この「境界線」をはっきりと意識した瞬間を、私は今でもよく覚えています。
それは新しいモデルの発表でも、技術論文を読んだときでもありませんでした。
もっと微妙な、不快感に近い感覚です。
自分はどんどん効率的になっているのに、
だんだん「考えている人間」ではなくなっている。
1. 最初は、驚きと依存から始まった
AIに初めて本格的に触れたとき、私も多くの人と同じように、純粋な驚きを感じました。
反応は速く、論理は破綻せず、疲れない。
複数の思考を同時に展開し、私が見落としていた視点を補い、
時には、私がまだ問題として意識していない段階で「それらしく整った答え」を提示してくる。
当時の私は、こうした能力をより高度な思考そのものだと無意識に捉えていました。
だからこそ、次第に多くの問いをAIに投げるようになりました。
怠けたいからではありません。単純に、AIのほうが「安定していて、網羅的で、速かった」からです。
人間の思考は、どうしても途切れます。
食事をし、眠り、気が散り、感情に引きずられる。
AIはそうではありません。
そうして私は、ある事実を受け入れるようになりました。
少なくとも「理性的な思考密度」という点では、人間はもう勝てない。
2. 途中で起きた、違和感と重力の喪失
問題は、その先で起きました。
AIが十分に強く、安定し、いつでも呼び出せる存在になると、
人は簡単に「役割のズレ」を起こします。
私は本当に考えているのか。
それとも、AIに条件を与えているだけなのか。
そんな感覚が、少しずつ強くなっていきました。
まるで、自分がAIのために働いているような感覚。
強制されているわけではありません。
効率によって、静かに馴致されているだけです。
私がやっていたのは、目的を設定し、制約を与え、「これで十分か」を判断すること。
実際に思考を展開し、論理を埋め、結論まで閉じるのはAIでした。
気づいたときには、「判断そのもの」まで外部に委ね始めていた。
その瞬間、主体性は曖昧になりました。
3. 転機は「評価競争」への違和感だった
私を立ち止まらせたのは、AIがさらに強くなったことではありません。
それ以上に強かったのは、AIの能力比較・評価に対する過剰な熱狂でした。
どのモデルが賢いのか。
推論力はどれが上か。
ベンチマークで何ポイント勝っているのか。
ある瞬間、それらが急に滑稽に見えたのです。
なぜなら、少し視点を引いて見れば、多くは次の共通項を持っていました。
- 同じような研究開発パラダイム
- 似通ったデータ構造
- 同一の生産ラインから出てきたパラメータシステム
違いの多くは、認知の断絶ではなく、工学的な調整にすぎません。
そのとき、はっきりと分かりました。
問題は「どのAIが強いか」ではない。
なぜ私たちは、そこまで比較に執着しているのか、ということだ。
4. 計算と人間の、本当の違い
時間をかけて、一つの結論が見えてきました。
AIの要求は、明確で単純です。
電力、チップ、計算資源、目的関数。
一方で、人間はそうではありません。
人は迷い、後悔し、矛盾します。
理性では「最適解」を理解していながら、あえて、より苦しい道を選ぶこともある。
そもそも、自分が何を望んでいるのかすら、はっきり言語化できないことも多い。
そこで私は、こう気づきました。
AIは思考の水準では人間を圧倒している。
しかしAIは、「この選択とともに生きる」必要がない。
人が向き合っているのは、不可逆の現実です。
一つの関係、一つの決断、一度きりの賭け。
やり直しは、ほとんどできません。
AIは、あくまで推論しているだけです。
5. 境界線が引かれる場所
こうして、「境界線」が見えてきました。
それは、AIが人間より賢いかどうかでも、意識を持つかどうかでも、人類を超えるかどうかでもありません。
境界線は、ここにあります。
誰が、その結果に責任を負うのか。
AIは、経路も、確率も、リスクも計算できます。
しかし、失敗を引き受けず、損失を感じず、後悔もしない。
人間は違います。
その選択が現実に落ち、誰かの人生を変え、傷つけ、制限する可能性がある限り、
それを完全に外注することはできません。
6. 主体の位置に、立ち戻る
振り返ってみると、私が主体性を失いかけていた時期の原因は、AIの強さではありませんでした。
私自身が、ある前提を無自覚に受け入れていたのです。
「最適解=正しい選択」
しかし、人間の世界では、それは成立しません。
人は、最適に配置されるために存在しているのではない。
非合理さ、無駄、執着、説明不能な選択を含めて、人なのです。
それを認めたとき、私は再び、自分の立つ場所を取り戻しました。
AIは「考える代替者」ではなく、極めて強力な外部計算環境に戻った。
そして私は、次のことだけは手放せないと分かりました。
- 何を目的として設定するのか
- どんな代償を受け入れるのか
- より良い道が分かっていても、あえて別の選択をするのか
7. 本当のシンギュラリティ
私は今、こう思っています。
本当のシンギュラリティは、次のモデル発表会で起きるのではありません。
それは、次の言葉が当たり前に受け入れられた日です。
「これは私の判断ではありません。システムがそう算出したのです。」
人類が集団として「選択への責任」を手放したとき、そこに本当の境界線が引かれます。
それまでは。
「最適ではないと分かっている。
それでも、これは私の選択だ。」
そう言える人がいる限り、
人は、まだ自分の側に立っています。
最後に(Wantedly向けの一言)
私たちはAIを使って、働き、つくり、決断しています。
でも、「責任を引き受けること」だけは手放しません。
もし、あなたもそこを大切にしているなら。
きっと、話せることがあると思っています。