SEKAISHAには2019年12月現在、9名のインターン生がいます。
これは、SEKAISHAインターン生が見ている、セカイのお話。
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「あなたも私も障碍者なの」
これは、小学校低学年だったある日、母から言われた言葉です。
幼少期に見ていた世界
私の両親は特別支援学校の教員をしています。
障碍のある子どもたちが通う学校の理科の先生と国語の先生です。
幼い頃は、よく両親の学校に遊びに行きました。
父が務める学校での交流会。
学校の子どもたちとその保護者、関係者が集ってレクリエーション企画が行われました。
この学校の子どもたちは耳が不自由です。
手話を使ったり、口の動きを目で追ったり、それぞれの形でコミュニケーションを取っています。
私がどうやって彼らとコミュニケーションを取っていたのかは覚えていないのですが、記憶にないくらい自然と話をしていたのだと思います。
その中で行われたあずき拾いゲーム。あずきをお皿からもうひとつのお皿にお箸でいくつ移せるかというルールです。
このゲームが大の苦手な補聴器をつけた男の子がいました。
掴めても隣のお皿まで集中力が続かないのです。
惜しくも箸からこぼれ落ちるあずきたちは笑うように飛び跳ねていました。
お見舞い
ある日の公園からの帰り道、
「ゆかちゃんのおうちに寄ってもいい?」
母の提案で、母の生徒であるゆかちゃんの家を訪問しました。
はじめて会う女の子でした。
彼女は私よりも年上でしたが、私の半分くらい大きさでベットに横になり体から管が出ていました。
想像と違う「はじめまして」でした。
彼女はお話ができなくともよく笑いました。
おしゃべりのゆかちゃんのお母さんにあきれながら笑っているようにも見えました。
母の言葉で変わった世界
このように、周りの友達に比べて、私は障碍のある人と多く関わっていました。
でも、彼らは自分と違う世界に住んでいると感じていました。
無意識のうちに色眼鏡をかけていました。
あずき拾いが苦手な男の子は補聴器をつけているから集中力がない。
ゆかちゃんは管をたくさんつけていてかわいそう。
仲良くなってもどこかそのような気持ちが私の中にはありました。
そんなある日、母の言葉が私の世界を変えました。
「あなたも私も障碍者なの。誰にも苦手や弱いところはあるから、みんな障碍者だよ。」
その言葉で私は障碍者の仲間入りをしました。
障碍者というと、“健常ではない”、“自分とは違う”そういったレッテルを貼ってしまいます。
私もそうでした。
でも、障碍とは、“本来の機能を活かせない”ことを指します。
私にも障碍があります。
コンタクトが必要用不可欠で目が悪いこと。
算数が苦手でお会計でよく間違えて出してしますこと。
人見知りで話しかけてもらわないと話せないこと。
身体的なことだけではなく、性格も良いところもあれば悪いところもあります。
母の言葉は語弊を生みかねないです。
でも、誰にも不完全な部分、弱さがたくさんあり、「障碍者」と何らかわりないということを伝えたかったのだと思います。
私が目指す世界
健常者と障碍者の心の壁のなくなる世界。
「助ける」のではなく「支え合う」世界。
これは、障碍者に限った話ではないと思います。
自分の弱さを認めることは、性差、民族、年齢、あらゆる差をフラットに考えることにつながるのではないでしょうか。
キリスト教の教えに「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉があります。
近頃、自分を愛せていない私が誰かと支え合えるのだろうかとこの言葉を見つめ、考えました。
自分の弱さを認め、新たな世界を見られるようになった私。
次にすることは自分を愛すること。
その先にまたさらに新たなセカイが広がっているのかもしれません。