四面楚歌の意味
広辞苑によると「たすけがなく孤立すること。周囲がみな敵や反対者ばかりであること。」とあります。
要するに「絶体絶命」の大ピンチです。
私は四面楚歌になったことはないですし、人を四面楚歌に陥れたことも今のところありません。
なかなか物騒な状況なので、この言葉が好き!というわけではないのですが、この言葉が生まれたきっかけになった出来事がとても興味深く学びがあるので、そこに思いをはせてみたいと思います。
項羽と劉邦のマッチレース
紀元前200年頃の中国のお話です。
携帯電話やパソコンはありませんよ。
それを想像しながら読んでくださると幸いです。
楚の国の項羽と漢の国の劉邦が全国制覇をかけてマッチレースを繰り広げていました。
項羽は武力に長けたエリートで、力づくで敵を制圧するタイプ。
劉邦は農民上がりで武力に乏しく、知略や人づかいのうまさで勝負するタイプでした。
二者はそれぞれの強みを活かしながら中国各地を制圧してゆき、天下分け目の垓下の戦いを迎えることになります。
力づくで制圧する項羽への内外からの不満をうまく煽り、劉邦陣営はかなりの裏切り、寝返りを成功させていたようです。
そのため項羽は連戦連勝だったのにも関わらず、劉邦の工作により軍は疲弊してゆきます。
力では絶対負けるはずのない劉邦がなぜか元気いっぱいで、自軍は憔悴しきっている。
さらに自軍を離れる者が多くて、もともと疑り深い項羽は不信感マックスだったのではないでしょうか。
いざ垓下の戦い
そんな状況で決戦の場面がやってきます。
決戦を控えてにらみ合う両者。
そんな折、漢の軍から夜な夜な楚の歌が聞こえてきます。
まさに東京ドームに六甲おろしがこだまするという状況です。
項羽は毎夜毎夜敵の陣営から耳になじみのある歌声が流れてくるのを聞き、かつて自分の味方だった者たちがみな自分を裏切ったことを知ります。
ここで項羽は負けを悟ったと言われています。
最期のひと暴れと項羽は少数精鋭のみを引き連れて敵陣突破を図り、潔く散ります。
実はこの作戦は劉邦軍の天才軍師、韓信が考案したものでした。
漢出身の自軍の兵士たちに、楚の方言、楚の歌をレクチャーし練習させ、夜な夜な歌わせたそうです。
少し不利な状況を、実際よりも何倍も絶望的な状況であると思わせるための作戦だったのです。
自軍の兵を失わず敵軍の将を射止める、お手本となるような決戦でした。
学んでみる
この物語からは多くのことが学べます。
武力に頼りすぎてはいけない。
広い心、大きな器を持ったリーダーになるべきだ。
心理戦、情報戦を制すものが戦いで勝利を収める。
などなど。
個人の感想としては自軍の兵に楚の歌を歌わせながらにやにやしている韓信を想像し、ただただこんな人を敵に回したくないなと思うばかりです。
ミラクアもうまく心理戦、情報戦を戦い抜き、兵を失うことなく全国制覇に歩みを進めてゆきます。