しいもの好きで、語学を学びたい、そう思っていた自分にとってはこれ以上なく、なんとなくこの学部に行くんだろうな、と思いました。また浮世絵を背景イラストとした学部のパンフレットがかっこよく、当時学部長だった蟹瀬誠一先生のプレゼンが面白かったんですね。新設学部で受験の資料がない中、ふわっとした大学の試験概要から、日々勉強に励みました。
試験を終え、結果を見ると不合格。絶望していたのですが、その通知が来た1週間後に補欠合格通知が来て、この学部への入学が決まりました。言ってみたら、学年で一番下からのスタートです。
「クリエータービジネス論」「地域国際化教育論」「漫画文化論」「視覚文化論」「知財文化マネジメント」「ファッション文化史」「日本先端文化論」
など変わった名前の授業と独特の講師陣が揃っていた学部で過ごした5年間。1期生だったこともあり、アクティブで変わった友人が多かったです。英語の授業も週8コマ、12時間ある学部でした。( 第二言語習得理論をゼミで学び、気づいたらゼミを除籍扱いになってました。)
日本の様々な文化の可能性を大学で学ぶ中で、日本への関心は徐々に高まっていったんですね。そんな時に、自分の方向性を決めたのが、とある講師の一言でした。
「日本の文化は世界で流行っているけれど、日本人がそこでビジネスできていない。」
この言葉を聞いた当時、僕は休学中で、世界一周の出発前でした。また、将来独立すると決めていました。この講師の言葉にチャンスを感じたんですね。日本人が、日本の文化を武器に世界でビジネスできていないなら、それを自分がすればいいんじゃないか。これから海外を旅する中で、そういった現状を自分の目で確かめていこう、そう決めました。
2.ブラックなインターン
こないだあったインターン同期飲み
明治の国際日本学部が日本文化に興味を持ったきっかけで、会社を起こそうと思ったのは別のきっかけでした。それは大学2年の時に働いたブラックなインターンでした。
どうしてそのインターンをやろうと思ったかというと、学部の仲のいい同期がみんな留学にいってしまったから。やばい、自分も何かしなきゃ、って思っていた時に、たまたまネットでインターンの募集を見ました。
業務内容はネットショップの店長。大学1〜2年の頃、お金がなくなりすぎて、一時期mixiの古着コミュニティーで服を売り、生計を立てていた時期がありました。
近くの古着屋で安く買って、高く売る。今でいうメルカリみたいなことをmixiのコミュニティでやっていて、ネットで何かを売ることに関して興味がありました。
インターンの面接を無事通り、働き始めることになりました。
「月100万売らなかったら、どうなるかわかってる?」的なことを社長に言われたりと、目標に対するノルマがきつく、それを達成するために週5~6に会社に行き、終電帰りの日々を過ごしました。何度、椅子を並べて寝たかわからないです。
とても大変だったのですが、それだけ働いたことで何をどうすると稼げるか、お金になるかが肌感覚でわかるようになりました。なにより、自分の頭と手で稼ぐ面白さを知りました。将来起業して、自分で事業をやろうと思ったんですね。
自分の仕事の原点となった時期。結果的にそこで働いていたインターン生は、今全員会社を経営しています。同世代で会社を起こした人間は、大体学生時代におかしいくらい働いたことがある人が多い気がします。
ただ会社を作りたいといっても、具体的にどんなことをやりたいか、なんて思いつきもしませんでした。ただ、焦ることでもないので、興味をもったことに向かって動いていこうと決めました。そんな時に目の前に現れたのがTwitterです。
3.Twitterで広がった世界
インターンのあとの自分の世界を広げてくれたのがTwitterでした。
Twitterを知ったのは、よく読んでいた堀江さんのブログで登場したのを見てからです。最初使い方がよくわからないながらも、始めてみるとみるみるのめり込んでしまいました。
興味と共感で人と人がつながっていく世界が、面白くてしょうがなかったです。インターネットに対してここまで面白さを感じたのは、MSN Messengerと2ch、THE 掲示板に触れて以来でした。
色んな人にTwitterでお会いしました。孫さんや堀江さんがTwitterでフォローしている人をまず全員フォローして、彼らの見ている世界を覗いてみた気になっていました。
そしたらYahooのある執行役員の方が自分を女だと思って勘違いして、フォローしてくれて笑。チャンスだ!と思い、超緊張しながらも、会ってください!とDMを送ったら、「会ったこともない男と二人で会いたくない」と言われてしまい、がっくりしていたら、「今度三茶で立ち飲みの会やるから、良かったら来なよ」と言っていただきました。
恐る恐る行ってみたら、色んな有名企業の社長、役員が集まる会で、そこから自分の知らない世界が広がったんですね。もう5年前、20歳のことです。会ったことにない人に会う楽しさを知ったのはこの頃です。
他にもこのWordpressのブログの作り方を教えてくれたのもTwitterで知り合った方でした。大阪でIT関連の会社の経営者で、Twitterを通じて仲良くなり、まだ会ったことがないにも関わらず、夜中の深夜1時くらいにSkypeでWordpressブログの作り方を教わりました。今考えると、なかなかありえないなとも思います。
そんなこんなでTwitterで色んな世界を知りながら、様々な世代の活動的な人に会いました。Twitterがおもしろいのは、同世代という横のつながりや、先輩や後輩という縦のつながりとは別の、斜めにいる普段生活していたら会えない人と、理由次第で会えてしまうこと。そこには年齢もあんまり関係ない。同じ経験をした同世代は多い気がします。
サークルでなく、学生団体、という世界を知ったのもその頃。で、世界一周をすすめている人をフォローして、世界一周という言葉を知りました。最初聞いた時、自分とは一切関係ないんだろう、と思っていました。
4.約7ヶ月の世界一周
初めていったバックパッカー旅。カンボジアアンコールトム。
世界一周や旅という言葉に触れたのは、Twitterでした。それまで自分は海外や日本で旅をしたことがありませんでした。大学3年の9月にタイ、カンボジア、マレーシアに、初めてバックパッカーとして行きました。
タイ、カンボジア、マレーシアにした理由は、カンボジアのアンコールワットを見てみたかったからです。あとは、その周辺をぶらぶらしてみたかった。何が起こるかわからないけれど、とにかく行ってみたくなってしまって。その時はどこでどうやってチケットを購入していいかわからなかったので、新宿のHISでチケットを購入しました。確か羽田タイ往復で6万くらいだったと思います。
この旅がすごく楽しかったんですね。iPhoneを寝ている間に盗まれ、タクシーの運転手とオオモメしたり、マラッカで黒い犬に追いかけられ、深夜に警察署に行ったり、、散々なことがあったのですが、それ以上に新しい国に行って違う国、文化に触れるのが楽しくてしょうがなかったんです。
実際に周ったルートが黒です。南米はお金がなくて行けませんでした。
2週間のバックパッカーの旅を終えてから、日毎にもっと海外を見て回りたいと思うようになりました。将来何かするにあたって、海外を見た経験は必ず役に立つだろうと。そう思っていくうちに、世界一周という言葉にも現実味が帯びてきていて、同じ年の12月に休学をしようと決めました。
実際に、7ヵ月間かけて18ヵ国を巡りました。元々世界でビジネスをしたいと思っていたので、ただ海外を周って終わりというのはしたくなく、せっかく行くなら、旅の後につながる何かをしたいと思っていたんですね。純粋に海外周りたいという感情と、手段としての感情の両方がありました。
旅の企画を作り、色んな大人の方、企業に対し話をしました。その企画の1つのテーマが、例の「世界にある日本を見る」。この軸で世界を周ることで何か見えるんじゃないか、何か掴めるんじゃないかと思いました。
イタリアのルッカのイベントにて。気温は10度以下でした。
大学の講師が話していたように、日本の文化は世界中で多く受け入れられていました。例えば、イタリアのルッカで行われた「Lucca – Comic & Game Festival」というイベントに参加したのですが、そこに売っていた漫画やゲームの6~7割は日本のものだったんです。日本の漫画やアニメのコスプレイヤーに溢れてました。
でも、そこに日本人が全然いなかった。そして日本の企業のスポンサーもない。日本の文化は受け入れられているけれど、日本人がそこでビジネスしていない。その言葉の現実を目の当たりにしました。
他にも海外で流行っている日本食屋に行ったり、多くの海外で活躍している日本人の方、漫画やポケモンを北米に輸出したサムライみたいなバケモノ経営者の方にお会いし、まだまだ日本発信の可能性があると感じました。将来、日本の文化を世界に広げるビジネスをしたい、そう決めたんですね。
5.ドーハ国際ブックフェア‐
2012年 カタール ドーハ国際ブックフェアーの入り口
「青木くんさ、今年の12月空いていない?」
世界一周の旅から帰った年の2012年8月、櫻井孝昌さんから、突然こんな言葉をかけられました。
大学の授業がぎっしり詰まっていたのですが「空いていますよ!なにかあるんですか?」と返すと
「カタールって行った?ドーハで今年国際ブックフェアーがあって、プロデューサーとして入ることになったんだよね。青木くん一緒に行かない?2週間くらい仕事手伝ってほしい。」と言われました。
櫻井孝昌さんは僕の師匠の1人。国際日本学部のクリエータービジネス論でゲスト講師できていて
「日本の文化は世界で流行っているけれど、日本人がそこでビジネスできていない。」
この言葉を聞かせてくれた方です。櫻井さんは編集者であり、プロデューサー。外務省や大使を巻き込んで、世界中を飛び回りながら面白いプロジェクトを作っていってる。いわば、自分のこれからの軸のきっかけをくれた方です。
デジハリの杉山学長と櫻井さんとの飲み@高円寺
旅から返ってきた後に、杉山学長と櫻井さんに帰国の報告に言って、そのまま飲みに行くことになり、そこから目をかけてくれるようになったんですね。
カタールの誘いはこれ以上ないチャンスだと思ったので、「まだよくわかっていないのですが、カタールいきます!何でもやります!」といったのを覚えています。
ドーハ国際ブックフェアーは、名前の通り本の祭典です。世界中の国の本がビックサイトのような広い会場で展示されます。ちょうど2012年はカタールと日本の国交40週年で、日本がゲスト国として大きくとりあげられたんですね。
ドーハのブックフェアーでは、何でもやりました。映像の編集から、スケジュール調整、お祈りの時間にトラブル対応したりと何でもやりました。走り回りました。そして、全然仕事ができなくて、沢山怒られました。
具体的な方法論を教えてもらったわけではないですが、2週間櫻井さんにつきっきりでいたので、櫻井さんの立ち振舞から言葉の使い方、考え方を体感させてもらったのが大きかったです。自分がプロデューサーという仕事に興味を持ち始めたのはこの頃。
プロデューサーの仕事は公私混同であると。好きなものを好きと言って、それに対して誠実に、色んな人に語り続けながら動いていくことが仕事になるんだ。そう思わせてくれました。
そしてドーハに行ってなによりよかったのは、自分が海外に対して日本文化の発信者になれたこと。その原体験は今も自分を支えています。自分が将来やりたいと思っていたことが、この2週間でより現実的になりました。
後篇へ続きます。