創設者 髙橋幸枝の言葉(秦野病院50周年記念誌より)
はじまり
無から始める、68床。悲壮な思いで開所式に臨んだことを、今も忘れられません。自信もなく、お金もなく、不安一杯であったことを思い出します。
中央林間(神奈川県大和市)に「髙橋医院」を開いた10年後、妹と2人で、今の病院がある秦野市に「秦野病院」を開きました。これは大きな決断でした。というのも「精神科」を診療科目に加えようとしたからです。友人の医師から「暮らしが豊かになってくるこれからの時代、精神が過敏な人が増えてくる」という話を聞いて、「なるほど、精神科の医者はもっと必要になってくるかもしれない」と考えたのです。
秦野の地を選んだ理由
精神科病院なら空気が良くて、山が見えて、都会の喧騒から離れて静かなところがいいと考え、妹と土地を探しに、ほうぼう歩き回りました。そうした中で、秦野の水無川沿いにある土地を紹介され、見に来ました。その土地には「土」ではなくて、大小様々な「石」が転がっていました。水無川がかつて決壊して大きな石が流れ出し、その間から野草が生えているような土地でした。このような場所であったから、なんとか土地を買うことができ、病院の礎が築かれたのでした。後日談ですが、その頃は国道246号線を作っている時期で、この土地の石が砕かれ、運搬されていました。秦野病院が建って、1年後くらいに国道246号線は完成しました。その頃の秦野病院の周囲は、砂利屋さんと採石会社のみという状況。私が50歳の時のことでした。
「求めよ、さらば与えられん」の精神
開設当時の経営には苦労しました。既に個人病院は10年やっていましたが、病院経営となると素人同然です。病院は出費するばかりで、収入がほとんどなく、職員の給料を賄うべく、寸暇も惜しんで中央林間の診療所でも診療を行いました。ともかく開業しばらくは心身共に夢中で、不安と焦燥の日々の連続でした。それでも妹と力を合わせて、なんとか乗り切れたのは、「求めよ、さらば与えられん」ということだったのでしょうか。神様が私たちの数々の挑戦を見守ってくださっていると思うことはたびたびありました。
これからの期待
あれから50年。地域の皆様に温かくしていただき、68床から始まった秦野病院も今や151床と大きく育つことができました。嬉しかったこと、苦しかったこと、うまく行かなかったこと、思い起こせば数多くの出来事がありました。それでもここまで来れたのは、ご協力いただいた関係の皆様、支えてくれた自分の家族や、数多くの職員の皆様のお陰と心から感謝しております。自分の人生は秦野病院と共にあったといっても過言ではありません。次の50年、100年に向けて、秦野病院が大きく成長していくことを心より願っております。
秦野病院院長 笠原友幸の想い
入院治療から外来治療中心へのシフト
秦野病院は昭和41(1966)年2月開設以来、ここまで来ることができましたのも、患者様、ご家族様、関係諸機関の皆様方、先達の皆様方のご理解、ご支援の賜物と改めて厚く御礼申し上げます。
私は、昭和61年5月、非常勤医師として秦野病院での勤務を始めました。その後、平成5年4月より常勤となり、平成14年4月には髙橋幸枝先生を引継ぎ、院長に就任しました。30年前、私が就職した当初と比べて、精神科医療全体が大きく変化しました。その流れを受け、当院でも入院治療から外来治療中心へとシフトしてまいりました。特に平成12年に病院を建て替えて以来、外来患者数が増加し、現在では1日約120名以上の患者様が外来を利用されています。
また中央林間と渋沢の駅前にサテライトクリニックも開設しており、多くの外来患者様の診察を行っています。
社会復帰サービス展開の自負
一方、当院では開設当初より患者様の社会復帰に力を入れてまいりました。40年前にはすでに就労支援施設の先駆けともいうべき院内工場を設置し、作業療法による治療を始めていました。その後も平成6年にデイケア開設、平成13年に退院後居住施設としての はたの福祉ホーム開設、平成27年にデイケア・就労移行支援施設・高齢者デイサービスの複合施設である秦野病院ケアセンターの開設へと引き継がれ、患者様の早期退院、社会復帰に大きく貢献できたと自負しております。
家族的雰囲気で職員を大切に、そのチカラで地域貢献に邁進する
開設から今日まで、日頃の医療・福祉・介護サービスの提供においては、職員一同、心のこもった接遇を心掛けておりました。また、患者様の社会復帰においても、全力を尽くし、関係機関のご協力の下、地域社会に貢献できるよう、一丸となって取り組んでまいりました。
今後も当院の特徴である、家庭的な雰囲気を大切にし、地域の皆様に選んでいたただける医療、病院を目指して、真摯に取り組んでまいりたいと考えております。