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【多様なキャリア#6】大手新聞社の内定を蹴って、メキシコでたこ焼き屋を営んでいた男がJBAに入社した理由

メキシコのたこ焼き屋店主からJBAコンサルタントへの転身を遂げた、上田孟文さん。

すでに社会人として活躍しながら、その環境を捨て、JBAでの新たな人生の船出を決めたキャリア入社社員。学生時代に打ち込んだことから、就活のエピソード、前職での葛藤、数ある企業の中からJBAを選んだ理由、さらには実際にJBAで働いてみてのギャップに至るまで、本音を直撃しました。

まずは自己紹介をお願いします。

はじめまして、上田孟文です。出身は大阪府枚方市。子どもの頃からガンダムと世界史が大好きでした。中学生の頃に世界を飛び回るジャーナリストになりたいと夢を抱き、大学は1浪して立命館国際文化学部に進学。大学時代は国際協力団体に入り、インドネシアと日本を往復する日々を送っていました。卒業後は大学時代に出会ったメキシコ人のパートナー2人とともに、メキシコでたこ焼き屋を開業。29歳で帰国し、JBAと出会い、今に至ります。

これだけでもすごく濃いですね…!上田さんの子ども時代はどんな感じだったんですか?

好奇心が旺盛な子どもでした。中でも好きだったのがガンダム。昔から積み木が大好きだったのですが、気づけばガンプラづくりにハマっていました。そんなガンダム大好き少年の実家には、地球儀がありました。小3のときにくるくる回して遊んでいたところ、ガンダムに出てきた地名があるのを見つけ、「アニメの地名が現実にあるんだ!」と驚愕。それが世界に興味を持ち始めたきっかけでした。それからは世界史の本を読み漁りましたね。当時の夢は、ガンダムを作ること。小学校の卒業文集には、「ガンダムを作ってアメリカを滅ぼす」と書き、先生から呼び出されていました。今から思ってもちょっと過激な子どもでしたね。

中学生ごろになると世界を飛び回る仕事がしたいなと考えるようになりました。登山家や外交官などいろいろ選択肢を考えていましたね。高校生くらいからジャーナリストを目指し始めました。

ジャーナリストを目指すことになった理由はなんですか?

ガンダム作りも諦めたわけではなかったんです。高校時代はガンダムを作る夢を捨てきれずに理系に進みました。今も夢は捨てておらず、投資でガンダム作りに携わりたいなと野心を燃やしています。

と、ガンダムの話はひとまず置いておきましょう。僕は子どもの頃から、新聞を読めと言われて育ちました。毎朝お母さんと10分間、新聞の1記事について議論するのが我が家のルール。自然と新聞が好きになり、ジャーナリストに憧れを抱きました。とはいえ、ガンダムも作りたい。どちらを目指すべきか悩んでいました。また、高校で理系に進んだものの、物理や数ⅢCが全然できなかったんです。とりあえず高3は理系でガンダムの道に挑戦してみようと、大阪市立大学を受験。結果は不合格でした。ああ、自分には理系の才能はなかったんだなと腑に落ち、浪人では文系に。改めてジャーナリストへと舵を切りました。1年間の浪人の末、第1志望の神戸大学は落ちたものの、立命館大学国際文化学部に合格。大学生活の幕を開けました。

これは余談なのですが…、僕は昔から実家は貧乏だと言われて育ったんです。また、お父さんはとても多忙な人で、僕が起床する頃にはすでに出社し、寝た頃に帰宅するような生活。顔を合わすことすらほとんどなかったため、当然のように会話もなく、お父さんの仕事さえ知りませんでした。国立大学に落ち、私立大学に行くことになったため、奨学金が必要なんだろうなと考え書類を準備。書類には年収記載欄があるため、お父さんに年収を尋ねました。すると「そんなに年収低くないから」との返事。はじめて親の仕事を聞きました。なんと、お父さんの勤め先は、読売新聞。「え、全然貧乏ちゃうやん!」と驚くと同時に、子どもの頃から新聞を読めと言われて育ったことが全てつながりました。お父さんともよく話すようになり、いつしか自分も新聞記者になりたいという夢を抱くようになりました。ちなみに、貧乏だと言っていたのは、まっとうな金銭感覚を身に付けてほしいという親の教育方針だったようです。



なるほど!毎朝、新聞を読んでディスカッションは凄すぎると思いましたが、そんな理由があったのですね。大学入学後はどんな生活を送られたのですか?

海外に行って、なんらかの活動をしたいと考えていました。インドネシアの国際協力の団体の存在を知り、話を聞きに行ったところ、一年上の先輩で次代の代表者さんがとてもいい人で。この人と一緒に頑張りたいと思いました。当時の国際協力の団体は、国や地域を転々とすることが一般的。しかしその団体は、ずっと1つの村で活動し続けていました。長い期間同じところにいると、現地の方々も信用してくれます。深く関われることが面白く、大学生のうちはインドネシアとの往復ばかりでした。

就活はされていたんですか?

していましたよ。5大新聞社や地方紙などを受けていました。新聞社の面接は圧迫面接が多く、 大体熱くなってしまってけんかしていましたね。そんな僕でしたが、大手新聞社1社から内定が。バチバチしている熱い人材を求めていたんだと思います。内定が出たものの、やはり迷いました。新聞記者は大体はじめの10年は警察回り。昼夜問わず張り込み、事件の記事を書くわけです。世界に行きたいという夢を持っていた自分にとって、10年はとてつもなく長かった。自分の人柄を買ってくれたとはいえ、やはり大企業。すべて自分の想い通りに進めることはできません。このまま就職してしまえば、海外への夢は諦めることになる、そんな葛藤を抱えていました。

そんなときに出会ったのが、のちにメキシコでのパートナーになる2人。メキシコからの留学生でした。グローバルイベントで出会った彼らは、「日本がとても大好き。特に大阪のたこ焼きは本当においしい!でもメキシコにある日本食は、すしだけ。帰国したらもう粉ものを食べることができない。」と寂しげに語っていました。僕はインドネシアでの経験から、社会を変えるためにはビジネス活動が必須であること、そしてそれを実現するためには、「教える」という他人行儀な手法ではなく、自分自身が現地で活動する「当事者」になることが必要だと考えていました。すなわち、彼らのためになりたいのであれば、僕がメキシコに行ってたこ焼きを食べられる環境をつくることが一番だと思ったのです。興味はあるものの、新聞記者の夢も捨てきれない。悩みはさらに大きくなりました。

そこでゼミの教授に相談することに。教授は大手新聞社の本社部長にまで上りつめた方です。「新聞記者というのは、なにか1つの事象に対して斜め上から報じる。上田はプレイヤーでありたいという思いが強いんじゃないか。若いうちは全力でやればいい。35くらいには深みのある記事が書けるようになるだろう」そんな言葉をかけてくれました。お父さんにも相談したところ、若いうちは冒険してみればいいんじゃないかとまたもや後押し。強力な2人のバックアップを得て、僕は大手新聞社の内定を蹴り、メキシコ行きを決意しました。

メキシコでのたこ焼き屋経営はどうだったんでしょうか。

はじめは全然うまくいきませんでした。当初の予定ではフードトラックを使い、路上でたこ焼きを売る予定でした。メキシコの法律的にはOKなことも、事前に調査済みでした。しかし現地に行くと、不可能だと判明。メキシコにはマフィアがいます。マフィアが道で売っているため、路上に出店すればマフィアの取り分を奪うことになる。危険だからできないとのことでした。

それなら、祭りなどのイベントに出ようということで、たこ焼きプレートとカセットコンロをもって出店しました。2~3か月やるうちに、メキシコの文化が分かってきました。僕らの売っているたこ焼きは200円、一方でタコスは80円ほどです。メキシコ人は、高い物を食べる際にはレストランに行きます。イベントの出店では高価な食べ物は選ばれません。これはレストランを立てるしかない。僕とパートナー2人で100万円ずつ持ち寄り、300万円の資金でなんとか店舗をつくりました。当時のメキシコの物価は日本の1/4程度だったのも幸いしましたね。

しかしいざ開店したものの、僕が作れるのはたこ焼きとお好み焼きとたい焼きの3品目だけ。メキシコの文化的には、メニューの見開きが埋まっていないとレストランとして認められません。とはいえ品目を増やすことはできない。どうしたらいいか考えたところ、日本人が売っていることをPRすればいいのではと思いつきました。着物を着て、道に立ってチラシを配り、自ら宣伝。日本人がなにかやってるぞと認知され、徐々に客足も増えました。お客さんからすれば、たこ焼きを食べたいということより、日本人と会いたいということにインセンティブがあったんです。5年間、金銭的には貧乏でしたが、お客さんと一緒にしゃべるのはとても楽しかったですね。



順調に進んでいたようですが、日本に戻って転職しようと思った理由はなんですか?

はじめはたこ焼きを伝えるのがモチベーションだったのですが、いつしか日本文化を伝えることが自分のモチベーションになっていきました。日本の映画を見たいと言われれば、ほかの店や人と協力して映画の上映を行いました。お客さんがラーメンを食べてみたいと言われれば、クックパッドで10分でできるレシピを見つけラーメンを作りました 。最初は全く売れるとは思っていなかったのですが、予想を超える反響が。本格的にメキシコにラーメンを広めるためには、10分のお手軽ラーメンではだめだと思い、メキシコシティの日本人のラーメン屋に修行しに行きました。また、常連客から日本へ旅行に行きたいと要望を受けたこともあります。ただ、メキシコには既に多くの旅行代理店が存在していましたし、日系の企業もあります。なぜ、僕に声をかけたのか詳しく話を伺ったところ、「私は日本語は全く話せない。でもアニメとか日本のコアな文化が体験したいんだ!でも旅行代理店にはそんなプランがないんだよ」と教えていただきました。日本語が話せないからプラン旅行を選ぶほかない、でも融通の利く自由な旅行がしたい。そんなニーズがメキシコにあることを知り、より個別な旅行プラン組める代理店を立ち上げました。当初は単なるたこ焼き屋だったはずが、いつの間にかビジネスが拡大していったのです。

メキシコで過ごすうちに、どんどん日本のことが好きになりました。一方で自分が日本について全然知らないことを痛感しました。メキシコのためにいろんなことをしたいけど、どうしたらいいか分からない。日本で働いたこともない自分がこれ以上何をできるのか、壁にぶち当たりました。

メキシコでたこ焼き屋を0から立ち上げ、5年間経営した。そろそろ日本に活動のフィールドを移すのもありじゃないか。共に励んできたパートナーにも背中を押してもらい、日本への帰国を決めました。

数ある企業の中で、JBAを選んだ理由はなんですか?

友人に勧められた求人メディアで、 一番初めに見たのがJBAでした。その時はまだ帰国前でなんの行動もしませんでしたが、「社員皆経営者」を掲げており、こんな会社があるんだ、と思いましたね。

その後、求人メディアを利用して、いくつかの企業の面接を受けたのですが、どうにもしっくりこず。「起業家精神を求める」と求人に書いているものの、実際は単純な業務遂行能力を求めている企業がほとんどでした。そこでふとJBAのことを思い出し改めてHPをチェックしたところ、「ここは本気で会社を動かせる人材を求めているんじゃないか」と思い、応募しました。

実際に面接を受けてみた感想は、本当にすごい会社だなと。1回目の採用担当の方は、自分が思い描いていたことを全部おっしゃっていて。人の満足のためにここまで頑張るんだと感銘を受けました。特に心惹かれたのがクリニック事業 。クリニックを経営するお医者さんが抱えている問題は、人をどう雇うか、どう広報するか、店舗をきれいに保つためにどうするか、など私がメキシコで飲食店を経営していたときに全力を費やしていた課題と一緒。私がメキシコで悩んできたこと、頑張ってきたことを直に活かせる仕事だと心躍りましたね。また、お医者さんが抱える悩みや苦しさの理解者ともなれるのではと、自分の活路を見出せました。

2回目の部長面接では、自分の話をとても真剣に聞いていただきました。自分に興味を持っていただけていることが分かり、嬉しかったですね。そして最終面接は社長。正直言うと、失敗したと思いました。「会社として君をどうやって使っていいか分からん」と、はっきり言われたんです。たしかに、その通りだと思いました。前職がメキシコのたこ焼き屋って普通じゃないですからね。そして「もっといろんな会社見てきなよ」と言われました。その言葉に従い、20社もの会社を見て、面接も受けました。そこで分かったのは、良いのか悪いのかは別として、どこの会社も条件や海外でのことを聞いてくること。しかしJBAはこれまでどうしてきたのか、どんな考えを持っているのか、根底の部分を重視していました。20社を見た上でやっぱりJBAで働きたい。JBAならチャレンジできる。そう考え、入社を決めました。



JBAに入社して約1ヶ月。環境や立場も大きく変わったと思いますが、入社してみてどうですか。

あまり違いを感じないんです。そこもすごいなと思いますね。要するに、何かやりたいなと思ったらできちゃうんです。制作側としゃべってもいいですかと聞けば、OK、お客さまに電話していいですかと聞けば、それもOK。社長や部長であろうと立場関係なく即相談できます。さらには、入社数週間で社内勉強会の講師をさせていただくこともありました。仕事をする中で先輩方からアドバイスをもらい、それをもとに次はこうしよう、ああしようと考えて日々勤しんでいます。メキシコにいる時と感覚的には全然変わりませんね。

JBAのカルチャーでここがいいなと思う点などありますか

上下関係がないことはいいですよね。下っ端でも、社長や部長に話すことができる、風通しのいい会社だなと思います。

また、JBAの誰と話しても、「長期関係性」を大切にしているのは凄いなと思います。僕も経営する立場で20人ほどをまとめていましたが、その規模でも同じマインドを共有することは難しいのです。170人という規模で成し遂げているのは、経営者だった自分としても本当に尊敬しますね。

これからの上田さんの目標を教えてください

僕が入社したきっかけでもあるクリニック事業は絶対にやりたいです。また、冊子が好きで、出来上がっていく過程にも興味があるので、取材や執筆など、いろいろ突っ込んでやっていきたいと思います。

同時期に入社した赤木さんとも、僕たちで1個事業創りたいよね、なんて話をしています。せっかくJBAに入社したので、大きなことをやりたいですね。

これからの活躍期待しています!ありがとうございました!
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