父はフィンランドで名の知れたITエンジニアでした。ある年、観光で日本を訪れた父は、そこで母と出会いました。国境を越えて家族になった二人のもとに生まれたのが私です。
物心つく前に、家族でフィンランドに渡りました。だから私にとっての子ども時代の景色は、フィンランドの静かな光と、夜遅くまでパソコンに向かう父の後ろ姿です。書斎にこっそり入っては、画面に並ぶコードを眺めていました。何をしているのか分からないのに、なぜか目が離せませんでした。気づけば自分もキーボードに触れるようになっていて、父の背中を追いかけるようにコンピュータサイエンスの道を選びました。
一方で母は、フィンランドで暮らしながらも、いつも日本の話を聞かせてくれました。困っている人がいれば自然と手を差し伸べる文化。約束を守り、誠実であることを大切にする価値観。四季の移ろいの美しさ。母の言葉を通して、私は行ったことのない「もう一つの故郷」を、少しずつ自分の中に育てていきました。
大学でコンピュータサイエンスを学び、フィンランドの企業でキャリアを積む中で、ふと考えるようになりました。自分が生まれた国に、まだ何も返せていない。母が語り続けてくれた日本という国で、自分の技術を試してみたい。そして、母がずっと大切にしてきた故郷の近くで、母と時間を過ごしたい。そう思い、日本に戻ることを決めました。けれど、日本での生活は想像していたよりずっと難しいところから始まりました。母が日本人であっても、育った環境はフィンランド語が中心です。日本語での実務コミュニケーションは、想像以上に高い壁でした。会議の途中で言葉に詰まり、情けない声を出してしまったことも一度や二度ではありません。今でもネイティブレベルとは言えず、時々発音があやしくなることもあります。それでも、業務に支障をきたしたことはなく、この数年で本当に多くの経験を積むことができました。
言葉の壁よりも先に、手を動かして結果を出す。そう決めてから、物流、金融、Web3、生成AIと、畑違いの領域を渡り歩きながらシステム開発に携わってきました。フリーランスとして活動していたある月には、クラウドワークスのエンジニア部門、契約部門、総合部門のすべてで月間ランキング1位となり、バッジをいただいたこともあります。言葉で語るより先に、成果物と対応の質で信頼を積み重ねてきた結果だと思っています。
要件定義から設計、開発、運用まで一人で完遂できるようになったのも、振り返ればこの経験と無関係ではない気がしています。誰にも頼れない環境で、自分の頭で考え、手を動かして形にする。異なる文化のあいだで自分の居場所を作ってきた経験の延長線上に、今の仕事の仕方があるのだと思います。
これからも、生まれた国である日本で、自分の技術を通して誰かの課題を解決していきたいと考えています。