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社員インタビュー:ポジティブマインドと郷土愛の「エコグラマー」(前編)

皆さんこんにちは。カホエンタープライズの湯野です。

当社では、2024年に入り、新しいメンバーを迎えました。今回は、そんな新メンバー・万野潤二さんをご紹介します!

万野さんはこれまで20年以上にわたってIT業界に勤めており、カホエンタープライズが7社目。今年1月に弊社にジョインされました。福岡生まれ福岡育ち、社会人としてのキャリアもすべて福岡で歩んできた、生粋の福岡人です。

そんなIT業界での経験豊富な万野さんに、これまでのキャリアのことやこれからの目標等を伺いました。盛りだくさんすぎて2回に分けてお届けしますので、まずは前編をお楽しみください!


ーーー今日はよろしくお願いします!まずは万野さんのこれまでを振り返ってみたいと思います。そもそも、IT業界を目指したきっかけは何でしたか?

万野さん:13歳(中学1年生)の時に、友達の家で「信長の野望」を見たのがきっかけです。それを機に、「自分もゲームを作れるプログラマーになりたい!」と思うようになりました。ゲームプログラマーになりたい、その思いのまま大学まで過ごしていました。

ーーーその後、福岡工業大学に進学されます。大学ではどのようなことを学んでいましたか?

万野さん:Home Bus System(今で言うとIoT)の研究をしていました。IoT分野なので、専門的な電子パーツが必要になるのですが、そのときによく「カホパーツセンター」で買い物をしていました。どこで縁がつながるかわからないので面白いですね。

※カホパーツセンターは、福岡市内で電子パーツの専門店を運営しており、カホエンタープライズと同じ嘉穂無線ホールディングス傘下のグループ企業でもあります。


ーーーこれまで数多くの企業を経験してこられましたが、新卒で一番最初に働いた会社ではどんな業務にあたっていましたか?

万野さん:最初の会社では、おもに官公庁向けに、Windowsのアプリ開発を行っていました。

ーーーその会社では5年ほど勤めた後、2社目に転職されます。

万野さん:2つ目の会社は、実は親戚が経営している会社で、もともとは施工会社でした。新たにソフトウェア関連の部署を立ち上げることになったので、親戚に招かれてその部署に参加しました。
業務としては、図書館の蔵書検索システムや、役場の受付にある施設予約管理システム等を開発していました。プログラマーとして内部の設計を行うだけではなく、外見のデザイン(いわゆる「UI」の部分)も手掛けていました。その頃から「何でも屋」の気質があったと思います。


ーーー2社目も2年ほどで退職され、その後株式会社paperboy & co.(現在のGMOペパボ株式会社)に入社されました。この時はどのような経緯で転職されましたか?

万野さん:当時は働き方がなかなかハードで、昼は施工現場に出向いて仕事をし、夜にオフィスでプログラムを作る生活をしていたこともあり、転職を考えるようになりました。ちょうどその頃、paperboy & co.(以下ペパボ)の不思議な雰囲気に魅力を感じ、入社したいと思うようになりました。
妻の同級生が当時ペパボの代表である家入一真氏の元同僚だったという縁があり、それで紹介してもらって入社に至りました。実は選考時の面接官が大学の同級生だったりして、何かと縁があったと思います。
ちなみに、後の話にも繋がってきますが、妻と出会ったきっかけは、妻が出店していたフリーマーケットにたまたま立ち寄ったことでした。ひょっとすると、それが無ければペパボに入社することも無かったかもしれません。

ーーーそんなペパボ社の代表である家入一真氏が、これまでで一番影響を受けた人物だと伺いました。どのあたりに影響を受けたのでしょうか。

家入さんはもともと芸術系の道を目指していたのですが、ある時レンタルサーバー事業(ロリポップ!レンタルサーバー)を始めたところ、大ヒットを収めました。
家入さんのすごいところは、何といっても行動力です。とにかく動きが早く、かつ新しいものを生み出すデザイン思考と、それを現実のものにするエンジニアとしてのスキルを兼ね備えており、とにかく次から次に新しいものがどんどん出て来る。そのスピードの速さにものすごく刺激を受けました。
今でこそ、TikTokのようなショート動画サービスが流行っていますが、家入さんは10年以上前に「3mm」というTikTokに似たサービスを既に生み出していました。また、最近ではクラウドファンディングの仕組みを日本に持ち込んで、事業として成功させるなど、時代を先取りする能力を持っていると思います。
※家入一真氏は、株式会社CAMPFIREの代表でもあります。

ーーーそんな家入一真氏との出会いで、万野さん自身はどう変わりましたか?

万野さん:やはり、とにかく手を動かすようになりました。まずは何らかの形を作れるように、スピード感を持って取り組む意識が身についたと思います。

ーーーペパボでは、キャリアの中で最も長い12年間勤務されました。その中で、これまでの人生で一番やりがいがあった仕事を経験されたんですよね。

万野さん:一番やりがいがあったのは、ハンドメイド作家向けのプラットフォーム「minne」を立ち上げたことです。
当時、妻が手作りでファーストシューズを作っていました。従来はフリーマーケットやマルシェ等で手売りするより他なかったのですが、自分が販売用のサイトを立ち上げたところ、サイト経由で靴が500足も販売できました。
そのような経験があった中で、当時ペパボの社内で「ハンドメイド作家向けのプラットフォームを立ち上げるプロジェクト」の社内公募があり、「これは自分がやるしかない!」と思って手を挙げました。

(リリース前に作成した「minne」紹介用のパンフレット。3名のプロジェクトメンバーでこのパンフレットを手配りして、認知向上に努めたこともあった。)

ーーーまさに、万野さんに最適なプロジェクトだったんですね!具体的にはどのようにプロジェクトを進められたんですか?

プロジェクトが立ち上がった当初は、福岡のオフィスでメンバーはたった3名からのスタートでした。そのメンバーで、企画の段階から全て自分たちで作り上げてきました。ちなみに、「minne」という名前は「~してみんね」(~してみない?)という意味の博多弁が由来になっています。
従来、ハンドメイドの作家というのは、手作業・手作りのお仕事なので、ITとはほど遠い位置にありました。そのため、お客様も作家さんも、誰もが使いやすいデザインを追求し、極力簡単に出品・購入できる環境を構築できるように力を尽くしました。このようにアナログな世界をデジタルへと展開できることに、非常に大きな価値があると感じています。
また、以前は地元のワークショップやマルシェ等しか作品を販売する機会がなく、販路が限られているため売上が伸びづらい状況でした。そうなると、当然ながらハンドメイド作家の仕事だけで生計を立てられる人はかなり少なくなってしまいます。
しかし、「minne」で商品を販売するようになったことで、全国にファンが出来て、月に50〜60万円の売上を計上し、ハンドメイド作家を生業にできる人が次第に増えてきました。自分の提供したサービスで誰かの生活を豊かにできたことは、非常に大きな経験でした。
技術的な面で言うと、ちょうどクラウドサービスが出始めの時期でしたので、「minne」のサイトはフルクラウドで作成しました。

(リリースして間もない頃の「minne」のトップページ。今とはロゴのデザイン等も少し異なっている。)

ーーー逆に、ペパボ社時代にはキャリアで一番大変だった仕事もありました。

万野さん:一番大変だったのは、サーバー・ドメインホスティングサービスのデータベースを置き換える作業。なんとか気合いで乗り越えました。当時、ペパボが提供する「ムームードメイン」のユーザー数は10万を超えており、自分がミスをすると大量の人に影響が出るというプレッシャーがありました。
これはWeb関係の仕事全般に言えることかもしれませんが、「1対多数」の仕事は自分がたくさんの人に影響を与えられる分、リスクも伴っています。このような負荷がかかる場面も、ある意味やりがいの裏返しでもあると思います。


ここまでが前半戦となります!

既に盛りだくさんの内容になっていますが、12年に渡るGMOペパボ社での勤務を終えたのち、万野さんは更に新しい道へと進み始めていきます。何でも前向きにチャレンジする万野さんがこの後どのようなキャリアを歩んでいくか、どうぞお楽しみに!

後編は近日中に公開予定ですので、ぜひカホエンタープライズをフォローしてお待ちください!

ここまでご覧いただき、ありがとうございました!

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