「看護師不足」という言葉を、私たちは何度聞いてきただろうか。
ニュースでも、行政の資料でも、病院経営の議論でも、必ずと言っていいほどこの言葉が登場する。だが現場を歩いてきた私には、どうしても引っかかることがある。
本当に「不足」しているのだろうか?
70万人という数字が示す現実
厚生労働省の推計によると、看護師資格を持ちながら現場を離れている**「潜在看護師」は全国に約70万人**いる。一方、日本看護協会の調査では、2023年度の正規雇用看護師の離職率は11.3%。毎年9人に1人が職場を去っている。
この二つの数字を並べたとき、見えてくるのは「不足」とは少し違う風景だ。人がいないのではない。人はいる。ただ、戻れないのだ。
私たちはこの問いを確かめるため、現場を離れた看護師たちに直接話を聞いてきた。若手で離職した方、結婚・出産でキャリアを中断した方。彼女たちの言葉から、「戻れない構造」がはっきりと見えてきた。
戻れない理由①「ブランクへの恐怖」
私はこれまで多くの看護師にヒアリングをしてきた。その中で繰り返し聞いてきた声がある。
「5年も離れちゃうと、戻りたい気持ちはあっても、通用するのか不安で」
医療技術は日進月歩で変わる。電子カルテのシステムも、医療機器も、薬剤も、数年離れただけで別世界になる。出産や育児、介護でキャリアを中断した看護師にとって、復職のハードルは想像以上に高い。
しかも、復職前にその不安を解消できる場が、今の採用市場にはほとんどない。求人票に書かれた「ブランクOK」「研修制度あり」という文字だけでは、本当に自分が通用するのか判断できない。結果、一歩を踏み出せないまま、潜在看護師のままでいる。
戻れない理由②「潰す文化」への再現不安
ブランクへの不安と並んで、いやそれ以上に、彼女たちの一歩を止めているものがある。ある若手の元看護師は、こう語ってくれた。
「外見のいい病院でも、内情が違うんです」
彼女が辞めた本当の理由は、よく言われる「人間関係の悪さ」ではなかった。急変対応の後に十分なフォローがないまま責任だけを問われる空気。
新人を育てるのではなく、追い込んでいく文化。彼女はそれを「潰す文化」と表現した。
求人票には書かれない。見学に行ってもわからない。入ってみて初めて気づく。
そして一度こうした経験をした看護師は、復職を考えるたびに同じ恐怖がよみがえる。「また同じような職場だったらどうしよう」と。スキルへの不安よりも、職場文化への再現不安のほうが、彼女たちの一歩を止めている。
ヒアリングを重ねる中で、もう一つ気づいたことがある。彼女たちが本当に欲しいのは、時給でも場所でもない。「ここなら安心して働ける」という確信だ。それを得るための情報が、今の採用市場にはほとんど存在しない。
戻れない理由③「辞めたくなかった」育児離職層の壁
子育て中の元看護師は、開口一番こう言った。
「辞めたくなかったんです。でも、辞めるしかなかった」
子供が小学校に上がるタイミングで、彼女は復職を真剣に考え始めていた。意欲はある。資格もある。経験もある。それでも、動けない。
理由は明確だった。「子供の急な発熱で休めるかどうか、求人票を見てもわからない」のだ。
子育て中の看護師にとって、急な呼び出しに対応してもらえる職場かどうかは絶対条件だ。しかし、それを事前に確認する手段がない。面接で聞けば「採用されないかも」という不安がよぎる。入ってみて違ったら、また辞めることになる。
別の元看護師はこう話した。「子供が熱を出したとき、休めるかどうかは結局、その時の管理者の裁量に左右される。それが怖い」
制度として「子育て配慮」を掲げる病院は多い。しかし、実際に運用されているかどうかは、入ってみないとわからない。この情報の非対称性が、潜在看護師70万人の大きな部分を生み出している。
戻れない理由④「電話攻勢」と情報の濁流
若手で離職した方、子育て中の方、ベテランでキャリアを中断した方。多様な層にヒアリングを重ねてきたが、ひとつだけ全員が口を揃えて嫌悪したものがある。人材紹介会社からの電話攻勢だ。
「転職サイトに登録した瞬間、電話が止まらなくなる。それが嫌で、
もう登録したくない」
復職を考え始めた看護師にとって、最初に必要なのは「自分のペースで情報を集める時間」だ。ブランクがあること、子育て中であること、前職で傷ついた経験があること。それぞれの事情を整理しながら、自分に合う職場をゆっくり探したい。
しかし紹介会社のビジネスモデル上、登録した看護師には次々と求人が提案される。電話、メール。情報の濁流の中で、彼女たちは判断を迫られる。
結果、何が起きるか。「もう転職活動自体をやめよう」と考える人が一定数出る。復職への入り口で、彼女たちは退場していく。
戻れない理由⑤「働き方の選択肢がない」
もう一つ、構造の問題を象徴する声がある。
「非常勤で時短を選んで入ったんです。『定時で帰っていいよ』と言われました。でも実際には帰れない。病院として、帰れる仕組みがないんです」
これがフルタイム前提の職場文化だ。
「お昼の食事介助だけ、もう一人いてくれたら助かる」「12時から15時の3時間だけ手伝ってほしい」――現場のニーズは、フルタイムでも従来の非常勤でもない、もっと細かい単位にある。しかし、その隙間を埋める仕組みが存在しない。
ヒアリングでは、「扶養内で働きたい」という声よりも、「自分のペースで柔軟に働きたい」という声のほうが強かった。収入の上限よりも、働き方の自由度。これが今の潜在看護師のリアルだ。
「医療版タイミー」では解決しない
ここまで読んで、こう思う方もいるかもしれない。「だったら、スポット勤務のマッチングサービスを作ればいい」と。
実は、私自身も最初はそう考えていた。介護業界では単発のマッチングサービスが機能している。看護でも同じことができるのではないか、と。
しかし、看護師と病院へのヒアリングを重ねる中で、私の考えは変わった。
看護の業務は、患者さんと直接向き合う時間が多い。単発で来た人が、その日のうちに患者さんの状態を把握し、安全にケアを提供するのは現実的に難しい。説明だけで時間が終わってしまう。何より、医療事故のリスクが高すぎる。
実際にヒアリングした看護師たちも、「単発案件は即戦力要件が高くて応募できなかった」「現場の雰囲気を見てから本格復帰を決めたい」と語っている。求められているのは、単発の効率化ではない。
求められているのは「段階的復職」の仕組み
ヒアリングを通じて見えてきた答えは明確だった。
健診補助やワクチン接種補助といった、リスクの低い業務から始められる選択肢。3か月程度の中長期で、同じ病院で副業的に働ける仕組み。LINEで気軽に相談でき、電話攻勢に晒されない情報環境。施設の雰囲気や育成文化が、応募前に見える透明性。
これらは、ヒアリングした看護師全員から共通して出てきた声だ。
「採血・受付補助などから始められれば、不安が半分以下になる。現場の雰囲気を見てから本格復帰を決めたい」
これが、潜在看護師の本音だ。
私たちが目指しているのは、こうした「段階的に戻れる構造」を作ることだ。看護師は職場をじっくり見極められる。病院は人材の力を見極められる。お互いが納得した上で、本採用に進むかどうかを判断できる。
これは単なる人材マッチングではない。「戻れない構造」を「戻れる構造」に変える試みだ。
不足ではなく、構造の問題として捉え直す
「看護師不足」という言葉は、問題の本質を見えにくくしている。
70万人の潜在看護師がいる。離職率は11.3%ある。人はいる。ただ、戻る道がない。働き続ける仕組みがない。情報を得る場所がない。
診療報酬を上げても、紹介手数料に上限を設けても、この構造を変えなければ、看護師不足は解消しない。
現場を歩き、当事者の声を聞いてきた者として、私はそう確信している。看護師が「戻りたい」と思ったときに、戻れる場所がある。「働き続けたい」と思ったときに、続けられる仕組みがある。その当たり前を作ることが、これからの医療採用市場に求められている処方箋だ。
70万人の潜在看護師は、医療現場の「不足」ではなく、まだ活かされていない可能性なのだ。
右高 稜大|株式会社メドエックス 代表取締役
文章・構成|袈裟丸梨里子 メドエックス広報戦略顧問