それでも、開かれていたい
制度、支援、地域、発信、人材育成、経営。その先にあるもの
ここまで、「閉じない事業者論」というタイトルで書いてきた。
最初は、少し違和感から始まった。
障害福祉サービス事業所、とりわけ就労継続支援系の不正受給報道。
もちろん不正はよくない。
制度は守らなければならないし、コンプライアンスも大事だ。
でも、その一方で、
「ちゃんと」が目的になっていないだろうか
という違和感があった。
怒られないための記録。指摘されないための運営。監査で困らないための「ちゃんと」。
もちろん、それらは必要だ。
でも、それが支援の本質より前に出てしまったとき、何か大切なものが痩せていく気がした。
そこから、このシリーズは始まった。書きながら、僕自身も何度も考えた。
閉じない事業者とは、何なのだろう。
地域交流をたくさんすることだろうか。
外へ向けて発信することだろうか。
新しい事業をすることだろうか。
もちろん、それらも関係している。
でも、たぶんそれだけではない。
閉じない事業者とは、自分たちの正しさに閉じない事業者なのだと思う。
制度に閉じない。
支援者の見立てに閉じない。
事業所の都合に閉じない。
理念に閉じない。
経営判断に閉じない。
発信の美しさに閉じない。
そして何より、「自分たちはちゃんとやっている」という安心に閉じない。
これが、一番難しいのかもしれない。
人は、正しさを持ちたくなる。
組織も、正しさを持ちたくなる。
「これでいい」「このやり方が正しい」「うちはちゃんとやっている」
そう思えた方が楽だ。迷わなくていい。不安も減る。
でも、そこで止まってしまうと、少しずつ人が見えなくなる。
だから僕は、「かもしれない」を大事にしたい。
この人は、こういう人かもしれない。でも、違うかもしれない。
この支援は合っているかもしれない。でも、今は変える時かもしれない。
この活動は意味があるかもしれない。でも、本人には届いていないかもしれない。
この仕組みは便利かもしれない。でも、現場を苦しくしているかもしれない。
この経営判断は必要かもしれない。でも、何かを見落としているかもしれない。
「かもしれない」は、弱い言葉に見える。
でも、僕にとっては、かなり強い言葉だ。
決めつけないための言葉。問い続けるための言葉。自分たちの正しさを疑うための言葉。そして、人の可能性を閉じないための言葉。
支援とは、何かをしてあげることだけではない。
その人がもう一度、自分の人生の主人公に戻っていくために、環境を整え、関係を編み直し、役割をつくること。そう考えてきた。
人は、支えられるだけの存在ではない。
誰かを支えることもできる。
何かを届けることもできる。
役割を持つこともできる。
その小さな回復が、活動を変え、関係を変え、場を変えていく。
僕たちが山の畑で大切にしている、「つながって、ひろがる」という言葉は、やっぱりそこに戻ってくる。
人と人がつながる。
活動と意味がつながる。
事業所と地域がつながる。
小さな実践が次の可能性へとひろがっていく。
これは、きれいなスローガンで終わらせたくない言葉だ。
日々の仕事の中で、本当にそうなっているか。
畑の作業は、誰かの食卓へつながっているか。
商品研究の言葉は、売り場や地域へつながっているか。
三右衛門本舗は、子どもたちや地域の人にとって、あってよかった場所になっているか。ITワークや発信は、事業所の中の知恵や魅力を、外へ開く入口になっているか。記録や蓄積している実践知は、次の支援や職員同士の対話へつながっているか。
そう問い続けたい。
閉じないためには、理念だけでは足りない。
仕組みも必要だ。
でも、仕組みだけでも足りない。
記録がある。対話がある。活動の見える化がある。クエストボードがある。
しごと組みAIがある。
Obsidianに残す実践メモがある。
でも、それらは目的ではない。
支援の本質に戻るための道具だ。現場の知恵を次に手渡すための道具だ。
職員一人の頭の中に閉じ込めないための道具だ。自分たちの正しさを問い直すための道具だ。
ここでもやっぱり、手段の目的化に気をつけたい。
記録のための記録。発信のための発信。研修のための研修。収益のための収益。理念を語るための理念。
そうなった瞬間に、閉じないための道具が、また別の閉じた箱になってしまう。
だから、何度でも戻りたい。
それは何のためか。
誰につながっているのか。
どこへひろがっているのか。
そして、本当に世のため、人のためになっているのか。
この問いは、少し大きすぎる。正直、照れる。
でも、最後はやっぱりそこなのだと思う。
僕たちは、福祉サービス事業者だ。制度の中で運営し、支援を届け、記録を残し、報酬を請求する。
それは大事な土台だ。
でも、僕たちはそれだけの会社ではいたくない。
社会企業として、地域に価値をつくる会社でありたい。働く機会をつくる。役割をつくる。商品を届ける。子どもが立ち寄れる場所をつくる。
誰かの「助かった」「楽しかった」「また来たい」を少し増やす。
その積み重ねで、半径5kmを幸せにする会社でありたい。
半径5km。
大きな世界ではない。
でも、顔が見える。
声が届く。
歩いて行ける。
困っていたら気づけるかもしれない。
嬉しいことがあれば、一緒に笑えるかもしれない。
そのくらいの距離から始めること。
そこに、僕たちの仕事のリアリティがある。
閉じない事業者論を書きながら、僕自身が一番問われている気がしている。
閉じない支援。
閉じない仕組み。
閉じない発信。
閉じない人材育成。
閉じない経営。
言葉にすると、少し立派に見える。
でも現実は、そんなにきれいではない。
日々、迷う。
うまくいかない。予定は崩れる。受託が減る。人手が足りない。記録は追いつかない。畑は天候に振り回される。お店も思ったようには動かない。支援も経営も、泥だらけだ。
でも、泥の中にしか育たないものがある。
畑と同じだ。
きれいな理念だけでは芽は出ない。
土があり、水があり、手入れがあり、虫も来て、天気に左右されて、思い通りにいかない日があって。それでも、少しずつ根が張っていく。
人も、場も、会社も、きっとそうなのだと思う。
閉じない事業者であるということは、完成された理想の姿を示すことではない。
むしろ、閉じそうになる自分たちを、何度でも開き直すことなのかもしれない。
忙しさに閉じそうになる。制度に閉じそうになる。自分たちの正しさに閉じそうになる。
数字に閉じそうになる。人手不足に閉じそうになる。過去の成功体験に閉じそうになる。
支援者の都合に閉じそうになる。
そのたびに、
「本当に?」
「何のため?」
「誰につながる?」
「ほかの見方はない?」
「世のため、人のためになっている?」
と問い直す。
それは、少し面倒だ。正直、とても面倒だ。
でも、その面倒くささの中に、支援の本質がある気がしている。
ソーシャルワークの魂も、たぶんそこにある。
人だけを見るのではなく、環境を見る。
個人だけに閉じず、関係を見る。
問題を責めるのではなく、構造を見る。
そして、関係を編み直していく。
人と環境。本人と地域。支援と仕事。制度と現場。理念と経営。
そのあいだに立って、揺らぎながら考え続けること。
閉じない事業者とは、そういう場所なのかもしれない。
僕たちは、まだ途中だ。
たぶん、これからもずっと途中だ。でも、途中だからこそ、問い続けられる。
途中だからこそ、変われる。
途中だからこそ、つながって、ひろがっていける。
今日の小さな選択が、明日の活動を少し変える。
明日の活動が、誰かの役割を少し増やす。
その役割が、地域との関係を少しひろげる。
その関係が、また次の仕事や支援や出会いを連れてくる。
そんな循環を、僕は信じたい。
大きなことは言えない。
完璧な答えもない。
でも、半径5kmの中で、できることはきっとある。
土の上で。
お店の棚の前で。
記録の言葉の中で。
職員同士の対話の中で。
利用者さんの小さな選択の中で。
地域との何気ない往復の中で。
少しずつ、誰かの人生が自分のものに戻っていく。
少しずつ、誰かの役割が生まれていく。
少しずつ、地域の中に「あってよかった」が増えていく。
それは、とても小さな希望だ。
でも、僕はその小さな希望を、わりと本気で信じている。
閉じない事業者論。それは、何かの完成形ではない。
僕たちが、これからも問い続けるための言葉だ。
世のため、人のため。
つながって、ひろがる。
半径5kmを幸せにする。
その言葉を看板だけにしないために。
今日もまた、僕たちは小さく迷い、小さく試し、小さく問い直す。
そして、閉じそうになるたびに、もう一度、少しだけ扉を開ける。
そこから誰かの声が聞こえてくる。
こちらからも、何かを手渡せるかもしれない。
その往復の先に、障害福祉のもう少しあたたかな未来がある。
僕は、そう思っている。(完)