みなさまはじめまして。株式会社ファンチップ代表の白濱です。現在、弊社では採用求人を行っており、僕のことを知ってもらう事で求人の応募に繋がったら嬉しいなという思いで書いています。また、自分と似た境遇の人がもしいたら、その人の励みになれればと思っています。人生ってつらい事もあるけど、だからこそ楽しくなると身を持って感じています。
自己紹介
【経歴】
1986年生まれ。14歳から独学でプログラミングを始め、情報処理科の高校・短大と進学してプログラマーに就職。 C言語、C++を用いた業務系エンジニアとして活躍後、Web系システムエンジニアに転向。 PHPを用いたWeb系フルスタックエンジニアとして活躍。Webコンテンツ事業部副部長、管理部部長、社外取締役を経験。 2014年にサラリーマンをしながら当社を設立し、2017年から独立して活動中。
【保有スキル】
プログラマー(フルスタックエンジニア)。一人でサービス開発から運用までできます。
PHP、MySQL、JavaScript、HTML5、CSS3、シェルスクリプト
AWS(EC2、RDS、SES、SQS、SNS、S3、ElastiCache、Route 53、CloudWatch)
広報、人事、 教育、and more...
【趣味】
ぷよぷよ、bokete
【音楽】
04 limited sazabyz、the peggies、グッドモーニングアメリカ、Shiggy Jr.、ELLEGARDEN、locofrank、10-FEET
今やっていること
今はお客様からWebシステム開発の依頼を受注して開発をしています。本プロジェクトには最初期から参画しており、一人で実装からリリース・運用までしていました。もともと社内で使用していたWebシステムがあって、それを改修して社外向けに公開できるクラウドサービスにしました。現在、多数のクライアントを持っており、継続して運用開発を依頼されている状況です。
お客様と長期でのお付き合いができている事はとてもありがたい事だと感じています。安定した収益がある一方、受注案件にフルで時間を取られているため、自分自身の『やりたいこと』ができていない状況があります。
僕のやりたいことは、自社サービスで『人の成長に繋がる事業』をつくることです。そう考えるに至るまでの、僕自身の半生を書いていきたいと思います。
今までのこと
そもそもプログラミングをやり始めたときですが、はるか昔
僕は中学1年生まで、何の変哲もないごく普通の人間でした。当時、学校の成績は5段階の相対評価で、僕の成績は9教科全てが真ん中の3でした。身長も普通、成績も普通、趣味や特技も特に無い、字も絵も工作も下手。何の魅力も無い人間でした。
そんな僕が中学2年生の時に出会ったのが、パソコンとプログラミングです。
『こんな自分でも作れるものがあるんだ』
プログラミングが楽しくてのめり込みました。
独学でHSP、C言語、C++を学び、情報処理科の高校へ進学しました。高校生になってからも、独学でPerl、C#を学びました。C#でAmazonマーケットプレイスの商品の価格変動を管理するフリーソフトを作成して公開したりもしました。そして、プログラミングを生業として、今日に至ります。
僕の経歴だけを見ると、中学生からずっとプログラミングをする神童みたいに見えますが、そんなだいそれた人間ではありません。今でこそ、そこそこプログラミングができる能力を有していますが、今に至るまでに様々な苦悩がありました。
パソコンを始めたきっかけ
自分自身がプログラミングを始めたきっかけは、友人がたまたまパソコン好きで、たまたま自分の家にパソコンがあったからです。14歳の当時、家にWindows98のパソコンがありました。CPUはPentium MMXとか3あたりで200Mhzくらいしかありません。メモリも64MBに16MBを増設した82MBだったと思います。ハードディスクも800MBとかです。現代のPCの50分の1くらいのスペックだったと思います。今では考えられないですよね。
当時はインターネット回線も普及しておらず、ダイヤルアップ接続という電話回線でネットをする時代でした。電話料金と同じように、1分○円という従量課金制です。周りではネットをしまくったせいで数万円の請求が家に来たという人もいました。
当時はネットが普及していない事もあって、ソフトウェアの入手方法は主に雑誌についている付録CDでした。PC Fanとかって雑誌をよく買っていた記憶があります。その付録だったと思うのですが、CDで手に入れた『特打2』というタイピング練習ソフトにハマっていて、ひたすらにそれをやり込んでいました。なにせ、ネットが普及していませんから、やることがあまり無いわけです。
そんな折に、プログラミングに出会う事になりました。始めて出会った言語は「HSP(Hot Soup Processor)」です。このプログラミング言語は簡単にできており、無知だった自分もヘルプを見ながらプログラミングすることができました。メッセージの表示やキーボードからの入力が簡単にプログラミングできるので、サウンドノベルゲームを自作した記憶があります。ここではじめて『自分にもものづくりができること』に気付き、楽しさでプログラミングにハマっていく事になります。
そこからはトントン拍子にプログラミングを学んで行くことになります。「独学C」という参考書を親に買ってもらって、本についているCD-ROMからBorlandのC言語コンパイラをインストールして、DOSプロンプトからC言語で書いたソースコードをコンパイルして動かして勉強していました。プログラムにただ数字の計算をさせたりするだけでも、すごい楽しかった記憶があります。C++も同様に参考書をもとに勉強しました。
ネット料金が固定になり、チャットにハマる
中学校3年生の15歳になる頃には、ようやくADSLというネット料金が固定で使えて速度も早いものが普及しだしました。我が家にもYahoo! ADSL(8Mbps)が導入され、晴れてインターネット使い放題になりました。この頃から、ネットのチャットサービスにハマりだしました。見知らぬ人と雑談をするという事が、当時はもう考えられないくらいに衝撃的な体験で楽しかったのです。僕はタイピング速度の速さには自信があるのですが、これは若い時に特打2とチャットをやり込んだおかげです。
逃げグセがついた過去
僕は幼稚園、中学生と挫折を経験しておりました。今振り返ってみると、パソコンにハマった一因は、現実から逃避したかったからかもしれません。
僕は昔から運動がわりと得意でした。幼稚園の頃はボールを蹴るのがうまかったらしく、親の勧めでサッカークラブに所属していました。しかし、その時の僕のポジションはゴールキーパーでした。やりたくはなかったのですが、誰もやりたがる人がいなくて結局自分がやることになった記憶があります。
このゴールキーパーが嫌で仕方ありませんでした。シュートを止められないとチームメイトから責められます。実際にはディフェンスを超えられたらキーパー単体ではスーパーセーブでもしない限りは止めようがない事も多いのですが、子供はそんなことまで理解できません。「自分のチームが負けて悔しい!」「キーパーがあのゴールを止めていたら勝てたのに!」そんな言葉や視線を感じる事が、とても嫌でした。それにスーパーセーブしようとして顔面にボールを食らうのが痛くて怖かったのです。そして僕は、サッカークラブを途中でやめました。とにかく、嫌なことから逃げ出したかった。
今考えれば、親にやめたい理由を詳しく説明できていなかったと思います。もしかしたら、キーパーではないポジションに変えて貰えるだけで続けられたのかもしれません。でも、自分の中に残ったのは、嫌なことから逃げたという事実だけでした。
そして、中学生。相変わらず運動はわりと得意な方だったので、中学1年のときに陸上部に入りました。しかし、ここでも嫌な事が多発します。まず運動能力ですが、僕は大した経験も積まずに過ごしてきていたため、すぐに周りに置いていかれます。もともとは足が早い方だったのに、陸上部では下から数えた方が早いくらいになってしまいました。また、体力が無くて長距離走も散々な成績でした。
短距離走や長距離走はもうダメだということで、僕はやる人が少ない「走り高跳び」の選手に転向しました。ジャンプ力にはそこそこ自信があったのですが、今考えるとこの選択も『嫌なことから逃げた』のかなと思います。背面跳びを覚えて160cmくらいを飛んでいたと思いますが、あまり充実していた記憶は無いです。むしろ顧問の先生と合わない部分があったり、大会に漫画を持っていっていたのをチームメイトにバラされたのが嫌だったり、昔仲良かった人と微妙な仲になっていたり、人間関係がうまくいっていなかったです。
中学生で陸上部を退部し、僕は嫌なことから逃げ出しました。幼稚園に続き、中学生でもすぐに嫌なことから逃げてしまっています。これはこの先でも起きていて、バイトから逃げ出したり、社会人になってからも1年ちょっとで逃げ出したり、その後にも逃げグセがついた人生を送っています。僕は、とても弱い人間です。
社会人になるまで
中学校でパソコンに興味を持った僕は、情報処理科の高校に通う事になりました。相変わらず独学でやっていて、授業内容よりも独学の方がレベルが高かったので、プログラミングに関して学校で習ったことはほとんどありません。高校時代という青春を楽しみながら、ほとんどの授業を睡眠学習し、バイトと遊びに明け暮れていました。
学校からプログラミングで学べる事はほとんどないと体感していたのですぐに就職したかったのですが、高卒でプログラマーになった実績がほぼ無いという話を聞き、仕方なく高校が提携していた情報処理科の短期大学にAO入試で入る事になります。結局短大でもプログラミング能力は0→1レベルの勉強がほとんどで、モチベーションを維持できずに学業を有効活用できませんでした。
今思えば、高校時代からフリーランスとして活動しておけばよかったなと思います。そんなこと自分ができるなんて想像していなかったし知識も無かったので、そうした行動を取ることすらできませんでした。いや、もしかしたら怖くてチャレンジできなかっただけかもしれません。大人になってから自分と同い年で高校時代からフリーランスをしていた人と出会い、いろんな衝撃を受けました。だからこそ、もし中高生で自分と同じ境遇の人がいたら、知識のある大人として手を差し伸べる事ができればなとも思ったりします。
高校、短大時代を含めて、もっと自分のことを真剣に考えて、真剣に調べて行動すればよかったと思う事もあります。しかし、自分がその時にとった一つ一つのちょっとした選択が今の自分を作っているので、全ては自己責任であると共にこれでよかったと思います。こうした過去があったからこその今の自分があるので、むしろ失敗だと思う事があってよかったと今では感じています。
社会人になってから
そんなこんなで、惰性で進んだ短大も単位ギリギリで卒業することができ、晴れてプログラマーとして就職することができました。就職先は1000人規模の大手企業で、業務系プログラマーとしてC言語、C++を使う事になります。
しかし、ここから自分の中の『プログラマーになりたい夢』と現実のギャップに苦しむ事になります。僕は、ものづくりがしたくて、プログラマーを志望していました。しかし実際に携わったのは、客先常駐で携帯電話が繋がる仕組み(電波、交換機)に関する開発でした。部署ガチャ失敗ってやつでしょうか。
今でこそ4GとかLTEとか当たり前にありますが、その開発を担当していました。数千人がそのプロジェクトに関わっていて、5年くらいの規模の大プロジェクトです。大プロジェクトに携わったと言えば聞こえは言いですが、実際の業務はほとんどの事がガチガチに決められた枠の中で行う、替えの聞くプログラマー業務でした。しかも、これだけ長い大プロジェクトの結果が「今までよりも通信速度が早くなります」です。
自分の中でイメージしていた『プログラミングで、ものづくりを行う』というものと大きなギャップが有りました。
しかし、当時は自分も二十歳そこそこの青年です。漠然と仕事が嫌だと思うけれども、それを具体的に説明する事ができるほど、自分自身を理解できていませんでした。ただただ毎日がつまらない、そう感じていました。そして、どんどん心が疲弊していってしまいました。
僕はストレスから逃げるようにネットゲームにハマりました。毎日深夜3時頃までゲームをして、翌朝は高確率で仕事に遅刻をする。ひどいときには、午後3時頃に出社する事もありました。毎朝の電車通勤では、仕事に行きたくなさすぎて動悸が発生し、不規則で不自然な心臓の鼓動に耐えきれなくなり電車を降りる事もありました。病院に行っていないため診断は受けていませんが、今思えば何かしらの精神的な病に罹患していたと思います。
仕事をやめた
そして、僕は社会人になってはじめて、仕事を辞めました。仕事を辞めてすぐは、解放された気持ちでいっぱいでした。しかし、一人暮らしをしていたので、2ヶ月もすると経済的な不安が強くなってきました。また、自分からプログラミングを無くしたら、自分が何をやりたいのかもわからなくなってしまいました。そして、どうしようもなくなり、実家に帰ることになりました。
しばらくは無気力な状態が続きましたが、月日が解決する事は多く。次に考えることは、「とりあえず、今の自分にできることをやろう」という事でした。やりたいことではなく、できることを基準に仕事を探し始めました。
バーで働いてみたり、ガソリンスタンドで働いてみたり、中古車販売会社で情シスみたいなことをしたり、日雇いバイトをしたりと未経験OKなど自分にできる事をベースにやってみました。
しかし、何をしても自分の心が満たされる事はありませんでした。特に日雇いバイトをしているときはキツかったです。倉庫整理の現場の社員からはゴミのように扱われ、何度も逃げ出したくなりましたし、実際に消える人もいました。タートルネックの服の内側に入った商品タグを表に出す作業を8時間やったときは本当に滅入りました。
働いていても常に「この仕事を何年も続けたら、その先に俺は何をしているのだろうか?」と考えるようになってしまい、自分の未来に希望を持てなくなってしまいました。今やっていることが将来無意味になるのではないか。そう考えると、漠然とした不安を抱く日々でした。
こうした日常の僕の心を支えてくれたものは、ゲームによる人との繋がりでした。何気なく友人とDSでぷよぷよを始めたところ、対戦パズルゲームということもあって、自分と同じくらいの実力でとても盛り上がりました。すっかりぷよぷよが好きになり、そのうちニコ生でぷよぷよ対戦をしたりしました。
ゲームセンターでアーケード版のぷよぷよ通の対戦会が行われている事を知り、そこに通うようになりました。そして、そこで同じくぷよぷよが好きな人達とたくさん知り合う事になりました。ネットで知り合ったりゲーセンで知り合う人たちは、なんとなくの空気感があったのか、お互いに深くプライベートを詮索するような事が無くてフラットに付き合う事ができました。なんだか、その環境がとても心地よかったです。
変化は自らが行動することで生まれる
仕事を辞めた当初はただただネガティブな気持ちでいっぱいでした。しかし、時が経つことで心は癒やされ、ゲームや人との交流を通して少しずつ気持ちが前向きになり始めました。
そうすると、「今よりちょっとでも良い状態になりたい」という気持ちが芽生えてきました。自分でも認識していませんでしたが、そうした心のちょっとした変化がおそらく言動にも出るようになっていたと思います。
そんな最中、自分の気持ちを言葉でアウトプットする場が欲しかったのか、Facebookをはじめました。
誰もツッコムことのないわかりづらい小ボケが、僕の最初の発信でした。
※アイコンは恥ずかしいので伏せています
この頃から、なんとなくですが「やっぱIT系の仕事がしたいな」と思うようになってきました。しかし、IT系の正社員の求人に応募してみても鳴かず飛ばず。9割が書類NG、面接に行けた数社も全てNG。自分自信の「なんとなくこの仕事がやりたい」という気持ちが見透かされていたようです。
そんな中、趣味でC#の勉強をしました。友人がiPhoneアプリ作りたいと言っていたのもあり、iPhoneアプリの開発も勉強し始めました。就職に活かせるものを作るとかそういう戦略的なものではなく、なんとなく始めた記憶があります。
Amazonのマーケットプレイスで中古商品が出た時に、その価格変動を管理することができるフリーソフトをC#で開発して窓の杜に公開しました。なぜ作ったかと言うと、お金が無い自分がAmazonで商品を買いたいと思った時に、マーケットプレイスの過去の価格変動がわからなくて不便だな、と思ったからです。そうした活動をFacebookで発信したりしていました。
そこで、運良く友人に「Web系エンジニアとしてうちの会社こない?」と誘われることが、人生の転機となりました。
正直、かなり前のことなので流れとか忘れていたのですが、Facebookを見返してみたらまだログが残っていました。
この友人とは短大時代のクラスメイトで、卒業以降は全く連絡をとっていませんでした。友人いわく「暇そうにしてたから誘ってみた」だそうです。今思い返して見ると、自分がポジティブにいろんな事を発信していた事が「誘ってみようかな」というふうに思えた要素なんじゃないかなと思います。
Web系エンジニアとして仕事を始める
こうして僕はたいした志も無く、なんとなく過ごしていただけで運良く就職する事ができました。この原理を紐解いていけば「ポジティブ」「行動している」という点が重要だった気もしますが、当時は別にそういう意識はしていませんでした。たまたま就職する選択肢が出てきて、それを自分が選んだ、という状態です。
しかし、舞い込んできた幸運。このチャンスを活かすために、それまでやっていたアニメやゲームなどの娯楽の全てを絶ち、自分のキャリア形成のために尽力しました。
Web系エンジニアとして入社後は、友人が携わっていた仕事(客先常駐)を一緒にやることになりました。それは、ソーシャルゲームの開発です。当時はガラケーのソーシャルゲーム全盛期で、PHPで開発を行っていました。友人に全力でフォローしてもらい、めちゃくちゃ迷惑をかけながら必死に働きました。毎月300時間くらいの勤務を半年間くらいやってました。超高稼働でした。休みの日は、VPSサーバーを自分でレンタルして勉強するくらいに頭がおかしかったです。
しかし、不思議と楽しかったのです。それは「友人と働いていたこと」「ソーシャルゲームという目に見えるサービスの開発だった」からです。このあたりではじめて、自分は目に見えるサービス、手に触る事ができるものづくりがしたかったんだ、と気付く事になります。また、誰と働くかの重要性を認識することになります。
就職した会社が手を上げれば何でもチャレンジさせてくれる会社で、現場で働きながら土日や平日の深夜にスカウトメールを投げて採用活動をしました。採用に成功すると、インセンティブが貰えたので頑張りました。今考えるとブラックな部分もありましたが、自分にとっては全くそうは感じませんでした。今でもこの会社での経験は素晴らしかったし、やりがいのある仕事を生き生きとさせて貰ったと感謝しています。今の自分があるのも、起業を決意できたのもこの会社にいたからと言うのが大きいです。
そうして気付けば10人以上を採用し、Webコンテンツ事業部の副部長を勤めていました。その後も採用、教育、人事、広報、管理職など様々なことを経験させて頂きました。
この会社に就職する前は、あまり何も考えていませんでした。夢もないし大それた志もありません。何をしたいのか、何を目指しているのかも無く、目の前にあったプログラミングになんとなく触れていただけです。ただ、入ってからは本気で取り組みました。この頃、一生分の努力をしてたかもしれないです。
今となって過去を振り返ってみると、プライベートでの遊びやバイトの経験やプログラミングの勉強含め、何でも良いから実際になにか行動をすると、何かが起こる可能性がある、というのを体験してきました。そして、機会が出てきた時は、直感的に良いと思ったら実際にやってみるのが良いです。
僕の人生において、直感に頼って行動した事で後悔したことはありません。
そして、なぜこんなにも頑張れたのか?それは、過去の苦悩があったからに他なりません。自分よりも大変な苦労をしている人は世の中にたくさんいると思います。それでも僕は、僕の中では人生史上一番の大変な時期であり、自分なりに悩みながらもがむしゃらに乗り越えてきたという事実について、自分を褒めたいと思います。
起業する
そしていよいよ起業することになります。会社員を勤めながら起業したいと思い、社長に相談したら「いいじゃん!やっちゃいなよ!」と後押ししてくれたため、サラリーマンをしながら起業する事になりました。
起業周りの簡単な経緯は求人情報から引用します。
日本の将来に対して漠然とした不安を持つ人が多いなか、当社は、2014年に代表がサラリーマンをしながら創業しました。
創業直前に、発言できないSNS「Connend(コネンド)」というサービスを友人と作り、当該サービスを宣伝する際に法人名義があった方が何かと都合が良かった為、法人登記するという流れになりました。
コネンドは交流会をWeb告知することができ、参加して知り合った人の紹介文を書く事ができるSNSサービスです。他己紹介のみで自己表現をできるので、発言できないSNSということにしました。悪い行いをするとすぐにバラされてしまう仕組みにすることで、善い行いをする人が増えると良いなと思って作ったサービスです。
結果的に、コネンドはマネタイズが難しかったため途中でサービス運営を投げ出してしまいました。熱意が足りなかったこと、ビジネスモデルをあまり考えずにやってみたい気持ちだけで突っ走ってしまい、失敗しました。それから、自分が何をしたいのかを改めて突き詰めて考えました。
僕を会社に誘ってくれた友人と一緒にサービスを作ったのですが、結果としてサービスを伸ばす事ができませんでした。また、何も考えずに「とにかくやってみよう!」でやったため、友人への報酬は一回の飲み代のみだったし、僕の会社との関わり方をうまく定義することができませんでした。この点は若さだけでやってしまい、友人には申し訳ない事をしたなと思っています。そして、実体験として「事業で利益を出す」ことの難しさと大切さを学ぶことになりました。
そこからは会社員をしながら、本当に自分がやりたいことは何なのか、人生をかけて何を成し遂げたいのかを本気で考えました。でも、全くわかりませんでした。
全くわからないけど、ずっと、ずっと考え続けました。そうすると、ある時、ふっといろんな点が線で繋がったのです。
最初は「Webサービスを作ってイノベーションを起こす!」ことが僕のやりたいことだと思っていました。でも、本当に僕がやりたかったことは、「イノベーションを起こす人をたくさん作って、たくさんのイノベーションを起こした人と繋がって、ワクワクするような会話をすること」だと気付きました。
僕が経験した『負の状態から好循環への成長』をみんなに提供することで、目標が達成できるのではと考えています。自分自身が「プログラミング」と出会う事で、色んな事が好転しました。一度挫折したプログラミングも、「目に見えるものづくりは楽しい」と気付く事で好転しました。こうした変化は、人の大きな成長を作る重要な概念であり、一人でも多くの人の好循環を生み出すことで日本中に素晴らしい人が増えるのではないか、と考えました。そして、負の状態から好循環へと移行して成長を遂げた自分になら、これをやり遂げる熱意があると考えました。
だから僕は、『人の成長に繋がる自社サービスの開発』がしたいんです。
仲間を探す
競合が出てきても諦めずに情熱を注ぎ続けられる事業は何かを考えました。僕が本当につくりたいサービスは『タイピング練習サービス』であることに気付きました。
僕はタイピング練習ソフトの特打2が面白かったからパソコンに興味を持ち、プログラミングの存在を知る事ができました。MMORPGやチャットを通してタイピング速度が上達しました。楽しいことが、仕事になって今の自分をつくってきました。
僕が情熱を全力で注ぎ込めるこのタイピング練習サービスを作り続けるためには、会社に安定した収益が必要です。一緒に会社をつくっていく仲間を募集しています。