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創業ストーリー【前編】起業までに学んだ「勝てる事業」の鉄則。“競争のない市場”を生み出した創業と成長の物語

「高齢化による社会課題を“しくみ”で解決する医療介護系ベンチャ―」として、施設紹介から事業者どうしをつなぐアライアンス支援、介護人材確保までカバーする“競争のない市場”を生み出したサードエイジ。その創業と成長のストーリーを、前編・後編の2回に分けて、滝本代表自身が語り尽くします。話題満載のワンマントークは、甲子園出場を本気で目指した高校時代のエピソードから始まりました。

いかに競争のない市場を創造し、その市場において優位になる仕組みを考えるか――起業までに学んだ「勝てる事業」の鉄則です。

「社長になろう」と思ったのは、19歳の時だった。

高校時代は野球漬けでした。ポジションはセンター。甲子園とは無縁の高校でしたが、なぜか僕の学年には本来なら出場常連校に入るレベルの選手が集まり、本気でやれば勝ち上がれそうな雰囲気があって。とはいえ、いわゆる進学校だったので練習時間は夕方5時までと限られています。そこで家の庭にネットを張り、帰宅後も親父に付き合ってもらって、トスバッティングの毎日。夜10時過ぎまで、ボールケース5箱分くらい打ち込みました。そこまでやったのに、最後の夏は幸か不幸か、結果的にその年も県代表となる常連校と1回戦で当たり、大差で敗退しました。やがて受験を迎えるわけですが、受かりそうな大学が見当たりません。それどころか、3年間ずっと野球しか頭になく、どの学部を受けたいかさえ本気で考えたことがなかった。浪人することになって初めて「何を勉強するのか。そもそも将来、何がしたいのか」と考えた時に、真っ先に浮かんだのが「社長になること」でした。いつかは自分で会社を立ち上げて社長がしたい。というか、そうなるんだろうな、と。それは漠然としたイメージでも、唐突な思いつきでもなく、かなり明確なイメージでした。なぜそう思えたか。根拠らしきものはありました。育った家庭環境、とりわけ親父の影響です。

実家はペンキ屋…というには規模の大きい塗装会社で、創業者の祖父が県の塗装業協会の会長を務めた時期もあったと聞いています。当時、僕たち家族が住む母屋の隣にもう一軒、大きな建屋があって、住み込みの職人さんが常時20~30人はいましたね。いってみれば、相撲部屋のイメージです。その当時、確か中学のころだったか、親父に言われた一言が強烈に印象に残っています。

「もし商売をするなら、500円でもいいから、自分の金で始めろ」

たぶん親父は、自分で事業のかじ取りをしたかったんだと思います。実家の会社は、僕が物心ついたころには祖父に代わって父の兄…伯父が事務方を受け持ち、僕の父親が現場を仕切る役割分担になっていて、意見が分かれる場面もあったようです。

当時は毎年暮れになると、職人さんに新しいドカジャンを支給していたのですが、ある年、業績不振で中止に。これは伯父の意向で、経営的には当然ともいえる判断ですが、現場を預かる父としては黙っていられない。結局は自腹を切って配布し、母がブーブー言っていたのを覚えています。そんな父の姿や言動から、会社経営の苦労や手応え、経営のイニシアチブを握る重要性といった無形の教えが、自然と伝わっていたのかもしれませんね。

経営者に会い、生きた経営を学ぶために、リクルートを選んだ。

それからは起業に向けて一直線…とは、ならなかったんですよ(笑)。目標が定まったことで浪人時代は勉強に集中し、東京や関西の有名私大にも合格しましたが、進学したのは地元、岡山大学経済学部。選んだ理由は、またしても野球でした。岡大野球部は国公立としては例外的に強く、全国大学野球選手権出場の実績もありました。大学4年間、社長になる目標はまったく忘れ、神宮を目指して完全燃焼。高校時代にやり残した思いに決着をつけることができました。

起業の目標を思い出したのは、就活も後半戦に入った時期でした。リクルートからの誘いで、学生の就職実態調査のアルバイトを。就活では総合商社の最終面接まで進んでいましたが、リクルートの担当者と何度か話すうちに「いずれ社長になりたい? だったら商社や銀行よりウチに来る方が絶対いい。商社でエビの部門に配属されたら、一生エビだよ」と説得されて。要はバイトに名を借りたリクルーティングだったわけですが(笑)、言われてみれば確かに、商社で何十年もエビを扱うより、新卒採用広報の提案で多くの経営トップと会う方が、生きた経営術を学べそうです。目標を思い出せば、迷う必要はありません。リクルート入社後は、サードエイジを創業する40歳まで、広島を皮切りに東京、岡山、福岡と、それぞれ特徴的なエリアで数えきれないほどの経営者に会い、後の起業を後押しする成功体験を積むことができました。サードエイジ創業後、取材などでよく「前職時代でいちばんうれしかったことは?」と聞かれますが、私はたいてい、2つの成功体験にまつわる話をします。

渡辺通りのど真ん中を、みんなで胸を張って歩こう!

ひとつは、岡山支社時代に独自メディア、すなわち岡山県下の企業に特化した新卒就職情報誌を創刊できたことです。当時、リクルートの新卒情報誌は全国版と広域のエリア版しかなく、九州版でいえば福岡、中国版なら広島以外の県の掲載企業数は多くないのが実情でした。これでは、岡山にUターンしたい学生や、岡山在住で地元就職を希望する学生にとっては、あまり役に立たない。そこで、岡山に異動してから毎年、広島にいる上司に岡山版の創刊を直訴。何度はねつけられても諦めず、掲載社数や収益のシミュレーション、巻頭編集記事のテーマなど、企画書の精度を年々高めながら直談判を重ねた末に、とうとう実現できたというわけです。社内でもあまり前例のないことでした。

いちばん喜んだのは、岡山支社のメンバーたちでした。岡山版の創刊は、支社長の私を含め当時20人いたメンバー全員の悲願でもあったからです。夢を叶え、目標を共有した20人が塊になると、これほど凄いパワーが生まれるのかと思うほど、みんなの力でしっかりと岡山版を形にし、軌道に乗せてくれました。掲載社数の大幅増、「こんな媒体を待っていたよ」といった地場企業の声…創刊を通じて達成感を得た場面はたくさんありますが、何より心に残っているのは、活気づくメンバーたちの表情です。およそ仕事をするにあたって、明確な目標意識を持つことがいかに大事か、あらためて実感させられました。

もうひとつの成功体験は、コンセプトを明確にした新媒体の創刊です。新媒体の名はホットペッパー。今では誰もが知るリクルートの主要メディアになっていますが、僕が岡山から福岡に異動した当時はまだ前身の生活情報誌時代で、苦戦が続いていました。有力なフリーペーパーが乱立する福岡は特に厳しく、業績の低迷が続いて、このままでは事業継続さえ危ぶまれるほど切羽詰まった状況。多数の事業部が集まる九州支社の中でも、いつ事業を止めてもおかしくない状況では、例えれば狭い路地裏の道をコソコソ歩いているみたいでした。そういうわけで、メンバーもなんとなく肩身が狭く、元気の出しようがない、といった空気でしたね。とはいいながら、僕が年度末の経営会議から戻る際には、事業継続なら両腕でマル、さもなくば…と、メンバーへのブロックサインを決めておくような遊び心は残っていて(笑)。その後の起死回生の底力にも通じていた気がします。

ともあれ、こうなったら開き直るしかありません。まずは負けグセがついた空気を一掃しようと、「他誌と同じことをやってパイを食い合っても勝ち目はない」「リクルートって常に新しいことをやる会社じゃなかったっけ?」「競争のない新しいパイを生み出し、その市場を俺たちが独占できる仕組みを考えよう」と、連日メンバーを鼓舞。やがて、「他の事業部が驚くような業績をあげて、渡辺通りのど真ん中をみんなで胸を張って歩こう!」を合言葉に、全員で議論を重ねた末に、クーポンブックのコンセプトにたどり着きました。お店紹介にクーポンをつける企画は過去にもいくつかありましたが、「1冊まるごとクーポン」の発想は前例がなく、一気に福岡の市場を席捲。このコンセプトはそのまま、全国で展開する新媒体・ホットペッパーに引き継がれています。

この件でひとつ、生涯の宝物ができました。前身の情報誌を初めてクーポンブックとして発行した際、読者から寄せられた1枚のハガキです。「フリーペーパーが乱立する福岡で、ついに明確な地位を築かれましたね」という文面を見た瞬間、「もう大丈夫、きっとうまくいく」と確信。そのハガキは、新媒体が倍々ゲームのような急成長を続ける中、ずっと僕の席の後ろのボードにピン止めされたまま、僕たちの成功体験を見守ってくれました。

苦戦が続いていた生活情報誌時代。ここから「1冊まるごとクーポン」の起死回生が始まる。

世の中に役立つ事業でなければ、長続きはしない。

ところで、起業の話です。19歳で「社長になる」と決心してから、起業の目標は常に頭にありました。ただ僕は生来の負けず嫌いで、目の前の競争についつい、のめり込んでしまうんですよね。就活では、地方国立大からの採用実績がほとんどない総合商社に挑戦する友人たちに負けたくない!と、僕も商社を志望。リクルートでも、同期に負けてなるものか!と、営業成績の競争に没頭。岡山時代、事業部の同期の中でもいち早くマネージャー昇進を果たしたころには、30歳の誕生日が目前に迫っていました。

このままではまずい、そろそろ起業の準備を始めよう。自分が起業するのに適した環境は…と、じっくり考えた結果、福岡への異動を志願しました。福岡を選んだ理由は、「市場」と「家族」でした。地元岡山の市場規模では起業のハードルが高すぎる。かといって、東京で子育てはしたくない。では福岡なら? 市場規模は十分。妻も福岡の街を気に入っている。何より、九州支社に出張するたびに感じていた、福岡の人たちの開放的な人柄が魅力でした。

慣れ親しんだ採用系の事業部の席に空きはない、苦戦が続く生活情報誌事業になるが? この異動条件も、ある意味、願ったり叶ったりでした。低迷する事業を立て直すことができたら、起業に向けた弾みにもなると思ったからです。

起業するにあたっては、絶対に外せない条件をいくつか設定しました。まず、新しい事業であること。前例のある運営手法であっても、必ず独自の付加価値を加味すること。もちろん、新しい市場を生み出すのが大前提ですが、その市場が十分に戦える規模であることも必要条件のひとつです。もうひとつ、世の中に役に立つ事業でなければ長続きしない。この鉄則もまた、絶対に外せない要素です。リクルートの成功も、企業と求職者を対等な立場で結びつけるプラットフォームを皮切りに、個人にも企業にも、社会にとっても有益な価値を創造し続けているからこそ、継続するのだと実感していました。

こうした条件をすべてクリアしたのが、高齢者住宅紹介事業。リクルート育ちの起業家が立ち上げた企業は数えきれないほどありますが、サードエイジが選んだ事業は、過去に例のない高齢者住宅分野のスキームです。それでも僕には、十分な自信と根拠がありました。

2005年7月、株式会社サードエイジ設立。同年10月、福岡天神イムズ5階に「らくらすプラザ」を開設。そして2006年1月、「らくらす」創刊号が福岡の書店やコンビニの店頭を飾りました。その時、僕は40歳。20年越しのチャレンジが、ようやくスタートしました。

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