1.アセスメントとの出会い
アセスメントとMSCの出会いは、全く幸せな偶然であった。1971年、 MSCは「米国産業界における女子社員育成と活用をさぐる」米国視察ツアーを企画、その一環としてAT&T社を訪問した。日本からの視察団を迎え、終日説明役を務めたのが、企業向けアセスメント技法を開発したプレイ博士その人であった。
今日でこそヒューマンアセスメントの用語は現代用語辞典に収録されるほど広く知られているが、当時の視察団のメンバーには全く未知のものであった。
プレイ博士のアセスメントプログラムの説明を受けて、視察のコーディネーターであった梅島は、視察前に見た「総友会」会報(1971年)を思い出した。その記事は、IBM工場におけるアセスメントセンターメソッドによる初級管理者の管理能力の発見についての訪問、視察報告であった。しかし梅島は、その記事には関心がうすく、読みとばしていた。
もともと、MSCの米国視察ツアーは、「アメリカでは女性はどんなふうに働いているのか」という疑問から始まった。アメリカの有力企業に、その旨をしたためた手紙を出したところ、バンク・オブ・アメリカ、モンゴメリーウォード社、AT&T社、メーシー百貨店、マッコール出版社、IBM社、エクイタブル生命保険会社、トランスワールド航空トレーニングセンター、全米秘書協会、米国政府労働省婦人局などから快諾の招待状をいただき、渡米したのである。
2.アメリカの女性アセスメントを聞く
AT&T社では終日、アセスメントの説明を受けた。プレイ博士の講義は、アセスメント技法によるAT&T社の管理職選抜および女性管理職の昇進に関する内容で、視察団メンバーにとって、清新かつ刺激的なものであった。
当時アメリカでは、女性を含むマイノリティの雇用差別を禁止する雇用均等法が大統領令により推進されており、連邦政府の仕事をする企業は、その指導どおり雇用の男女比率を厳守しなければならなかった。
AT&T社は、同期に入社した男女の管理職昇進率に差があると当局から指摘を受け、 是正のために約2,000名の大卒女性職員を対象として、ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨークなどの郊外にあるアセスメントセンターで、管理能力評価のためのアセスメントを実施していた。MSCの米国視察ツアーは、この女性管理職アセスメント(Management Assessment for Women)の真最中に訪問したのである。女性でもア セスメント評価の結果、管理能力が認めら れれば、それまで処遇が低く抑えられていたものとして、雇用均等法成立の日に遡って、その給与差額が支払われるということだった。
これはすべての働く女性にとっての福音だと思った梅島は、そこでプレイ博士に「日本に来て、講演をしてほしい」と依頼した。博士は快諾し、1972年8月の来日が実現した。
3.DDI社と提携が成立
こうして、日本で初めてのアセスメントプログラム紹介セミナーが、1972年8月、司会兼通訳に産業能率大学の小林薫氏を迎えて、経団連会館にて開催された。当時、プレイ博士のパートナーであり、プレイ博士と一緒にDDI社を設立したバイアム博士は、慶應義塾大学の関本昌秀教授の友人であり、以来、本プログラムでは関本教授からも多大な協力を得ることになった。
「アセスメントセンター技法」は日本での名称をヒューマンアセスメント(HA)とし、多数の企業の参加を得て、セミナーは成功裡に終わった。翌1973年、MSCは両博士の経営するDDI社と、 プログラムの導入および実施について総代理店契約を締結した。
なお、この年MSCはDDI社との契約事項に基づいて、プログラムの版権を守るために、名称を商標登録した。
4.日本企業への導入
当時は日本経済の高度成長期で、急激な 成長に伴う人材育成が急務であり、各社は人材育成を社内教育の中心に置いた。しかし、管理能力の適性発見と評価を目指すアセスメントプログラムは、あたかも能力差別のように受け取られて、人事担当者の理解を得ることは容易ではなかった。
そこでHAの演習課題を日本の経営風土に適合するように工夫した。企業の人事担当者や学識経験者、とくに人事管理制度や能力開発に関する研究を進めている慶應義塾大学の佐野勝治教授、関本昌秀教授、豊原恒男国際商科大学教授や小林薫産業能率大学教授などの指導をいただいて、HAに対する理解は少しずつ広がっていった。