「夢の反対は何ですか?」
大学で講義をするとき、私は決まって学生にこの質問をします。
8割くらいの学生が「現実」と答えますが、現実の反対は「幻想」ですから、8割の学生たちにとっての「夢」は「幻想」だということです。
日本財団が行なった18歳の意識調査の国際比較では、「将来の夢を持っている人」の割合は、アメリカ93.7%、中国96.0%、ベトナム92.4%、インドネシア97.0%、インド95.8%、韓国82.2%に対して、日本は60.1%と極端に低くなっています。
「将来の夢」という場合の「夢」は、もちろん幻想ではなく、「願望」や「希望」ですから、日本の若い人は、「将来に希望を持っていない人」の割合が明らかに高いということになります。迫害や極度の貧困は将来の希望を奪うものです。でも日本は経済的にはかなり恵まれていますし、言論統制されているわけでもありません。受験戦争も学歴格差も韓国ほどではありません。そんなに悪くない社会環境に置かれているはずなのに、日本の若者は自分の将来に希望を持っていないのです。夢は与えられるものではなく自然に芽生えるもので、夢も希望も持てる社会なのに、多くの若者が夢を持っていないのだとすれば、誰かがそれを奪っているのか、それとも芽生えた夢を自らしぼませてしまうのでしょうか。
実現できないかもしれないけれど、可能性がある限りは努力する。その可能性が自分の努力によって実現することを願ったり、信じている時に私たちは「夢」という言葉を使います。努力ではどうにもならなかった自分自身の限界によって夢を諦めることはありますが、そもそも、努力ではどうにもならないと感じる「制約」がある場合には、夢を抱くことはありません。「制約」が多い、つまり、自由がない場合には、夢を抱きにくくなるのです。
日本における個人の自由は少なくとも憲法上保証されているわけですから、日常生活の上で法的に自由が縛られるということはありません。自由が縛られているわけでもないのに自由ではないというのはおかしな話なので、この国で自由でない人というのは、要するに不自由だと「感じている」、精神的に不自由な人に過ぎません。
このことをもう少し掘り下げてみるには、そもそも自由とは何かということを考えてみる必要があります。自由とは何か。それは与えられていない選択肢を選択できる状態、言い換えれば自ら新たな選択肢を創造できる状態だと言えます。ともすれば、与えられた選択肢から好きなように選択できる状態を自由だと考えがちですが、そもそも選択肢が与えられている状態こそが自由ではありません。何らかの条件や制約が設定されるからこそ選択肢になるわけで、それらの条件や制約には無限の組み合わせがあるのですから、選択肢が無限にない限り、選択できないものがあるということになります。選択肢がどれだけたくさんあったとしても、そこには必ず「隠れた選択肢」があるということです。その隠れた選択肢を見つけ出し、それを選び取ることができる状態こそが自由だということです。
先に紹介した18歳の意識調査において、「自分で国や社会を変えられると思う人」の割合は、中国65.6%に対して日本はわずか18.3%です。国や社会を変えられると思う18歳の割合は、日本では中国の3分の1にも届きません。言論が統制され、国家権力による制約が日本よりもはるかに多いはずの中国においてもなお、若者は与えられていない選択肢を自ら創造する精神を持ち合わせているのです。このことから自由な精神が制約とは無関係だということがわかります。
「自由がない人」は夢を抱きにくいと書きましたが、結局のところ「自由がない人」というのは、「与えられていない選択肢を創造して選び取ろうとしない人」なのです。こうしたい、こうなりたいという願いを叶えようとしても、与えられている選択肢では叶えられないと感じてしまい、与えられていない選択肢を自ら創造する気もない。日本の若い人たちは、このようにして夢を持てなくなってしまっているようです。
それではなぜ、日本の若者には、与えられていない選択肢を自ら創造する気持ちがないのでしょうか。私は日本の大人たちの常識に問題の一端があると考えています。日本には「子供扱い」という言葉があり、それは大人を子供のように扱うのは良くないという常識を含む言葉です。裏を返せば、子供は未熟だから、失敗して危険だから、大人は子供に完全な自由を与えるべきではなく、選択肢という制約を大人が子供に課すことは、少なくとも理不尽ではない。これがこの国の常識でしょう。しかし、その常識を疑い、子供を子供扱いすること自体の是非を含めて、子供達にどの程度の自由を与えるべきかを改めて考える必要がありそうです。「自分を大人だと思う」人の割合と「将来の夢を持っている」人の割合には強い相関があり、「自分を大人だと思う」18歳は、中国89.9%に対して日本はわずか29.1%しかなく、日本の大人が子供を子供扱いしていることは明らかです。
私たち大人は、子供達に選択肢を与えることよりも以前に、選択肢にはない新たな選択肢を自ら創造する「自由な精神」を子供達に養うべきでしょう。「夢のない人」は、「現実の人」ではなく「絶望した人」なのですから。