2023年よりコミュニティマネージャーからゼネラルマネージャーとなった和田亮一さんを紹介します!
(以下2022年1月コミュニティマネージャーの時の取材記事です)
こんにちは! LtG Startup Studio広報です。 LtG Startup Studioに関わるファウンダーやメンターの方のバックグラウンド、スタートアップに対する想いを、インタビュー形式でお届けしている 『LtG Story』。今回登場するのは、LtG Startup Studio コミュニティマネージャーの和田亮一さんです。幅広いバックグラウンドを持つ和田さん。どんな経緯でLtGに繋がったのでしょうか?
和田亮一(わだ・りょういち)/ コンテンツプロデューサー
18歳から演劇の世界に入り、それ以降様々な舞台作品、音楽イベント、ビジネスイベントの企画・演出を手がける。同時に飲食業・広告代理店の経験を経て2014年に立ち上げたRAPSCHOOLは数多くのメディアで注目を集め、カルチャーの一端を担った。映画「カメラを止めるな!」の原作者であり、現在は全米で展開予定のアニメシリーズ「NINJAMASX」の制作を行っており、その制作発表が2021年カンヌ国際映画祭にて発表となった。その自身の経験から、日本人クリエイターが海外でもっと簡単に活躍できる仕組みを作るべく一般社団法人日本エンターテインメントクリエイター協会(JECA)を立ち上げ、代表理事として就任。LtG StartupStudioでは創業メンバーとしてコミュニティーマネージャーを務める。
演劇界に変革をおこしたい
ーー和田さんは、幅広いお仕事をされていますが、アイディアを形にするのが得意なイメージがあります。演劇にも深く関わっていらっしゃいますよね?
はい。僕が人前に出て表現することが好きなんだと気づいたきっかけは、高校で応援団を務めたことです。「人を応援すること」も表現の一つで、それが本当に楽しかった。
その後、明治大学の演劇専攻に入学してすぐに、女優をしている友達ができました。一緒にミュージカルのLes Misérablesを見に行って、これは面白い!と感銘を受けました。そしたら、その友達から「やってみたら?」と言われて、「やってみる」という選択肢もあるんだと。そこで演劇サークルに入ってみたら本当に面白くて。
一方で、同時に大人の演劇サークルにも参加していたんですが、そこでは、朝までバイトしながらしんどそうに演劇を続けている大人。集客に困って、自腹でノルマのチケット代を払っている大人を目の当たりにして正直辛そうだし、なんとかできないんだろうかと思いました。それで「いつか自分がこの演劇の仕組みを変えたい」という使命感が湧き出てきたんですよね。
――なるほど。それでご自身の劇団を立ち上げたんですか?
そうですね。就活をするというタイミングでは自分が出演している舞台に
沢山の人が観に来てくれてお金にも困っていなかったので演劇の道に進もうと決心しました。大学を卒業してから2年間は、先輩の劇団に入って役者としてやっていたんですが、その中で、組織の中で適切な配置がないとうまくいかないなっていうのと、自分の世界を表現したいって思いがあって、だったら自分が劇団をやってみようと。
自分が本当に好きな人たちを集めて、12人でスタートしました。映画「カメラを止めるな!」の原作になった舞台をやったのも、この劇団です。先ほども話しましたが、年齢を重ねながらも、バイトしたり何かを犠牲にして演劇に噛り付いて辛い思いをしていた人たちを見ていたので、「目標に達成しなかったら3年で解散」「小さい劇場でやらない」という公約を掲げました。劇団はみんな24歳から始めたので、27歳だったらリスタート切れると思っていたんです。
ちょうど劇団を立ち上げてすぐに東日本大震災があって。地元の福島にも当時は帰ることができない状況でしたし、何か力になりたいと思っても自分に影響力がないから、何もできないということに悔しさを感じていました。今できることといえば劇団でのお芝居にメッセージを込めて、上演を続けること。そんな想いで上演を重ねていたら新しい劇団にしては3年間で12回公演と早いスピードで、成長していきました。
――作品を生み出しながら公約の3年目を迎えたわけですね。
はい、目標は3年目最後の公演で3000人入らなかったら解散ということを掲げていたのですが2000人くらいしか入らなかった。最後は後悔したくないというのもあって映像の最新技術を取り入れたり、観に来てくれる人に本当に楽しませたいという想いで舞台をつくっていたら、1000万くらいの赤字を出しました。
――!?
なのでお金を返すためにプロデュース業などを頑張ってやっていたんですけど、やっぱり仲間もみんないなくなっちゃって自殺を考えるくらい精神的に思いつめてしまって。誰とも連絡を取ることができない状況までいってしまいました。そんな僕を心配した当時の彼女が両親に連絡してくれたようで、福島から東京まで心配して駆けつけてくれました。それまで父親は僕の仕事を反対していたんですけど、父が「今はこういう形になったかもしれないけど、沢山の人を笑顔にしたんだろ」と言ってくれて。その一言で本当に救われました。まだ信じてくれる人がいるんだな、そしたらなんとか人として再起しなきゃと思って。一度福島に帰って会社員としてしっかり働こうと思って地元に戻りました。