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アルバイトから上場企業グループの女社長へ


エフエルシープレミアム株式会社 代表取締役 小泉まり

1985年5月16日埼玉県生まれ。19歳の時、現グループの前身となる株式会社エフエルシーに出会いアルバイトの後に入社。営業でトップ業績を出し続け、新事業の立ち上げ等を経て29歳で現会社の代表取締役に就任。現在は、グループ企業である株式会社プレミアムウォーターホールディングス上級執行役員(東証二部上場)も兼任している。

自分の力で生きていくことを求められた家庭環境

―まず、バックグラウンドとして生まれや家族について教えてください。

母方の祖父母の家に生まれ、埼玉県の田舎5人兄弟の次女として育ちました。姉と妹が1人ずつ、さらに弟が2人。家庭環境は、人数が多いだけあってまさに「弱肉強食」でしたね。母親は、子育てに人生を掲げているような人で、元々典型的な教育ママのようなタイプ。一方の父親は自由奔放で、仕事=人生という人。幼少期は不自由ない生活を送っていましたが、高校1年生の頃に父が事業を失敗し、家計が火の車となりました。

親に頼る術もなく、自分のことは自分でやるという環境下で育ってきたので、自己責任の上で全てやらなければならないことを、子どもながらに感じていましたね。

―周りからはどういう子どもだと言われていましたか?

一言でいうなら「優等生」。別に生真面目なタイプではなかったのですが(笑)通知表でいうとオール5をとらなきゃいけないと常に思っていましたね。

―それはなぜですか?

多分、「親にそれを求められている気がしていたから」ですかね。自由奔放な性格の姉妹に挟まれていたせいもあってか、私は周囲の期待に応えることが自分の役目だと思っていた節はどこかにありました。その頃の母は、自分が育った環境が貧乏だったこともあって、自分の子に対して「とにかく学歴があれば、いい会社に入っていい人生を送れる」というある種の理想があったのだと思います。


頑張った先に見える結果というものを味わえた学生時代

―クラスではどういうタイプだったのでしょう?例えば、学級委員とか、リーダー的存在とか・・・クラスメートの相関図でいうとどこに所属していましたか?

まず、「群れない」タイプでしたね。とにかく、女子特有の面倒くさい空気が嫌いでした(笑)別に浮いているわけでもなく、誰とでも対等に付き合っていましたね。

男の友情にずっと憧れていました。ケンカしても次の日には仲良くなっていたりするじゃないですか、根に持たないというか。本音を言い合える関係が理想でしたし、周りの友達もそうした子しか集まりませんでした(笑)

ー学生時代の自身を振り返って、一言で表すと何ですか?

「負けず嫌い」ですかね。やるならとことん徹底的にやりたいタイプでしたし、自分なりには全力でやってきたかなと思います。

―そうした自分を形成してきたきっかけや経験はありますか?

小学3年生~6年生の春まで、地元のマーチングバンドのチームに所属していました。姉が入っていたことがきっかけでしたが、すごく厳しい環境でした。

私が入部したのと同時に指導に入った顧問とコーチの存在が大きかったです。その当時何年も遠のいていた全国大会出場と、そこからの入賞という目標を掲げて、結果それを5年生の時に実現させることができたんですよね。

当時は休みの日も朝から晩まで練習漬けの毎日。放課後に遊んだ記憶もないのですが、それだけ夢中になれることがあったことは今の土台でもありますし、とにかく自分に負けたくない一心でやり続けましたね。昔から、熱のある環境が好きだったみたいです(笑)

ただ、その分良くも悪くも上下関係の世界を知りました。ここではあまり書けるような話ではないですが…。6年生の時に部長になり、目的を達成するための手段として必要のない文化は排除し、立て直したいと奮起していました。

理不尽なことは昔から本当に許せなかったですね。理不尽と厳しさは違いますし、人としての道理に反していることは絶対にやりたくなかった。

ただ、この歳で縦社会を経験したことは、今思えばいい経験だったとは思いますね。

―当時まだ小学生だったというのが驚きですね。

はい。ただ、その後尊敬していた顧問がチームを去ったことと色々と環境の変化もあり、マーチングバンドに未練がなくなったのと同時にミニバスへシフトしました。何年もやっている人達ばかりの中6年生で素人からのスタート、やってみたいからと入ったものの環境についていくのに必死でした。

その当時の指導者がまたすごい人で。入部してしばらくしたある日、「夏までにレギュラーになるためにはどうしたらいいか」と聞きに行きました。すると、コーチはほとんど初心者である私に、当たり前のことから技術的なことまで、具体的に指導を下さったんですよね。

やれることは全部やって、誰よりも練習しましたよ。その結果、夏の大会でレギュラーの切符を掴むことができました。不可能だと言わず、それを可能に変える術を教えてくださった大人の存在は大きいです。

その流れで、中学生の頃はバスケットボールに夢中でしたね。

―学生時代から小さな成功体験をたくさん積み重ねられていますね!それが今に繋がっていると感じる瞬間はありますか?

そうですね。頑張った先に見える結果というものを数多く経験させてもらいました。人のせいではなく、自分の努力次第で変えられることが沢山あることを教わりましたね。

目標があるから人って頑張れますし、常にその理由を知っているから「頑張る力」は自然と身に着くようになったのだと思います。目先のことに捉われず、楽な方に流されない生き方というか。また、いい指導者や大人が周りにいたことは、とても恵まれていましたね。

―義務教育を終えて、高校時代はどんな生活を送っていましたか?

先程お話ししたように、高校1年生の時に父が事業を失敗して。そこからは学費も払えるかといったギリギリの状態で、常にお金と生活に目を向けなければならなくなりましたのでアルバイトを始めました。ただ、どうしてもチアリーディング部に入りたくて諦められず入部して、3年間引退まで続けました。

あとは、目指している空気感に憧れて、地域のブラスバンドチームも掛け持ちしていました(笑)土日は朝から部活へ行って、午後にブラスバンドの練習をして、18歳になったと同時に夜から朝までバイトをして。その生活を繰り返していくうちに悩む暇もなく、周りに迷惑をかけてしまっていたこともあったかもしれませんが、自分なりに精一杯生きようと必死でした。

一度やると決めた事は早々諦めたくないので、できる方法をまず考えていく意思の強さというのは、すごく磨かれましたね。

―その当時の将来の夢は何でしたか?

小学校5年生の頃から栄養士を目指していました。

―小学生の頃からそんな職業があるのを知っていたのですね。

栄養士という職業を知ったきっかけは祖母の存在でした。当時糖尿病を患っていて、子どもながらに生と死を目の当たりにして不安だったのを覚えています。

当時母の妹がよく私達の世話をしてくれていたのですが、祖母の状態を聞いた時に「おばあちゃんには栄養管理をしっかり見てくれる人がいるから、きっと元気になるわよ」と言われて。その時に初めて、そういう仕事があることを知りました。

間接的にでも人を救える仕事だと思いましたし、看護も考えたのですが血がどうしても駄目で(苦笑)。こうしたきっかけから興味を持ち、管理栄養士の道を進もうと決めました。

「何をやるかより、誰とやるか」に人生を賭けた瞬間

―今の仕事との出会いとなったきっかけは何ですか?

現会社の前身にあたる株式会社エフエルシーは、元々姉が創業メンバーとして働いていた会社です。姉は私が入ることをすごく嫌がっていましたが(笑)周りの方から勧誘を受けて大学生の頃にアルバイトをしたのが始まりです。

―アルバイトをしながら、大学は栄養士の学校へ通っていたのですか?

そうです。少し遡りますが高校3年生の時、栄養士の資格を取るために4年制の大学に進学しようとしていましたが、願書を出す前日に、滅多に家にいない姉がふらっと帰ってきたんです。

それで、姉に進路のことを伝えると、真剣な顔で「家にお金ないの分かってる?自分の人生だから決めればいいけど、自分の目指す大学生がそこにあるのかはちゃんと考えた方がいいよ」と。姉が当時、働いたお金の大半を家に入れているのを知っていましたから、その苦労もよく分かっているつもりではいました。

思いがけない言葉に、その晩はすごく考えましたね。「確かに家のことを考えると、できる限り早く社会人になりたい、でも栄養士の夢も諦められない」…そんな中で両方を得られる手段が、私の中では短期大学で。翌日、願書の提出を取りやめて、進路を切り替えて。決断してからはあっという間でした。

2年早く社会に出るのは大きいと思いましたし、もし2年経ってどうしても4年制に行きたくなったら編入すればいいや、という感じでしたね。

そうして短期大学に入学後すぐにエフエルシーと出会って、卒業とともに正式に社員になりました。

―栄養士とはまたかけ離れた営業職で働くことを決めたのは?

当時は会社も小さく、ほぼアルバイトのメンバーばかりで社員という仕組みがそもそもありませんでした。ですから、就職活動もしていましたし、エフエルシーで働くことは当初全く考えていませんでしたね。

あまりシフトにも入っていなくて、はじめはそこまで熱もありませんでしたし、仕事もお金を稼ぐための手段でしかありませんでした。

ただ、短大1年の夏休みにずっと続けていたブラスバンドを辞めて少しずつ自分の手が空いてきた頃に、会社にランキングが貼り出されているのをみて、春休みを使って自分がどこまでいけるかやってみたいとふと思ったんです。

実際にやってみた結果、かなりいいところまでいくことができ、同時により稼げるようにもなった実感があって。そこから「もう少しやってみたい」「営業の勉強をしてみたい」という具合に、後はいつものように夢中になってのめり込んでいきましたね(笑)

―そうして、そのまま社員になったのですか?

いえ、営業が好きになったとはいえやっぱり栄養士になるために勉強をしていましたので、就職活動はしていました。

ただ、就職活動をすればするほど、自分がずっと憧れてきた栄養士の世界に違和感を覚えることが多くありました。あくまで「私の理想との違和感」という結論ですから、自分がこの世界で生きていくことに不安を覚えてしまったというだけに過ぎないのですが。

これまで一心にやりたいと思ってがむしゃらに勉強してきた分、目標に迷いが生まれて立ち止まってしまったんですね。

ある日、グループの代表に会った時に就職活動について相談してみました。すると、「とりあえずやってみたら?色んな会社を回って、社会を知ることは大事だと思うよ。頭で悩むより、とにかく動いてみな」と。その時に、確かに考えて悩むのは自分の性に合わないし、だったら納得するまでとことんやってみようと素直に思えて、気持ちが一気に晴れていったことを今でもすごく覚えています。そこからしばらくやり続けて、5月にはある企業から内定をもらっていましたね。

―そこから一転、どういう経緯でエフエルシーの一員に?

他社の内定をもらってからは、時間もありましたのでアルバイトにほとんど費やしました。色々な人と一緒に仕事を入る中で、誰と入っても結果をブラさない私の事をすごく評価していただく機会に恵まれたんですよね。当時はとにかくお金を稼ぎたい一心でしたので、周りにモチベーションを左右されることもありませんでしたし…。

そこから大学2年の夏休みに、初めて会社で業績トップを取ることができました。その後しばらくして、代表から急に夜呼び出されたんです。何を言われるのかビクビクしていると、私の今後の人生を変えた、この一言をもらいました。

「今までこんなこと人に言ったことないけれど、まりとはこれからも一緒に働きたい。一緒に仕事しないか?」

もう、私もこんなに人に必要とされたことが初めてで、ダイレクトに一緒に働きたいと社長自ら言ってくれたことが本当に嬉しかったですね。そして、この人達となら一緒に頑張れる、もしたとえ不幸な状況になっても一緒に歩んでいけるという信頼と直感がありました。

だからこそ安泰かもしれない人生を捨てて一種の賭けに出たような、そんな気分でしたね。

―教育熱心だったお母さまはどのような反応をされたのですか?

内定を辞退してエフエルシーの社員になると決めた時、案の定母には猛反対されました(笑)。

そのことに悩んでいたら、その時も姉から「自分の人生なんだから自分で決めなよ」と、こっぴどく叱られましたが(笑)、長年私に理想を預けてきた母にとっては、きっとショックだったと思います。私が初めて親の前で「優等生」を捨てた瞬間でした。

でも、その分絶対結果を出して認めてもらいたかったですし、今では母も凄く応援してくれて、私の理解者でいてくれていますよ。

―卒業する前からもう社員並みに働いていらしたと思いますが、実際にアルバイトから社員になって変化はありましたか?

小泉:全然なかったです(笑)。普通の会社であれば社員がやるようなことをアルバイトの時から任せてもらっていましたからね。卒業後に正式に社員にはなりましたが、扱いには全く大差はなかったですよ、その延長線上というだけで。元々お給料も日給制でしたし、歩合条件も社員と同様でしたから。まぁ、しいていうなら社会保険に入れるというくらいじゃないですか?(笑)

―確かにそうですね(笑)ちなみに、どういうことを任せてもらっていましたか?

大学2年生の秋以降にもなってくると、ほとんど授業もなかったので社員並にブースには立っていました。そんな中、卒業間近の冬に「新事業をやってみないか」と代表から声が掛かり、事業のリーダーに抜擢していただきました。

組織をもった経験も初めてでしたが、自分で人を採用するところから全部やらなければならず、自分が結果を出さなければ事業は潰れてしまう。そんな状況下でしたので、ただの女子大生が経験するには十二分に鍛えられる環境でした。

―入社して、一番自分が変わったな、成長したなと感じるのはどういう所ですか?

何もかも変わりましたよ(笑)。まず何より「小泉まり」という人格にメスを入れられたのは、エフエルシーが初めてでした。

これまでは何でも卒なくこなすタイプで、それ以上を求めてくる人もいませんでした。それが、次から次に新しい課題が降ってくる。もう、それをクリアしていくのに精一杯で、悩んでいる暇もなく私が誰よりもやらなければいけない状況でした。

そうしていくうちに、常に当事者意識を持つこと、そして「会社=自分」だという感性で仕事ができるようになったことは大きいです。それは周りの人たちが教えてくれて育ててきて下さった賜物だと思っていますし、結果に逃げない姿勢は、エフエルシーに入って更に磨かれた部分ですね。

多くのものを背負って戦いながら突き進んでいる人達の生き様に触れた

―なるほど。ちなみに、今の軸を作ってこられたエピソードを伺いたいのですが、振り返ってみて、人生で一番のターニングポイントを挙げるとするならいつですか?

そうですね…。1つに絞れないので2つ話してもいいですか?(笑)

どちらもエフエルシーに入社してからの話ですが、ひとつは24歳の冬。代表の父親が亡くなられた時のことです。ある日本社で代表と一緒にいるときに一通のメールが届いて、そこには先日自分の父親が亡くなったこと、そして決意表明を当時のマネージャーに宛てて書かれてありました。

メールには返信不要と書かれていましたが、創業メンバーのひとりである女性から返信があったようで、その時に初めて涙を流している代表の姿をみました。

その時の私は、見えない絆というか、こうして色んなものを背負って戦いながら突き進んでいる人達の生き様が見えたんですよね。

そして、翌日にメールで「俺には時間がない。だから、まりがこれ以上のステージに進むなら、覚悟が必要だ。自分自身に問いかけて、本気で考えてほしい」と言われました。

その後、「私にも覚悟はできています」と震えながら返信している自分がいましたね。この人と会社のことは裏切れないと思いましたし、こうして今でも成長の過程にはいつも代表の存在があります。

―代表である萩尾さんの存在の偉大さを感じますね。そうすると、もうひとつのターニングポイントも萩尾さんが関わってきますか?

そうです(笑)。少し遡りますが23歳、事業が変わって今エフエルシープレミアムの原点となる営業1課のマネージャーに異動になるきっかけになったある出来事です。

その当時、結果自体は出していましたが、新しい評価制度ができて代表にすごく叱られることがあり、自信喪失していました。自分に自信が持てなくて、ある日泣いて電話をして「私を一番下のランクに下げてください」「人の上に立てるような人間じゃない」「嫌だ、耐えられない」…とにかくネガティブなことを散々吐いた日がありました。

その時に、代表から「まりはそれでいいの?それでいいなら何も言うことはないけれど、俺はもっと期待しているよ」と言われて、マイナスな方向にばかり目を向けていた自分から覚めました。

こんな自分を受け入れてくれる人がいることに救われましたし、私も輝ける存在になりたいと、その時強く心に誓ったことを今でも覚えていますね。

―紆余曲折ありながらも、今があるのですね。入社から社長になるまでのストーリーを、自身で振り返ってみるとどうですか?

なんというか、常に背伸び状態でしたね。悩んで立ち止まる暇さえ持たせてもらえなかったくらい。周りにアンテナを張り、興味を持ってひたすら走り続けてきました。

それは、きっと代表をはじめ、周りが育ててくれて自分もそれに食らいついていった結果だと思います。超えたいと思っても、いまだに背中を見せ続けられるというか。

―その中で「これだけは譲れない」といった自分の魅力はどこにあると考えますか?

胸を張って言えるのは、「女でも若くても、絶対に負けない気持ちでやってきた意地」ですかね。

―「負けない」気持ちの原点って、どこにあると思いますか?

考えたことなかったです(笑)。でも、根本は「自分に自信がないから」というのはありますね。自信がないから、つけたくてやっているような感覚もあります。

せっかくなら自分がどこまでいけるのか勝負したいし、中途半端が嫌いなので。自分に負けない自分でいたいです。

―もうひとつ、様々なエピソードをお伺いする中で「人との巡り合わせ」というのがテーマのように感じますが、ご自身で運がいい方だと思いますか?

すごく思いますね!それで、ある恩師から言われた言葉があるんです。エフエルシーに入社してからの話ですが、ゆっくりお話できる機会をいただいたので「今までを振り返ってみると苦労も多かったけれど、ずっと周りの人にだけは恵まれてきた。だから道を踏み外さずグレなかったのかな(笑)」というニュアンスの話をしました。

その時に恩師から言われた言葉が印象的で、今でもよく覚えているのですが、「少なからず自分にとって良い人も悪い人にも、どちらにも出会ってきている。ただ、その中で無意識に自分が選んできたんだよ。その五感が大事で、今はそういう小さな出会いが重なった集合体。それを運が良い、周りに恵まれていると感謝できる事がいいんじゃない」と。

…なんだか、はっとさせられたというか、今も時々なにかあるごとにこの言葉を思い出しますね。

あとは、たとえ出会いを自分が選んできたとしても、相手があっての自分ですから。そういう人達に傍で支えてもらえることに感謝したいですし、そう思ってもらえるような自分でもいたいですね。

―とても考えさせられる内容ですね。ありがとうございます。…少し質問を変えますが、日頃継続して心がけていること、自らに課していることはありますか?

まずは、人といる時は明るくいることですかね。電話することや、人と会う機会も多いので、その時に私が暗かったら周りが気にしますし、なにより少しでも人を元気にしたいな、というスタンスは常にありますね。自分中心ではなく、”相手があっての自分”ということを忘れないように心がけています。

あとは、何より健康でいること。栄養を補うことや、身体を動かすことも大切。それと自分の体に鞭打った時の調整は欠かせないです。例えば、いつもより多く睡眠を取ることや、自分が喜べる細かなメンテナンスに充てますね。

なるべく常に元気な状態でいられるように、セルフコントロールをしていく術はしっかり勉強しています。

上司部下の以前に、パートナーシップを築いていくこと

―次は、社員との関係性について伺いたいと思います。今、社員へのマネージメントで大切にしているのはどういうところですか?

まず、接し方としては「近くに感じてもらえるように」を心がけています。どんな時もまずは話をよく聞いて、気持ちを理解することに努めたいな、と。上司部下の以前に、「お互いを尊重し理解し合う」付き合いの先に、本当の信頼関係とパートナーシップは生まれてくるものだと思うので。

一人一人組織への貢献の仕方はさまざまで役割は必ずあるので、それを見つけて活かせるマネージメントをするのが私の仕事です。和を大切に、とことん向き合って尊重し合える関係性を皆で築いていきたいですね。

―ちなみに、マネージメントに限らず色んな判断や決裁を日々行っているかと思いますが、一番大切にしている軸はどこにありますか?

小泉:まず、「未来志向であること」と「利己的ではない考え方」という2つが主な判断基準ですかね。本来は物理的な面と気持ちの面、そのどちらも揃っていい方向にいくことがベストだと考えています。社員の幸せを追求していくことが一番果たすべき責任ですから。

―会社のTOPとして、このメンバーと成し遂げたいことを教えてください。

「今一度自分達で創業する気持ちをもって、私達だからできる新たな価値を見出すこと」ですね。

親会社であるプレミアムウォーターホールディングスは東証2部上場企業となりました。グループ全体で年商270億の企業ですが、次に目指すは「グループ単独上場」を目標に掲げています。

土台と文化は大切にした上で、新たなイノベーションを起こしたいですね。

―実際に社長になって、その感触というのはありますか?

すごくありますよ。まず、エフエルシーは母体にある文化というのが根付いていますので、文化や伝統を受け継いでいく組織である一方で、本来見直す視点が薄くなってしまうのも事実です。私が社長になってまず目を向けたのは、現実的にみて、必要と思うものは全て変えていくことでした。

皆と改めて見てみると新たな発見があることも多くて、塵を一つ一つ集めて体現してきたことが、今の業績にも繋がっていると思います。

最後に、未来を創っていく仲間に期待すること

真っ白いキャンバスで飛び込んできてくれたメンバーと、一緒に色んな絵を描いていきたいです。

私達が求めるマインドは「素直さと謙虚さ、そして感謝の気持ちを忘れない」心。そして、大事な時間を無駄なく成長のために使い込んでほしいです。そして大事なのが、自分を律し、周りにいる人を大切にできる協調性を持った人。

若さは何よりの武器であり、失敗も経験としてかけがえない財産になります。失敗を恐れず、いかに濃く熱く仕事ができるか!可能性を広げて挑戦していってもらいたいですね。

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