朝日インタラクティブ採用担当です。今回から2回にわたり、先月代表取締役社長に就任した小関路彦(おぜき みちひこ)のインタビューをお届けします。前編では、幼少期から大学時代、朝日新聞出版局への入社から朝日インタラクティブ取締役への着任までを語ってもらいました。
読書とバンドに打ち込んだ高校時代
―― どのような幼少期を過ごされましたか?
出身は埼玉県の越谷市で、高校までは越谷で過ごしました。小学生の頃は、野球が大好きでしたね。地元の“ストロングナイン”という強そうな名前のチームに所属していたのですが、勝てるのは年に一回くらい(笑)。勝つと胴上げするほど盛り上がるようなチームで、ポジションはショート。平日は学校が終わると空き地に集まって野球をやっていました。巨人の原辰徳さんが好きで、野球中継のラジオをよく聞いていました。
中学校では個人競技に挑戦してみたいと思い、陸上部に入部。1500mや3000mといった長距離走を選び、ひたすら走っていました。その一方で、生徒会長もやりました。正面玄関に目安箱を設置して、生徒からの声を集めるということをしたのですが、見事に「校則をゆるくして欲しい」という意見ばかり(笑)。当時、いわゆるボンタンを履いたり、茶髪にしたりする生徒も多く、「守っていない校則をゆるくできると思いますか?」と全校集会で言った記憶があります(笑)。でも、そういうボンタンで登校するような友人たちとも仲良く過ごしていました。
―― 高校生活はいかがでしたか?
高校は、神奈川にある大学の付属高校に入ったため、越谷から毎日往復4時間かけて通学していました。移動時間は電車の中でひたすら読書。それがきっかけで、将来は活字に関わる仕事をしたいと思うようになりました。私の人生にとって、あの通学時間はとても重要な時間だったと思います。当時は生意気ながらに、いま勉強したことは大人になったら忘れてしまうだろうと思ったんです。でも、読んだ本は忘れないだろうと思い、勉強はせずに本ばかり読んでいました(笑)。
―― 当時読んだ本で、特に印象に残っている作品はありますか?
印象に残っているのは、有島武郎の『小さき者へ』。「人生を生きる以上 人生に深入りしないものは災いである」と書いてあって、まさに思春期で悩みも多かった時期だったからか、特に心に響いたことを覚えています。ほかには、『アルジャーノンに花束を』や村上春樹作品も印象深かったですね。文学作品を読むことが多く、例えば「新潮文庫の100冊」などはほとんど読みました。書店にパンフレットが置いてありますよね? あれをもらってきて、1冊読むごとにタイトルを消していくんです。読み終わると毎回、自作の読書ノートに感想文を書いていました。
―― それはすごいですね。ほかには何か打ち込んだことはありますか?
通学時間の関係で運動部に入れなかったので、友人とバンドを組んでいました。最初はボーカルやギターだったのですが、派手なアクションがどうも苦手で、途中からベースに転向しました。後ろのほうで演奏している縁の下の力持ち的なポジションのほうが、居心地が良かったんです(笑)。付属高校で受験勉強をする必要がなかった分、読書やバンドに打ち込むことができたのだと思います。
―― 大学生活についてもお聞かせください
大学ではバンドサークルに入りました。高校時代の仲間もそのまま同じサークルに入ったので、高校の延長という感じでしたね。大学構内にある練習場が夕方の6時から9時まで使えたので、みんなで練習をしてそのままご飯を食べに行き、よく麻雀もやっていました。サークルで代々受け継がれている立体駐車場のアルバイトや、塾の講師などもやりましたね。大学生活は、バンドとバイトと麻雀という仲間たちとの時間がほぼ占めていたと思います。勉強もそれなりにしていたかな(笑)。
念願の朝日新聞社出版局に入社
―― 新卒で朝日新聞社に入られましたが、就職活動はいかがでしたか?
実は就職浪人をしたため、大学は5年かけて卒業しました。当時はかなりの就職氷河期で、周りにも就職浪人組が多かったんです。内定をいただいた会社はあったのですが、希望していた出版社や新聞社には入れず、やはり活字に関わる仕事をしたいという気持ちが強かったため、悩んだ末に就職浪人を選びました。その理由として、一年目の就活の終わり頃に手ごたえを感じてきたことも大きいですね。初年度は編集部門ばかりを受けて落ちてしまったのですが、自分は営業のほうが向いていると感じ、二年目は営業部門を受けたんです。その結果、早々に朝日新聞社の出版営業職での内定をもらうことができ、入社を決めました。
―― 入社後はどのような仕事を担当しましたか?
入社後はまず取次営業を担当しました。書店に本を届けてくれる販売会社への営業ですね。その後は、書店営業を担当し、書店回りを経験しました。新刊の案内をし、既刊の追加注文を取り、さらに書店員さんに他社のどんな本が売れているかを聞いて編集部にフィードバックするのですが、本好きな私にとっては本当に楽しい仕事でした。全国の書店を回るため、地方への出張も多いのですが、出版業界は横の繋がりが深いので、別の出版社の方や書店の方と会食する機会も多いんですね。他社の営業担当の方が、書店の方を紹介してくれることもありましたし、自社の新入社員だけでなく、他社の新人もみんなで育てるような文化もありました。少し独特な文化もしれませんが、そこで人との接し方を学ぶことができたと思います。
出版販売部で5年ほど過ごした後、書籍編集部に異動し、ベテランの編集者と一緒に永六輔さんや瀬戸内寂聴さんの担当もさせてもらいました。それまでとはまったくの別世界で、永六輔さんから年賀状をいただいて、「本、楽しみにしています」と書かれているのを見た時は感動しましたね。
―― テレビ局への出向も経験されたと伺いました
編集部に入って1年ほど経った時に、朝日新聞社とテレビ朝日のコラボ商品を出版するというミッションで、テレビ朝日に出向しました。手がけたのは、人気ドラマ『相棒』のノベライズと『世界の車窓から』のDVDブック。相棒はちょうど翌年の映画化が決定した頃です。どちらも人気番組のシリーズ作品でしたので、とても貴重な体験をすることができました。1年半くらい経った頃、私がいた出版局が朝日新聞社から分社化する見通しとなり、そのタイミングで出版局に戻り、デジタル・ライツ部に配属となりました。
紙の世界からデジタル領域へ
―― デジタル・ライツ部はどのようなことを手掛ける部署になりますか?
ひとつは文字通りのデジタル出版で、DVDブックなどを発行していました。もうひとつは、自分たちの出版の資産を、自社以外で活用する権利ビジネスを行っていました。日本で出したパートワーク(分冊百科)の出版権を海外に販売したり、インターネット百科事典『コトバンク』などのデジタルビジネスを手掛けたりしていました。
その後は新聞社のデジタル部門に異動になり、KDDI、テレビ朝日との3社で組んだニュースサービス『EZニュースEX』の立ち上げに携わりました。当時はまだフィーチャーフォン、いわゆるガラケーの時代で、auユーザーにはデフォルトで出てくるニュースサービスですね。ニュースがメインなのですが、出版のコンテンツも必要だろうということで、出版出身の私がアサインされたと記憶しています。
―― そこからはずっとデジタル領域を歩んでこられたそうですね
はい。EZニュースEXの立ち上げ後に、電子書籍事業が立ち上がり、ソニー、KDDI、凸版印刷との合弁で、電子書籍配信会社の『ブックリスタ』が設立され、そこで初めて電子書籍に携わりました。
2013年からはデジタル部門の営業部隊に配属になり、『朝日新聞デジタル』の営業担当となりました。法人営業チームに属し、企業とのアライアンスで読者を増やす、いわゆるBtoBtoC(B2B2C)をメインに担当しました。一方で、ニュースの外部配信にも携わりました。放送局、デジタルサイネージ、ニュースポータルなど、朝日新聞のニュースを自社以外の場所に提供する仕事です。スマートフォンの普及とともにニュースアプリの競争が激しくなり、次々と配信先が増えていきました。配信先によって記事の読まれ方が異なるため、日々のデータ分析も行っていました。
―― 本が好きで出版局に入られた中で、デジタル領域への転向についてはどのように感じられていますか?
そうですね。朝日新聞に入ったのは、先ほどから話した通り、活字が好きだったからです。ただ、世の中の流れがデジタル化していく中で、紙の難しさは肌で感じていました。当時は、デジタル領域に関してはわりと権限が移譲されていて、プランから決定までに時間がかからなかったことに、仕事のしやすさを感じていました。また毎日のように世の中のテクノロジー情報がアップデートされていましたから、メンバー間で「この技術でなにができるかな?」と話し合うのも楽しかったですし、先進的な取り組みをしていることのおもしろさも感じていました。
デジタルの将来性と可能性を見出したいと思っている中で、いまから3年前に朝日インタラクティブに取締役としての着任が決まりました。元々とても気になっていた会社だったので、念願かなっての異動でした。
後半では、朝日インタラクティブとの出会いから今後の展望、求める人材についてもお届けします。お楽しみに!