昨年、東京ディズニーランドにオープンした新エリアを訪れました。
映画の風景がまさにそのまま再現されていて、圧倒的な世界観にたっぷり浸って楽しむことができ、とても楽しいひと時だったのですが、あることに気づき、寂しいような感覚をおぼえました。
それは
子どものココロを失ってしまった
ということ。
私は小学生の頃から大のディズニー好きで、当時から何度もディズニーリゾートを訪れては、マニアックな発見を楽しんでいました。
中でも熱中していたのが、隠れミッキー探し。
隠れミッキーとは、園内の風景や小物に隠されたミッキーマウスの形をしたデザインのことで、園内の至る所にある隠れミッキーは、正確な個数もわからないほど多様です。
小学生だった私は、隠れミッキーのありそうな匂いを嗅ぎつけて、同じアトラクションにくり返し乗ったり、商品店舗のディズプレイを隅々まで見て回ったりと、血眼になって隠れミッキー探しに興じていました。
新しい施設のオープンともなれば、誰よりも先に見つけてやると意気込んで、それはそれは熱中したものでした。
しかし...
今回新たなエリアを訪れた際に、隠れミッキーを探したいという欲は、全くと言っていいほど湧かなかったのです。
興味が全くなくなったわけではないですし、ふと見つけることができればもちろん嬉しいのですが、そこに熱量を注ぐことはできなくなっていました。
(隠れミッキーを探さなくなった代わりに、別の部分に魅力を見いだせているのだとは思います。)
全力だったあの頃には、もう戻れないのだな、と
少し寂しさを感じた1日でした。
どうしてあの頃、少年だった自分はあんなにも熱中できたのだろうか…と考えてみましたが、理由は全くわかりません。
きっと理由なんてものはなく、ただ楽しかった、ただ探したかった、それだけなのでしょう。
「理由はないけど、こうしたい」
「理由はわからないけど、これはやりたくない」
日々小学生と接していると、大人の頭では、なんで?と説明を求めたくなるようなできごとに遭遇することが多々あります。
勉強、特に受験勉強においては、論理を理解し、自分で論理を組み立てる力が重視されるため、指導中にも「なぜ?」と生徒に問いかける場面は多くあります。
でもそこで理由・論理を求めすぎてしまうと、コミュニケーションは単調で硬いものになってしまいます。
論理から外れた子どものココロに寄り添いながら、論理を伝える
なかなか難しい作業ですが、楽しさ・やりがいを感じる部分でもあります。
かつての自分の子どものココロに思いを馳せつつ、目の前の子どものココロと向き合う毎日です。