BBQ&Co代表の成田です。
僕はよく焚き火をします。薪や枝をくべながら、ひとりで炎を眺めていると時を忘れて夢中になります。火に照らされながら、僕は思考を遊ばせてさまざまなことを考えます。ビジネスやBBQ&Coが目指すあり方について考えることはもちろん、もっと広いフィールドで曖昧で複雑なこともよく考えます。
「どうしたら現代日本はより良くなるか」を考えてBBQを通じてアウトプットする。いわばBBQは隠れ蓑。ただし薪の炎をコントロールして数kgもの塊肉を焼き上げるような、プロフェッショナルな隠れ蓑ではありますが。
焚き火の記憶。
さて、そんな僕が最近考えていることの1つに「信頼のつくりかた」があります。
劇作家で詩人の寺山修司の『群れるな』という本の中に「信頼のつくりかた」という 文章があります。
信頼のつくりかた
修理工がボールを投げると、老運転手が胸の高さで受けとめます。ボールが互いのグローブの中で、バシッと音を立てるたびに、二人は確実な何かを相手に渡してやった気分になりました。その確実な何かが何であるのかは、私にもわかりません。
(寺山修司『群れるな』から一部引用)
ある日、父に言われました。「お前は息子を釣りに連れて行ったこともないのか?」と。私も釣りをしたことがないことを伝えると、悲しい気持ちになりました。私は父とキャッチボールもしたことがなかったのです。
子どもはとてもかわいい存在です。いろいろと遊んでやりたい気持ちはありますが、私には難しいことでした。ですが、焚き火の世話とフリスビーでなら自信を持って子どもと遊ぶことができます。それは父とそうした記憶があるからです。
僕はBBQの事業を始めた当初、なぜ自分がBBQに対してコミットできるのかをあまり深く考えていなかったのですが、あらためて考えたところ、子ども時代の記憶と結びつきました。
僕と父は一緒に「キャッチボール」や「釣り」をしたことがありません。
その代わり、フリスビーと焚き火をよく一緒にしていました。父は僕に火の扱い方を教えてくれました。
昨年、コロナ禍の自粛期間にもずっと僕はひとりで焚き火をして過ごしていました。火を見ていると、どんな不安も収まり心が落ち着きました。薪だけでなく壊れた家具を解体して出てきた木材などもくべて、炎を育て守りながら何時間も火のそばに座っていました。
いったいなぜ、僕はこんなことを続けているのだろう。
そこには子どもの頃の記憶があるからです。だからこそ僕は、こうして大人になってからも、火をコントロールできるBBQにコミットしているのでしょう。
この記憶こそが僕の中で、たしかに「今」につながっているのを実感します。
今や記憶はどんどん消えていく。
印象に残っている昔の手紙はありますか?
僕は直筆の手紙をやりとりするのが好きでした。
記憶を交換するフォーマットとして、手紙は優秀でした。文字のクセ、インクのにじみ、届くまでに数日かかること、他にも五感を使って得られる空気を、送り手と受け手が共有することができていました。
スマートフォンやデジタルデバイスが普及して仕事は格段に便利になり、日記代わりのSNSやダウンロードコンテンツ、家族や仲間や旧友ともチャットアプリでつながることができています。でもメールやLINEのメッセージのやりとりでは、その内容をあまり細かく覚えていません。デジタル社会ではシステム上にアーカイブは残していても、個人内部の記憶には残らない仕組みになっているように感じます。
利便性を手に入れた今、記憶を留めておく場所がなくなっています。
科学の進化は不可逆的なものなので、便利なメールやLINEを手放して直筆の手紙に戻ろう! なんてことはないでしょう。
記憶を留める場をつくりたい。
子どもの頃に父と焚き火をしていた記憶、それが今の僕をBBQへと導いています。
炎を眺めながらポツリポツリと交わした親子の会話、火をコントロールする父への憧れ、パチパチと火の粉がはぜる音、煙の匂い、炎に照らされた頬の熱さ……。
キャッチボールなら、きっとボールを受け取るときに心地よい衝撃があるでしょう。フリスビーを受けたときにも、相手から貰ったという実感があります。記憶の交換とは実感の交換なんです。
BBQでも、集まった人たちの中で実感を交換できる余白を作らなくちゃいけません。
ただ「焼いたお肉はおいしいね!」ではなくて、交わす会話、同じ感覚を共有すること、違う感覚に新たに出会うこと。BBQはたくさんの実感が交換されるスペースになれるはずなんです。
自分らしい人生を送るために。
記憶はごく個人的な実感なので、「一般的にはこうかもしれないけど、私はこうやっている」「いやいや自分はこうやねん」という「自分らしさ」を主張し合うためのバックボーンです。BBQはその交換ができる場だと僕は考えています。
そもそも僕には焚き火の記憶があるから、BBQに強くコミットできていますが、他の人はきっとBBQをビジネスにしようなんて思わないでしょう。日本に根付いていないBBQコミュニケーションを啓蒙し、BBQの楽しみ方を伝え、環境やプロダクトを開発して整える…ビジネスとして大変そうだぞ、と多くの方が言うだろうと思います。それは合理的な判断だと思います。
いわば損得を越えた、美学によるジャッジです。
「他の人は違うかもしれないけど、自分はこうだ」という判断を支えるのが記憶です。だから、そんな「自分らしさ」を形成する記憶が生まれなくなってしまうと、誰もが似た行動や判断をするだけの、均一的な社会になってしまう。僕はそれがすごくいやなんです。
合理的な判断は効率や利便性を生み出します。でもその先に何があるんでしょう。「自分が自分として生きた意味」を感じにくくなるのではないでしょうか。
そんなことを考えながら、今日も僕は薪をくべています。