曳山の始まり
寛永16(1639)年、加賀前田家三代の前田利常は、加賀藩主の地位を長子の光高に譲り、翌年、隠居地としての小松城に入りました。それに伴い、利常付きの武士とその家族、商人、職人などが小松に移り住み、一時は1万人近い城下町となって、今に伝わる様々な産業が発展しました。とくに、絹織物が小松に大きな富をもたらし、町人たちは文化を高めました。
小松の曳山子供歌舞伎は、その町人たちの文化と財力、心意気によって始まり、明和3(1766)年、龍助町と西町から始まったと言われています。あまりの盛り上がりに、町奉行が規制することもしばしばありました。
小松の曳山のルーツは近江長浜
小松の曳山の始まりは、近江長浜の曳山まつりの影響を受けたと見られています。
その当時、小松は加賀絹(絹織物)の生産が盛んな地域で、京都へ加賀絹を送っていましたが、小松の商人たちが京都との間を行き来する途中で長浜の曳山を見聞きし、それが小松の曳山の始まりにつながったといわれています。
また、安永5(1776)年、松任町が長浜の古い曳山を買い受け、小松に運ばれた曳山を修理して立派に仕上げたと伝えられています。
豪華さを競った10基の曳山
曳山は一時は本折日吉神社の祭礼に12、3基、菟橋神社の祭礼に4、5基の曳山が出ていたこともありましたが、その頃までに8基に整理され、文化4年には東町の1基が加わって9基の曳山があったとのことです。その後、文化10(1813)年までに材木町の曳山が加わって10基となりました。
一時は十数基もの曳山があったとのことですが、それらは簡単な移動式舞台で、現在のような豪華な高楼式の曳山となったのは、曳山が10基となっていく寛政から文化年間(18世紀末から19世紀初め)ごろと考えられています。
大火により焼失
しかし、10基の曳山のうち、松任町の曳山は昭和5(1930)年の橋北の大火で、東町の曳山は昭和7年の橋南の大火で焼失し、8基となりました。
現存の8基の曳山は、昭和40(1965)年11月に小松市指定文化財となりました。
毎年5月のお旅まつりで上演される曳山子供歌舞伎
演じる子供役者は大人顔負けの演技で会場を魅了します
日本三大子供歌舞伎のひとつ
小松のお旅まつりで演じられる曳山子供歌舞伎は、近江長浜、武蔵秩父とともに全国でも有数の子供歌舞伎として名高くなりました。日本三大子供歌舞伎のひとつと言われています。
毎年5月のお旅まつりでは、この250年以上続く曳山子供歌舞伎を見物しようと多くの人々が小松に集まります。
曳山子供歌舞伎の稽古は4月ごろから始まり、子供役者たちは厳しい指導を受けながら、わずか2か月余りで難しいセリフや振り付けを覚えます。本番では、驚くほどの名演技で観客を沸かせます。
小松の曳山子供歌舞伎は、主に女子児童によって演じられ、全国的にも珍しいとされています。