1
/
5

What we do

プログラミングスクールKIDS LABOの様子
プログラミングスクールKIDS LABOの様子
【事業内容】 • STEAMスクールの運営 • 学校コンサルティング(日本人学校、インターナショナルスクール) • STEAM教材の開発・輸入販売 • 大人向けITスクールの運営 「ミャンマーから国際社会の未来を担っていく子どもたちを育てよう」という想いの元、STEAM教育のコンセプトを中心に据えたプログラミング教室を展開しています。 現在、MIT Media Lab.が開発したScratchというこども向けプログラミング学習ツールを使う基礎コースを、日本語にて開始し、また、基礎コース終了後には、ロボティクスコースや3Dプリンターを利用したデザインコースへと繋げ、世界を自分の手で創り上げてゆける人材を育成する環境を整えていきます。 ※STEAM教育とは、 Science(科学)、 Technology(技術)、 Engineering(工学)、Mathematics(数学)、Art(芸術)を統合的に学習する教育方法です。

Why we do

プログラミング教室の様子
電子工作作品に興味津々なこどもたち
【Mission】 ①ひとりでも生き抜いていける力を提供する ②世界を自分の手で編集し、創っていく力を提供する ③はちきれそうなほどワクワクできる環境を提供する 会社名はペルシア語由来で、”新しいものに出会い、目をきらきらさせる子ども” という意味を込めました。また弊社が運営する学校の名前にはこどもたちが集い、興味と好奇心の赴くままに様々なものを手に取って組み合わせたり切り離したり試行錯誤を繰り返す実験の場を創りたいという想いを込めています。

How we do

ある日のTIAMの様子
オフィスからは世界遺産のシュエダゴン・パゴダが見えます。
20代、30代、40代と3人の異なる分野のプロフェッショナルによって創業されたばかりの教育スタートアップです。フリーのデザイナー、IT企業の経営者、人材企業の経営者と、全員が教育以外の専門出身です。一方で、教育への想いが我々3人を結びつけるボンドです。 共同創業者3人のうちの一人、代表の三橋は23歳、フリーランスのデザイナーという別の顔を持ちます。まだ東京学国語大学(スペイン語)に在学中で、アルゼンチン生まれパナマ育ちという異色の経歴の女性です。 CTOの岩佐は42歳、自身のIT会社を経営する起業家で、小学生時代よりゲームを自分でプログラミングして遊んでいたというバリバリのエンジニアかつ、3歳の子を持つ一児の父でもあります。 COOの田村は34歳、一部上場人材会社のミャンマー法人の代表を現在も務め、これまで5カ国に暮らし、南極含め世界70以上の国と地域を歩き回ってきた旅人です。 【プチ創業ストーリー】 年齢も経歴も全く異なる創業メンバー3人に共通していることは「ビジネスを通して社会に貢献したい」という強い思いです。そして、「ミャンマーで今一番求められていることは教育だ」という思いです。 約半世紀に渡って鎖国状態にあったミャンマーが国を開き始めたのは2011年。「ラストフロンティア」と注目を浴び、世界中からの投資が相次ぎました。IT、人材と業界は違えど、岩佐と田村もこの大きな流れに乗ってミャンマーにやってきました。 開国から8年後の今年2019年。ミャンマーは思ったような経済成長を遂げることができず、もがいています。理由は簡単です。国や社会の発展を支える人材がいないのです。工場労働者も管理者も、ホワイトカラーもマネジメント人材も、公務員も政治家も、とにかくありとあらゆる分野とレベルで、社会を支える能力を持つ人材が不足しています。 「社会を支える能力」とは、社会の問題を解決する能力=問題解決能力に他なりません。激動のミャンマー社会において、それぞれの現場で、問題を発見し、ゴールを設定し、自分の頭を使って試行錯誤を繰り返しながら、問題を解決して行くことが出来る人材が圧倒的に不足しているのです。 第二次世界大戦前後のある時期、ヤンゴンは留学生が溢れるアジア有数の教育センターでした。今や日本よりもはるかに豊かに発展したシンガポールの建国の父であるリー・クアンユーは、独立後間もない時期の演説で「シンガポールをヤンゴンのような都市にしたい」という言葉を残しています。 しかし長い停滞の時代と、軍事独裁政権によってミャンマーの教育システムはアジア最低レベルにまで破壊されてしまいました。多くの取り組みが現在行われていますが、再構築は容易ではありません。 そのような環境のミャンマーにおいて、インターンシップを終えた後に人々をエンパワーメントするような事業を立ち上げようと動いていた三橋と、日々自身の企業とそこに働く社員のマネジメントに苦労してきた岩佐と、人材業界に身を置き、人材の課題に日々向き合ってきた田村が辿り着いた答えが「必要な教育が国家によって提供されていないのなら、自分たちでやってみよう」であり、TIAMの創業へと繋がっています。