はじめまして。今月からAViCへジョインしました、CFOの笹野です。
これまでの社会人生活を振り返り、メガバンクから投資銀行への出向を経て、AViCのCFOとしてジョインするまでの経緯を赤裸々にお話したいと思います。
少し長くなりますので、今回はメガバンク~投資銀行勤務時代のお話をしたいと思います。
プロフィール
1987年 東京下町生まれ
2000年 筑波大学付属駒場中学入学
2003年 筑波大学付属駒場高校入学
2006年 東京大学入学
2010年 メガバンク入行
2015年 メガバンク系証券のグローバル投資銀行部門に出向
2020年 AViCにCFOとして入社
なぜメガバンクに入ったのか?
当時(大学3年生時)真面目に就活をしていませんでした。ビルを建ててそこにテナント誘致するのとか楽しそう、という非常に浅い志望動機で大手ディベロッパー2社にエントリーをしました。しかし、人気が高く採用数が少ない大手ディベロッパーに、準備不足かつ志の低い私が受かるはずもなく、4月の1週目で持ち駒が無くなりました。そこで、父親が銀行員だったという志望動機(志望動機になっていない)だけで、4月でもエントリーを受け付けていたメガバンクにエントリーしました。最終的に内定を頂戴し、2010年4月に入行することになりました。
銀行に入ったからにはトップの頭取を
メガバンクに入って
配属前の研修では寝てばっかりで、よく自分のいびきの音で起きていたのを記憶しています。寝坊もたまにしていました。まだまだ学生気分が抜けていませんでした。研修の講師に将来笹野は何になりたいんだと問われ、頭取と答えて同期に笑われたことを覚えています。銀行に入ったからにはトップの頭取を目指すのが普通だろと本気で思っていました。配属希望を伝える面談では、大企業にバンバン金を貸したいぜ、ということで大企業営業をやりたいと伝えました。そうしたら幸いにも本店の営業部に配属されることになりました。
営業の基本=お客様を大切にすること。
営業部時代
配属された営業部はゼネコンや不動産を担当している部で、業種柄銀行借入への依存が強く、かつメインバンクの企業が多い部でした。かつてバブル崩壊で経営に大きなダメージを負った企業が多かったです。そのような難しい企業を支える営業部の先輩方は非常に仕事が出来て、いろいろな意味でパワフルな方が多かったです。仕事がいけていないという理由で坊主にさせられた先輩(30代)や、水を入れたバケツを持って廊下に立たされている先輩がおり、まずいところに配属されたなと感じました(後に私もゴルフコンペに寝坊して坊主になりました(*^▽^*))。他の営業部に配属された同期からも、一番やばい部に配属されたな、と言われていました。配属が決まり挨拶に行った際に、開口一番「おまえ麻雀できるのか?」と聞かれたのもいい思い出です。
配属していきなりはお客さんを持たせてもらえません。先輩のやっている仕事のお手伝い、電話取り、コピー、書類整理等の業務が中心になります。何かお手伝いすることはありませんか?と部室をうろつき、電話は1.5コールで取りまくり、コピーを取るときは1部余分にコピーを取り勉強し、誰よりも早く出社し、結構貪欲に仕事をしていました。研修期間はまだ学生の意識でしたが、やるしかねえ、とここで意識が変わったようです。先輩に頂いた仕事は一発で合格がもらえるクオリティではありませんでしたが、とにかくスピードを意識して働いていました。笹野は仕事が早いと評価を頂き、どんどん仕事を任せて頂けるようになりました。むちゃくちゃ厳しくて怖い先輩方に礼儀や社会人としての基本も徹底的に叩き込まれました。バッキバキの体育会系の部でしたが、そのおかげで社会人としての足腰はここで鍛えられました。
私が入社して2年目の2011年、東日本大震災が発生しました。営業部のお客様で、被災地でリゾート施設を運営されているA社が苦しい状況に追い込まれ、A社を支援する特別チームが部内に設置されました。チームヘッドは企業再生のプロフェッショナルでした(部内で一番怖い人でもありました)。メインバンクとしてお客様とのやり取りを行い、他の銀行をまとめ、書類作りが大量に発生し、日々チームの皆さんは時間に追われながら過ごされていました。
ある日、お客様に提出頂けなければいけない極めて大切な書類が期限になっても提出頂けないという事態が発生しました。銀行以上に大変な思いをされているのはお客様で、そういうこともあるよなと私は思いました。しかしその時、チームヘッドはお客様に電話をかけ「おまえらわかってのか、この書類がないと会社が潰れるんだぞ、ふざけんじゃねー今すぐ出してこい」となんとお客様を大声で怒鳴りつけ電話を叩き切ったのでした。
後にこの時のことを教えて頂きました。誰よりもお客様のことを思い、お客様以上にお客様のことを思い、絶対にお客様を救いたいという強い思いがあったからこそ、あれだけ強いメッセージを発したと。
この1件に限らず、営業部の先輩は常にお客様を大切にし、お客様からも信頼し愛されていました。お客様(役員)に誘われ朝まで飲み、翌日昼間にサウナに誘われ、夜はまた飲みに誘われているような先輩もいらっしゃいました。私も常日頃からお客様をとにかく大切にしろと指導を受けていましたし、先輩の背中からも学んでいました。営業の基本はお客様を大切にすることだと学ぶことができました。
念願叶い、上場企業のメイン担当へ。
京都へ
入行して2年目になるとそろそろお客様を持たせてほしいという気持ちが強くなってきましたが、最初に配属された営業部にはお客様を担当するようになったばかりの若手の先輩が何人か在籍しており、自分のポジションはなかなか空かないだろうなあと考えていました。お客様がトップクラスの大企業になると、銀行は部長、次長、メイン担当、若手のサブ担当という布陣で対峙するのですが、サブ担当というポジションに当時は空きがありませんでした。そこで、キャリア面談の場で、今の部でお客様を持たせてもらえない(サブ担当になれない)のであれば早く異動させてほしい、異動先では大企業営業をサブ担当ではなくメイン担当でやらせてほしい、とかなり思い切ったリクエストをしました。するとまた幸運にも希望が叶い、京都営業部に異動して上場企業をメイン担当で担当させてもらえることになりました。言ってみるもんです。2012年の8月のことです。
はじめての一人暮らしで、配属されて1年弱は大阪の借り上げ寮から通っていました。会社の近くに住んでいる先輩方は毎日朝7時半くらいには出社されていて、私も同じ時間に出社するために毎日朝6時の電車に乗っていました。真冬は太陽が昇っておらず、寮から最寄り駅までの真っ暗な道は今でも覚えています。
京都営業部に異動後まもなく、またやばいところに来てしまったと気が付きました。京都は上場企業の8割のメインバンクが他メガバンクで、地銀や信金も強く、私が入った銀行の名前を知らない人もいるくらいプレゼンスが低い地域でした。加えて、入社2年目で部で最若手の私は、全然こちらを向いてくれていない難しいお客様ばかりを担当することになりました。アポイントが入らない、アポイントが入ってもドタキャン、提案をしても全く刺さらない、刺さらない提案をするとますますアポイントが入らなくなる、地獄の日々でした。当然ですが、お客様からお仕事を頂戴する前に、まず存在を認識してもらい、信頼を得て、感謝して頂ける存在になることが必須です。お客様に存在を認識してもらうところからのスタートでした。そうは言っても、こんにちはで会って下さるお客様ではなく、しっかりと提案や情報提供の準備をしないと会えないお客様ばかりで、何の話をすればお客様に評価頂けるかを常に考え続けていましたし、その前提としてお客様を知ること(事業環境、競合の状況、海外展開状況、財務上の課題等)にも相当の時間を使いました。
努力を続ける中で、いつもお世話になっているからメインバンクに秘密で仕事を頼むとおっしゃって下さるお客様や、笹野さんはいいと上司におっしゃってくれるお客様が現れるようになりました。営業の醍醐味を味わいました。営業の基本はお客様を大切にすることだと最初に配属された営業部で学びましたが、お客様を大切にするということは単純にお客様の要望に応えるだけでは不十分で、お客様の役に立つにはどうすればいいのかを能動的に考え続けることだと学びました。
また、営業は個人個人が自分の持ち場で全力で戦うことが当然に重要ですが、大企業営業はそれだけでは不十分で、面と面との戦いが必要で、いかに周囲を巻き込むか、上司をうまく使うか、も重要なポイントであると学びました。数字へのこだわりも徹底的に鍛えられました。営業は数字を達成してなんぼです。初めて自分の担当顧客というものを持ち、その中でどうやっていくら稼ぐのか、しっかりとシナリオや計画を立て収益を刈り取っていくこと、これも営業の基本です。あまりにもこちらを見てくれなかったり、ライバル行のプレゼンスが高過ぎてどうしようもないお客様に対してどう戦うか、いかに少しでも多く果実をもぎ取るのか、といった王道とは違う営業の仕方も学びました(コバンザメ戦法^_^;)。
人生で一番きつかった時代。”プロフェッショナル”の働き方を学び、そういう働き方が好きだと気付いた。
投資銀行の世界へ
京都営業部で2年半を過ごし、営業も軌道に乗り、それなりにやれているなと感触を得られるようになりました。キャリア面談では大企業営業を継続してやりたいとは伝えていたものの、今までやってきたから継続してやっていきたいという志望動機に過ぎず、どうしてもやりたい!と強く思っていたわけではありませんでした。次になにをしたいのか、自分でもわからなくなっていました。そんな状況で人事発令が出ました。グループの証券会社に出向し、IB(投資銀行)のカバレッジ(営業担当)をすることになりました。2015年4月のことです。キャリアの大きな転機でした。
投資銀行業務はいままでやってきた銀行業務(商業銀行業務)とは業務内容が全く違います。投資銀行業務は、資本市場での資金調達のサポート、M&Aのアドバイザリー業務、といった経営者にとって非常に大切な意思決定・執行を支援する業務です。当然に最高クオリティの仕事が求められ、お客様からの評価はシビアで、ライバルの証券会社には極めて優秀な人材が集まっているため競争は熾烈で、勝ち負けのインパクトは大きく(仕事を1件取れるのと取れないので数億円~数十億円変わってきます)、常に緊張感マックスの業務です。お客様や業界環境に対する理解の深さ、思考の深さ、情報提供の質と量、提案アイデアの斬新性(いかに他社と差別化するか)、内容の正確性(特に数字の間違いは即死)、資料のわかりやすさ・見栄え、アウトプットのスピード、プレゼンのうまさ等、全ての面で最高クオリティが求められます。
クオリティの追求にはゴールは無く、アウトプットをお客様に提出するまでずっとクオリティ向上に取組み続けます。ゆえに労働時間が相当長くなります。今は働き方改革で残業時間の制限が厳格になっていますが、当時は200時間以上の残業をしていました。そもそも入社・退社のログの管理がされておらず、正確な残業時間が不明でした(*_*;。調べ続け、考え続けるので頭の体力も使います。またやばいところに来てしまいました。思春期にもそれほどできなかった吹き出物がたくさんでき、白髪が急に増え、太り(深夜にお腹が空いてつい食べてしまいます)、眼が常に充血し、当時は人生で一番きつかったです。もちろん、労働時間が長くなってしまうのは、配属したばかりで私の実力が不十分だったという要因も多分にあります。仕事のスキルが上がってくると少しずつ問題は解消されるようになりました。当時のようなつらい生活は2度とごめんですが、体力のある若い時に経験しておいてよかったなと今では思っています。
最初は仕事の仕方が全然わからなかったため、先輩だけでなく後輩にも頭を下げていろいろなことを教えてもらいました。他の人が作った資料を見まくっていい点は盗み、仕事のできる人にはどんどん食らい付きOJTで仕事を教えてもらいました。誰かが教えてくれる、指導計画を作ってくれる、という発想でなく、自分から成長を求めて貪欲に仕事をしていました。意味のないプライドを持ったり、知ったかぶりをしたり、受け身の態度では成長はできません。
カバレッジに異動して最初の上司は仕事のクオリティに非常に厳しく、私が社会人になって会った方で一番と感じるような超絶頭のいい方でした。お客様への提案の直前(提案書の印刷が間に合うギリギリのタイミング)まで提案資料の内容に指摘を入れ(しかも頭が良いのでその指摘が的確)、印刷がもう間に合いませんというタイミングになると「じゃあこれでいいや」と諦めたような物言いでおっしゃる、とにかく厳しい方でした。たくさん鍛えて頂きました。
投資銀行では新聞の1面に載るような大きな案件にも携わりましたが、あの案件をやった、この案件をやった、というのを回顧・喧伝するつもりはなく、何を学んだのか、ということをここでは述べたいと思います。
それはプロフェッショナリティです。
お客様に最高クオリティのアウトプットを提供することが唯一の目的・自身の存在価値で、それを達成するための努力・妥協を惜しまず、自身を高め続け、過信をせず、その対価として安くないフィーを頂戴するというプロフェッショナルの働き方を学びました。また、自分はそういう働き方が好きだとの気付きを得ました。
投資銀行の本部組織へ異動。難しい要求にも立ち向かい、役員からの信任を獲得。
初の本部勤務
証券に出向しカバレッジを3年半経験し、そろそろ出向元の銀行に戻るのかなと思っていたところ、人事発令が出ました。証券に残留し、投資銀行業務管理部という投資銀行の本部組織に異動することになりました。キャリア面談では本部に行きたいなんて一言も言っていません。投資銀行の働き方が好きだから銀行にはまだ戻りたくない、とりあえずカバレッジを続けたい、としか言っていませんでした。当時、例の厳しい上司が投資銀行業務管理部を管轄するポストにおり、私を一本釣りしたというのが人事異動の背景です。またあの人の下で仕事をするのか。。。本部組織では営業推進の仕事を任されました。各種施策の立案・効果測定、顧客ターゲティング、営業リソースの最適化、各種社内調整等が任務です。
例の厳しい上司は相変わらず厳しく、営業推進をするのであれば案件(投資銀行ではパイプラインと言います)に関する情報(進捗、確度、収益金額等)をすべて正確かつタイムリーに把握しておけ、と言われていました。カバレッジが提案している提案資料をすべて見て、カバレッジと顧客との接点が入力されているSalesforceをすべて見て、カバレッジの会議に忍び込み、フロアをうろうろしながらカバレッジと会話をし、やれることはやりました。それでもパイプラインを完璧に把握するのは無理で、上司にはよく叱られていました。上司も無理は承知で難しい要求をしていたのだと思います。
そのような日々を送っている中で、私は会社の中でパイプラインに一番詳しい人になっていました。そうすると、パイプラインや現場の状況を知りたい役員から直接問い合わせが私にくるようになり、それにしっかりと対応することで、役員からの信任がどんどん得られるようになりました。例の厳しい上司はそこまで見越して私に厳しいタスクを課していたのかもしれません。
営業戦略の立案や計数管理等のスキルに加え、経営・本部組織という現場への影響力が大きい組織が下す判断や意思決定がどれだけ重たいものなのか、役員・経営者が何を考えて仕事をしているのか、全社目線で仕事をするというのはどういうことなのか、ということを学ぶことができました。
このような経験を経て、私がなぜAViCのCFOになる道を選んだのかについては次回お話申し上げます。