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上場企業で最年少起業した池袋で働くベンチャー企業社長の創業ストーリー

池袋で働くベンチャー企業社長の創業までのストーリー。

綺麗な起業秘話なんてなくてあるのはただ泥臭い事実。

最初の夢は叶わなかったけど、2番目の夢は叶えた。
これから3番目の夢を叶えていく。

挫折

将来の夢はサッカー選手だった。
競技人口の多いスポーツで点を決めて注目を浴びるのが好きだったのかもしれない。

中学は全国大会に何度も出ているクラブチームに入った。
中学3年のある日のランニングで集団から離されていき、気づいたら全力で走っているつもりだったが全く前に進まなかった。

監督からストップがかかり病院に行き、診断結果は半月板損傷。

手術をし、今まで通りのサッカーはもう出来ないと伝えられ、高校は強豪校に行くつもりだったからその日の夜は涙が出た。
たかだか島根県レベルの話だからプロになるなんてほど遠かったが自分の意思に関係なく、人生の道が閉ざされたようで悲しかった。

高校は家から5分の学校に通い、勉強へのモチベーションは一切なかったが小さい頃から成績は良かった。

やりたい事がないなら東大に行け!(東大は3年で学部を選べる)と言われて
勉強は嫌いだったがなんとなく東大に行けたらいいなと思っていた。

そして名ばかり進学校特有の高校3年の夏に部活が終わってから受験勉強をみんなが一斉に始めた。

僕の場合は手術をした瞬間から夢がなかった。
夢がない中でなぜ大学に行くのだろうと思って、大学に行く意義を見出せずに高校に行かなくなった。
バーでバイトしたり、旅行したりして迷走をしていた。

いつの間にか3月になって、気づいたら国立も私立の試験も全て終わってた。

スタバのない田舎から経営者のいる都会へ

就職か浪人の2択の中まだやりたいことが見つからず浪人を決意。
先生から地元で浪人してもお前は刺激受けずにまた勉強しなくなるから頭いいやつが沢山いる環境に行けと。

という経緯で東京にある駿台の東大コースというところに入った。
W杯を泊り込みして見たりしながらも予備校に行ってた。

東京に出てきて衝撃を受けたことがあった。
綺麗な女性が沢山いる。。。ではなく、
友達の兄で東大で在学起業している人や親が経営者の人が沢山いた。

両親や友達の親も公務員といった環境で育った僕は経営者という存在が凄くかっこよく思えた。
サッカー選手の夢を諦めてからやりたい事がずっと見つからなかったが、ようやく見つけた。

世の中にインパクトを与えたいという漠然とした想いはあった中で
色んな職種を比較検討した結果自分の中では経営者が一番それを実現できると感じた。

突然予備校に行かなくなり、1ヶ月で100冊本読んだりスタバで力がつくと思い (当時スタバは島根県民の憧れ)
銀座の日本1号店でバイトしたりしていた。
(スタバクビになった話はまたいつか)

ただ、やりたい事業が決まらず、お金や仲間もいなかったので悩んでいた。

みんなの普通は誰かの普通ではない

そんな中人材紹介業をやっている社長と出会い、上場企業の社長直下の新規プロジェクトで社外から起業したい人を集めて営業力と経営をお金を貰いながら教われるところを紹介された。

詳細を聞くと、
・2年間「生き残ったら」社長にプレゼンを行い、認められれば数千万の支援金。
・給料35万+池袋のタワマン33階が社宅で無料(家賃40万)+インセンティブ。
・3ヶ月ごとにジョブローテーションし、1ヶ月の3分の1は座学で経営の勉強し、残りは通常の社員たちと一緒に営業活動。

社宅ついてるならラッキーぐらいに思っていたが、今考えれば最終学歴高卒の僕からしたらかなりいい待遇だった。

起業を決めた夏から大学に行く気は無かったが、周りが私立の願書を出し始めた時に次の2点を思って受験することにした。

1.今後のブランディング
→大学中退での起業はスティーブ・ジョブズやホリエモンなどよく聞くが入学辞退は少数派だからエピソードとして語れる。

2.学歴問題
→家庭の問題などで大学に行かなくても優秀な人がいる事は知ってたから学歴がない人はダメだというのは違うと思っていた。
ただ、高卒で学歴なんて必要ないって言っても行けなかっただけでしょ?と言われるから、説得力つけるために。
(浪人時の友達はほぼ東大行ったがかなり優秀なのも事実。笑)

流石に半年勉強せずに東大は無謀だと思い、早稲田の商学部が3科目でいけると聞いて、そこだけ受けた。
理系だったが数学は開始5分で解くのに必要な公式すら覚えてなくて即寝たのは今でも覚えてる。

起業すると友達や親に伝えた時はほとんどの人が大反対した。
「学歴無いと将来苦労するよ」

人の意見は聞く方だと思うが、自分が納得するだけの材料が揃って意思決定したことは絶対に曲げないタイプだった。

早稲田合格後も親からせめて休学にしてくれと言われたが、リスクヘッジな気がして嫌だった。
会社が上手くいけば中退するし、上手くいかなければ大学卒業すればいいやという考え方が性格的に合わなくて、何回失敗しても起業するつもりだったし、多くの人が選ぶ道は自分が取らなくていいと思った。

大反対していた親や友達も今は応援してくれていてそれが大きな励みの1つになっている。

寝食を忘れた2年間のサバイバル

この起業プロジェクトは中途採用で数十倍の倍率だったから同期は元経営者や営業で年収1000万とかだった。

人生初めての会社の面接がいきなり上場企業社長で圧迫面接を受けたのは僕ぐらいだろう。笑

最後の質問で

僕「初めての面接なんでこういうのって聞いていいかわかんないんですけど、どういう人を合格にしてますか?
もしそれが料理とか文字が上手いだったら僕無理なので不採用だと思うんですけど、、、」

社長(めちゃ怖い)「ハングリー精神」

僕「それなら僕絶対合格ですね!この短時間での面接だと分かんないと思うんですけど、ハングリー精神の塊です!」
と答えたのも良かったのかもしれない。

島根県出身の田舎者が東京タワーの見える部屋に住んで浮かれてたのは初日だけだった。

浪人生の時にサイバーエージェント社長の「渋谷で働く社長の告白」で週に110時間働くというのを読んだから自分は週に120時間は働くことにした。
一般のサラリーマンが週5日8時間働くとすると年間2080時間だが自分は6260時間働いていた計算になる。 

よく2年で起業して凄いと言っていただくが単純に他の人の1年の間に3年分の時間働いてたから2年間で実質6年分働いていた。
過去の経歴が華やかな同期と比べて実績も経験もなかった自分はとにかく「量」を意識して働きまくった。

なぜそんな働けたかというと仕事が好きだったし、サッカーでは夢を諦めてしまったから、世界で1番参加者の多いビジネスという競技で1番になりたかった。

もう1つ意識したのは思考しまくった。
同期は30歳前後が多く、自分が6年分働いてようやく経験値だけは一緒になるが、それだと追いつくだけで追い抜けないと分かってたからとにかく考えた。

何にどう時間を使うか。
1科目15万円払ってグロービスMBAの単科コースを受けたりもして、周りが大手企業の優秀な方々ばかりの中かなり場違いだったがそういった経験も貴重な財産になっている。

今思えば、自分で考える癖は昔からあって、高校初めての数学の授業で予習していったら先生は予習してきた問題を教科書通りに黒板に書くだけ。
開始20分で中学と一緒で教科書を見れば分かると気づき、授業は聞かず自分で進めて1年生の時に3年生までの教科書を終わらせていた。

このハードワーク、ハードシンクをモットーに仕事をした。
その結果50名程度のプロジェクト参加者の中で唯一の合格者、上場企業30年の歴史の中で通常の起業も数百名いる中で最年少の起業となった。

この環境を与えてくれた会社には感謝しかない。




起業

社長プレゼンOKがでて、浪人1年+社会人2年の21歳という
中途半端な年齢で2017年3月13日に会社を設立した。

実際に稼働をスタートしたのは4月3日だが、1日にパソコンがないことに気づき、秋葉原のヨドバシカメラまで行って、店員に薦められるがまま1台10万もするオーバースペックのパソコンを4台購入していきなり40万の出費をした。笑

そこから今まで色んな事があった。
コロナの状況を打開した時に起業してからのエピソードも振り返りたいと思う。

既に会社は5期目。自分ももう25歳。
思い描いてた理想の期目とは程遠いし、想像以上に苦しいことも多く眠れない夜もあった。
それでも頑張れているのは仕事が楽しいからであり、最高の仲間がいるからだ。
起業して1番の学びで1番大切にしている事は
「何をやるかではなく、誰とやるか」

これから全国に名前が知れ渡るような会社に!
「仕事が楽しいと思えるビジネスパーソンの輩出企業へ」

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