「小説家になりたいので」と最初の会社を辞めた。けれど本当の理由は違った。
浦和高校から慶應大学をへて、森永乳業に入社。順調のように見えたが、半年で辞めた。「小説家になりたいので会社辞めます」と言うと、「え?なに?」と会社の上司はびっくりしていた。それはそうだろう。だって僕だってびっくりした。学生時代にそんな理由で会社を辞めるやつがいるなんて思わなかった。それに書きたいことも実はまるでないのだ。
ただ僕は「いい高校」から「いい大学」、そして「いい会社」にいくという「当たり前」の「つまらない」ルートからもう離れたかった。つまり「やめる」ことそのものが目的だった。書きたいこともそうだが、やりたいこともなかった。「いつかなにか素晴らしい仕事をしたい」とぼんやり夢想するどこにでもいる若者の1人だった。
お金も信頼もなかったけれど、横浜で家賃25000円の部屋は借りられた。大家のお年を召した女性がいい方だった。風呂はなかった。けれどすぐそばに銭湯があった。すごく十分に思えた。
いちおう「小説を書く」と言った手前、原稿用紙やPCには向かってみた。たいていは1行も書けずにその日がおわった。風の気持ちいい日は窓をあけてよくそこでタバコを吸った。タバコの吸い殻ばかりが空き缶にたまっていった。
生きるにはお金が必要で、塾の講師のアルバイトをした。塾は夕方からで、昼間は超絶ヒマだった。鶴見川の河原にいって野良の猫たちによくえさをあげていた。僕がいくと「あ!えさやり男がきた!」という感じで猫たちは勝手に寄ってきた。嬉しかった。
こう書くとどうしようもないやつのようだが、僕自身はそんな日々がたまらなく好きだった。途中から塾の講師もクビになってアルバイトを変わり、マーケティングリサーチの会社で朝から夜遅くまで結局働く毎日になったのだが、そんなときも週末は河原に行くといつもの猫たちが寄ってきてくれた。
3年で社会復帰。しかし、なぜか「おじさん」にとにかく嫌われた。
3年後、僕は母の電話をきっかけに就職した。「もうお金がない。どうしよう…」という電話だった。
うちの家は昔、寿司屋だった。父は僕が6歳のとき、37歳で心筋梗塞で急死した。僕の小学校入学式の翌日だった。それは昼の出来事で、母と姉と僕の3人が「いってくるね」とスーパーに買い物に行くときは、父は夜の営業のために「おぅ…いってらっしゃい!」と元気に仕込み中だった。ほんの1時間後に帰ってきたら、父は並べた椅子の上に寝転がっていた。「昼寝かな?」と母か姉が声をかけても起きなかった。驚いた母が救急車を呼んだ。「…ご臨終です」とかけつけた医者が声をしぼりだすように言った。母は泣き崩れた。僕は何が起きたかわからずぼうっとしていた。
寿司屋はその日までだ。
母は年金に入っていなかった。母は、僕の2人の姉のうちの1人が障碍者だった関係もあり、働かなかった。父の生命保険を切り崩しながらの生活で、その貯金が底を尽いたのだ。
そして僕は小説家を目指すのを辞めた。
そもそも目指しているのか何なのかよくわからなかったし、じぶんでもそろそろちゃんと考えないといけないと悩んでいた時期だった。実家にも仕送りしないといけない。僕は人生で初めて真剣に働くことを決め、母の電話を受けた本屋でリクルートの「ビーイング」という就職情報誌を手にとり、そこで募集していた広告代理店にその場で電話、応募した。社員はだめだったがアルバイトでなんとか雇ってもらえることになった。
ちなみにそのときいた本屋にも社員募集の貼り紙があり、受けてみたが、「きみはたぶん合わないと思う」みたいなことを言われて受からなかった。そこで受かっていたら僕の人生は変わっていたかもしれない。今では受からなかったことに感謝しているが、当時はがっかりした。
しかし僕には運があった。就職した会社で人に恵まれ、仕事の楽しさを知った。そんなに仕事が楽しいと思っていなかったからびっくりした。そして頑張っていたらアルバイトから社員になれた。僕は「もっと」「もっと」と仕事にのめりこんでいった。
しかしそんな日々で鮮明になった悩みが僕にはあった。とにかく「おじさん」によく嫌われるのだ。じぶんではよくわからなかったが、僕の中のなにかが彼らの感に障るのだろう。「こいつ、何もしらないくせに」「一度苦労してみろ」「生意気だ」「好き勝手しやがって」…いつもそんな声が聞こえてきそうだった。僕はストレートに社長に進言してどんどんと企画を進めていったりするから、「社会性」という名の下に既存社会での顔色のうかがい方をスペシャルに身につけ我慢して活躍のチャンスをうかがってじっとり生きてきた彼らからしたら嫉妬の対象というか、不愉快な存在だったのだろう。
結果さえ出せば認めてもらえる…そんな淡い期待を抱いて「通販(D2C)業界」へ…。ところが…
僕はじぶんの好きな「広告を作る仕事」で、間に「おじさん」が介在せず、「結果」さえ出れば認められる仕事が何かを考え、「通販」に行き着いた。通販業界に入ればもう「おじさん」の顔色をうかがう必要がない…はずだった。
付け加えれば、大学時代の友だちや知り合いを追い抜きたかった。「金じゃねーよ」という風情で生きてきたが、彼らに年収で負けている僕が言っても説得力がない。大卒で大企業をずっと続けている彼らに年収で勝つには…「独立」しか思いつかなかった。彼らに金で勝ってから「金じゃない」と言おう。当時の僕はそう思った。
ところが…
実際にこの業界に入ると、まずコンサルタントが微妙だった。そもそも通販をじぶんでやったことがない人間が多い。それどころか広告や、コンサルタントとして肝なはずの事業収支のシミュレーションさえじぶんで作ったことがない。なのに「100%成功します」とありえないことを言う。本当にひどかった。
そして広告代理店もなかなかだった。すでに売れている商品や大きなお金のあるクライアントを探す。好調なところにしか金を貸さない銀行と一緒だ。クライアントの事業の採算性より、初回オファーを安くしてじぶんたちの売上が上がることを喜ぶ。ある面、仕方がないのだが、あまりにそんなところばかりで辟易した。
D2Cメーカー側も不思議だった。「マーケティング部」と名刺にはあるが、戦略立案はおろか、数値シミュレーションや広告を作れる人が1人もいないのはザラ。ミーティングに出てくる人数だけ多い。「いま何が売れているの?」と売れている商品をただ模倣しちょっと差別化して出そうという案件ばかり。そして大切な販売や制作は外部任せだ。
確かに「昔の理不尽なおじさん」は減った。ただその代わりべつの理不尽が残った。公平性が高いはずのD2Cの世界は、「アンフェア」と「不誠実」がそこかしこに蔓延るヤバい世界だったわけだ。
「社会をもっと公平に」をコンセプトに、僕はD2Cのコンサルをはじめた。けれど物事はきれいごと通りには進まない…そして今。
すでに売れている商品やお金のある大企業ではなく、誰も知らない企業が作った「実は必要」な商品をD2Cとして成立させることで、少しでもこの社会に必要な循環を作っていく。…そんなことをイメージして、僕は「エレファント」という法人をはじめた。象は知恵の神。大手が売上を作るのは簡単。それは他の誰かがやればいい。僕らは名も知られぬ中小事業者の「下剋上」や「再生」を支援して、社会全体の中で見ればすごく小さいかもしれない「ちょっとした循環」を積み重ねていき、やがて世の中が大きく変わっていく手がかりを作っていこう…大げさだけど、そんなイメージだった。
ところが物事はそんなにうまくいかない。僕も独立当初は生きるのに必死だからどんな案件もやった。なにせ子どもも生まれたばかりで、家族を背負った責任もあった。僕はもう誰かに雇われている存在じゃない。じぶんと家族を守るのは僕しかいないのだ。
僕がクライアントに何を言っても、クライアントはとにかく「売上」や「利益」の話にしか興味がなかった。じぶんで広告を作ってくれるクライアントはほぼ皆無で、皆がオーナー気取り。コンサルとは名ばかりの「代行」のような仕事がほとんどだった。しかもクライアントが売ってほしい商品は、どこにでもあるどうでもいい商品ばかりなのだ。
売れなければ僕のせいにされた。売れなければコンサル費を払ってくれないクライアントさえいた。
一方では、30億、50億…とどんどん売上が伸びていく案件もあった。クライアントの生活が一変するのは嬉しかったが、なにかちょっとした虚しさがいつもあった。
案件は増えていき、生活は成り立ったが、このままでいいのか?という思いがあった。そしてはじめたのが自社でのD2C「nico」だ。口で説明してだめなら、自ら作って示すしかないと思った。
もちろん最初は泥臭いことばかりだったし、なのに1年目は1つも売れなかった(苦笑)。けれど諦めず続けた。ここまできたら気合いだ…と続けていたら、1年目は1つも売れなかった商品で年商10億を超えた。
今でも「理想のD2C」と呼ぶには道半ばだが、このやり方を自社でまず増やしていきたいという思いで、「neco-ri(ねこり)」(猫のえさやり男が本当に猫のカラダにいいおやつを作った!笑)「moncygne(モンシーニュ)」(スタッフが自身の体験から立ち上げ)もはじめた。そしてクライアントにもこの輪を広げていきたいと、これまでとは違った試みも開始している。自らの背景や動機から「必要な」商品を企画し、自ら事業設計し、自ら広告を作り、自らCRMを作っていく、自力スタイルのD2Cだ。
「成功は笑われた数で決まる」
僕はそう思っている。まずは手を動かし、たくさん失敗する。チャレンジして失敗すれば、それを笑う人もいるかもしれない。けれどそれを気にせず勇気をもってチャレンジを続けた人だけが、最後にはみんなで笑いあえる仕事を作れる。
そういう僕らの考えに共感してくれる人が少しずつでも増えてくれると信じて、きょうも僕らは手と頭を動かしつづけていく。