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ペンギン代表のお話

「何かが足らない」

そんなことを考え始めたのは、大学を卒業して社会人になってから5年ほど経った時だったと思う。
大学院を修了し、社会人になったのが1996年。
建築学科の卒業生には定番のようにゼネコンに入社した。
大学での建築の勉強は楽しく、自分にとっての専門分野の知識・技術を習得できることが楽しくて、コンペに応募したり、有名な建築を見に行ったり、建築家の本を読んだり、とにかく「勉強」をした。
そして、就職を考えることになり、あまり深く考えることなく、定番のようにゼネコンへ。
はじめは現場。その後2年経った後に設計部へ異動。最初に入社したそのゼネコンはとても雰囲気のよい会社で先輩や後輩などの人間関係に恵まれた。

仕事は順調。
社会人になって7年経った時には物件を任せられるようになった。クライアントとも直接やりとりができるようになり、社会的にも認められる物件を作ることもできるようになった。
しかし、そんな中、ある時、感じ始めた。

「何かが足らない」

そんな折、病気になって入院することとなった。病名は髄膜炎。
幸い大事には至らなかったものの、会社を休んだ2か月間、様々なことを考えた。そこで思い至った考えは、「全力で生きる」という言葉だった。
「人は簡単に死んでしまう。なら思うまま全力で生きていこう」
ベッドに寝ながら、拳を上に上げる構えを取った。そして、復帰した時のことを考え、このように自分に誓った。
自分が「独立」を考えた瞬間だった。

その後、入院から職場復帰してからは、仕事だけでなく様々な活動を行った。社外のデザイナー達や建築業界、インテリア業界の諸先輩方との交流。情報交換。そうして、独立するためのノウハウを少しずつ積み上げていった。

2005年、独立。
「何かが足らない」と感じた自分は、もっと「ヒトに近い設計がしたい」と考え、自身の会社は「インテリアデザイン事務所」とした。
独立前から、人脈形成のために活動をしていた東京インテリアプランナー協会。様々な人に多くのことを学び、ここでも「人」に恵まれた。様々な出会いがあり、その関係からインテリアデザインの仕事を得ることになる。マンションのリフォーム。オフィスのデザイン。時々雑誌にも掲載され、一見順調そうに時間は経っていった。しかし、ここでも感じてしまう。

「何かが足らない」

いや、自分に迷いが出ていた、と言った方がいいかもしれない。
「竹村さんて何が得意なんですか?」と聞かれて、明確に答えられない自分。「御社は何が専門分野なんですか?」と聞かれて、答えに窮する自分。自分は一体何をしたいのか。何が「道」なのか。
迷いがますます強くなっていった。
それは、例えるなら、目の前に大きな扉があり、その先には広くて大きな道があることが分かっているのに、その扉を開けるカギを見つけられない自分。自分の進むべき道はなんだろう? 見つけられそうで見つけられない、見えそうで見えない、というもどかしさ。

ほどなくして、試練が訪れる。
会社を動かしていくほどの、収入が、ない。
それ以前に生きていくための収入もない。明日、払わなければいけないものが払えない、という恐怖。
自分のプライドを全て捨て去ってお金を借りる、というみじめな自分。そして、同時に自分が何をすればいいのか、どう進めばいいのかが分からない苦しみ。なんとなく自然な形で人生が終わればいいのに、と考えたことも何度かあった中、一人のお客さんの言葉をふと思い出す。

「竹村さん、展示会のブース、小さなブースをちゃんとデザインしてくれる会社ってないんですよ」

そう、言われたことがなんとなく頭の中に残っていた。
実は、独立前から関わっていた東京インテリアプランナー協会がインテリア系の展示会を主催しており、その関係で実行委員にもなっていた。そんな中、年に数度だけだが、展示会のブースを請われてデザインすることがあった、という経緯。この言葉はその数少ない展示会ブースのお客さんにある時言われた言葉だった。
どうしようもない状況の中で、自分の仕事を見つめ直した。
この時、「建築」と「インテリア」を、捨てることを、決めた。

「展示会ブースデザインに特化した空間デザイン事務所」

最後の希望、とはまさにこのことで、もう本当の意味で「後がない」と感じ、必死に動いた。ホームページを書き換え、出展者の名前をネット上から検索し、月に数千通のDMを送る。まだまだ数が少ない展示会ブースの実績を取りまとめ、プレゼン資料を作成する。
その動きが功を奏して、少しずつ仕事を得られるようになった。
会期中は、自分がデザインしたブースの前に立ち、ひたすら観察した。どうすれば、お客さんが喜んでくれるのか、どんなブースが来場者を集めるのか。少ない物件の中で、デザインしては考え、次に活かす。それをひたすら繰り返した。その結果、何とか「生きていく」ための収入が入るようになった。
「いろいろなことを幅広くやるのではなく、小さな一つのことを繰り返し行い、その専門家になる」
「ビジネスとして特化する」このことを学び、理解した瞬間だった。
それから数年後、仕事は順調に推移し、売上もかつての10倍近い金額となった。

この頃、自分にとっての「天職」はまさにこの仕事だ、と感じる。
展示会に出展するお客様の出展ブースをデザインし、どうすれば来場者が集まるかを徹底的に考える。会期が始まり、計算した通りに来場者が集まる。結果として、お客さんの出展は成功し、展示会の最終日にお客様が満面の笑みで「ありがとう」と言ってくれる。

「ああ、自分が求めていたのはこれなんだ」

足らないものが分かった。自分は「設計」がしたいのではなく、「デザイン」をしたいのでもなく、設計やデザインを通して、お客さんに喜んでもらうこと。その「結果」がほしかったのだ、と理解した。

このことに気が付くのに10年以上の時間を費やした。

何が天職なのか、それはやってみなければ分からない。はじめから分かるものではない。自分がどこかでこだわっているもの、それを捨てた時、初めて見えてくるものもあるのだ、と学んだ。

当社の会社名はスーパーペンギン。
展示会ブースの世界では、そこそこに知られるようになった。
昔感じた「広く大きな道」を今、ゆっくりと、そして堂々と進んでいる。
この先の成長が、今は楽しみでしょうがない。

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