旅に行きたいという欲求は、何のためにあるのだろうか?
そう問われ思い浮かぶのは、旅によって得られる新たな思い出への期待だろうか。美味しい食事、非日常の体験、人や土地への新しい発見。そういった楽しい思い出を作ることに期待する人は多そうだ。
自分も旅行が好きで、特に海外旅行での思い出はかけがえのない宝物だ。香港の飛び上がるほど美味しい海老蒸し餃子、アラスカの夜空になびく神秘的なオーロラ、などなど。そういった映える思い出だけでなく、シンガポール空港に着いた時の温室のような匂い、といった瑣末な記憶も残っている。だからだろうか、旅の予定もないのに空港へ無性に行きたくなることがある。
とはいえ思い出は人それぞれだ。リゾートビーチでくつろいだ、アクティビティを楽しんだ、現地でショッピングした。そうことが思い出という人もいるだろう。つまるところ、人は思い出という非日常な体験で得たポジティブな感情の記憶により、また旅に行きたいという欲求が湧き上がるのかもしれない。
しかし、旅に出たいという旅欲がポジティブな感情を得るためというのは、心の浅い部分しか見れてないと思う。
旅欲と同じ欲求として、食べたいという食欲と比較をしてみる。
人が果物を食べたい理由は、果物が甘いから、と思うかもしれない。しかし、「甘いというポジティブな感覚を得るため」とするのは表層的で、本質的な理由は「豊富な栄養を獲得するため」だ。因果が直感とは逆で、栄養が豊富な豊富な糖分や脂肪を美味しく感じる人が生き残ったから、人は果物や肉を食べたがるのだ。
では、非日常でポジティブな感情を得るためとするのは表層の理由とすると、旅欲の本質は何だろうか?
食欲と同様に、人の進化に関わるなんかしらの理由があるはずだ。残念ながら、旅行について進化的な理由の研究はまだあまりされていない。しかし、農業がまだなく定住せず転々と狩猟採集していたことにヒントがあるという予想はできる。旅という非日常、すなわち、生活圏から逸脱することのメリットがあったはずなのだ。
そう考えると可能性があるのは「新天地で新たな資源を開拓すること」だ。これが旅のメリットであり本質と自分は考えてる。
理由として、狩猟採集時代は農業がなかったので留まり続けると人が増えたら資源が枯渇して生きられないことがある。だから住処を転々として暮らした者が多くなった。そして、新しい土地に移ったらまず生き残るための資源を把握する必要がある。飲める綺麗な水の場所、知らない果物の味、その地の動物の習性、安全な寝床などの把握は死活問題だ。そのため、資源が豊富な新天地でテンションが上がったり、些細なことにも記憶力が強化されたりした者が生き残りやすいだろう。
つまり、旅をポジティブに感じたりその場の記憶が強く残った者が生き残ったため、人は何度も新しい旅に出たがるのではないだろうか。珍しい料理を食べる、現地のお土産を買う、知らない文化の遺跡を見る、綺麗で眺めのいい場所で休む。これらへの期待は全て、旅の祖先である資源探索の名残なのかもしれない。
この仮説が正しいなら、旅欲は先天的な欲求であり能力と言える。もしあなたが旅に行きたいと思うことがあるならば、それだけで旅の才能があるということだ。
アトモフウィンドウは遠くの場所の風景を映すデバイスである。今が旅行に行けない状況にあるならば、旅行へ行く代わりにアトモフウィンドウで風景を眺めることは、旅欲を満たす役に立つ。
しかし、むしろ満たしきれず欲求が積み上がる人もいるかもしれない。だとすると、いつか行けるようになった時にその旅欲の蓄積がバネとなって勢いよく飛び出していけるはずだ。そんな旅の才能がかなりある人には、非日常を映すデバイスで旅への欲望を研ぎ澄ます、というワイルドな使い方を提案をしたい。