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【#5】なぜ重度障がい者の私が起業したのか?(前を見るきっかけ編)


はじめての充足感。

パソコンという私を自由にしてくれる友達を手に入れた私は、一心不乱にインターネットをやり続けた。何をやっても満たされない。ただ、ひたすらにネットサーフィンで色々な所に訪れ、情報を手に入れ、ゲームをしたり、ニュース・映画を見たり、小説を読んだり、音楽を聴いたり、漫画を読んだり、ちょっとエッチな大人の画像や動画などまで、食い入るように、朝から晩まで貪欲にパソコンに向かい合っていた。多い時は1日15時間程度は、ザラだった。

その時だけは、障がい者である自分を忘れることができた。ただ心は満たされなかった。何をやっても空気を掴んでいるように虚しかった。 無料でできることも限られているし、収入のない私にはお金を使うことには抵抗があった。 パソコンでできることも一通り、終えたところで、仕事を持ってない私は、パソコンでやることは遊びしかなかった。 Word、Excel など勉強することも、習得しても仕事が「どうせ出来なし、チャレンジする勇気もない。」という思い込みから、勉強することはなかった。楽しくもないし、怖いし、モチベーションも上がらなかった。

そして、金銭を得る方法として、容易に行き着いたのは、投資をするということだった。もともと家業が事業をしていることもあり、高校は商業科卒業の私は、経済には興味があった。企業の財務財務諸表や企業情報が見れる四季報などを読み漁り、株価チャートの読み方やトレンド分析をひたすら勉強して、無料の投資番組やセミナーをひたすら視聴する毎日が始まった。テレビのビジネス番組も毎日チェックするようになっていった。

ちょっとずつ、自分のお小遣いから投資を始めて、チャレンジするようになっていった。そこでやっとお仕事とは言わないが、自分の収入が1円でも出たり、自分の金銭を取り扱えるということで、自立している感覚が得られるようになった。

ただ、お小遣いを貰って消費している、幼稚園生や小学生などの未成年者の感覚から、1,000円でも1万円でも自分で投資して収入が得られることは、自分にとっては、大人になって、自立している感覚を得られるやっと実感を得られる機会に恵まれた気がする。


先生はテレビの中。

なんか、「ちょっと自分でも稼げるかも?」と思ったら、なんだか少し生きるモチベーションが出てききた気がする。いや、そこまで行かないけれども、せめて朝起きるモチベーションぐらいは出るようにはなった(笑)

毎日、引きこもっていていても、何かを生み出せるってすごい充足感や爽快感が得られる体験だった。だからといって、勉強も好きではないタイプなので、カリカリ勉強はしないけれども、自分のやれることや情報やセミナーの動画は日々、経済やビジネス番組を日々、併せて観るようになった。

もちろん、テレビやパソコンで映画やバラエティ番組を見るのは定番に大好きだった。この頃、なぜか将来に糧になるような番組を自分で見漁っていたのだ。どうすれば人として、成功していくのか?お金を手に入れられるのか?人格を手に入れられるのか?テレビから吸収しようとしていた。社会との接点が切断されていた私には、それしか思いつかなかったし、できなかった。

当時、すごく流行っていたのは、細木数子さんのテレビ番組。六星占術もなんとなく惹かれて、本を買ってみたり、物事の捉え方、所作、考え方を自分なりに解釈して、その教えを身体に入れて行った気がする。

また、人に伝える力やユーモアを交えながら話す力がなんとなく欲しくて、人気お笑い番組のトーク番組を中心にかなり見漁っていた。私の中では、明石家さんまさん、ダウンタウン松本人志さん、島田紳助さん、のフリートーク番組は、かなり深夜まで起きていて見ていた。人がどうやったら笑うのか?惹かれるのか?楽しませることができるのか?を日々研究しながら番組を楽しみに見ていた。

純粋な気持ちの目標や気持ちを保つために、アニメ番組も結構見ていた気がする。弟との歳の差も10歳あるというのもあって、テニスの王子様やヒカルの碁、キン肉マンⅡ世など。純粋に少年がひたむきに目標に向かうアニメ系が大好きだった。この時期、スラムダンクのアニメも漫画も相当見まくっていた気がする。安西先生が心の教師だった(笑)こ教訓は自分の人生にかなり生きているし、今でも大好きです(笑)


ありのまま受け入れなさい。

デイサービスに通い始め、株のトレードを始め、ネットサーフィンに依存しつつ、現実逃避しながら、テレビ番組を見る毎日。いつも苛立つ自分からは逃げられなかったが、いつか将来この生活から出せれるような妙な自信はなぜかあった。だが、一向に変化がないし、逃げられないし、逃げようともしなかった。それは、母の呪縛からは、自分でも好んで離れようとしなかったし、言えなかったし、逃げられなかった。

自分の事故のせいで、日々、母は、将来の期待していた私でなく、何もできない私を見るのはさぞ苦しかっただろう。そして毎日世話をするなんて、悲しみを通り越して、地獄としか言いようがない。だが、母は、文句ひとつ言わなかった、ただ、私に「治れ!立て!」とだけ叱咤激励を毎日していた母だったが、昔から苦労したのに、こんな結末が待っていたなんて、、、私には申し訳なくて、何もできなかった。祖父母に嫌味を言われ、ぞんざいに扱われている姿を私はずっと見ていることしかできなかった。

できるといえば、祖父母の機嫌をとるぐらいだった。考えてみたらそれを幼少期から、長男としてそれは、やっていたことかもしれない。それが長男である私の役目だと思っていた。役目を自ら背負っていた。本当は家族みんなで仲良く、笑顔が見たかっただけだったのに、、、いつからこうなってしまったのだろう。私の幼少期からの、本当の望みは叶えられることなく、儚くいつも現実は消え去ってゆく、無情な日々が待っていた。

そんな時にテレビから、細木数子さんが言い放った一言がある。何もできない私だが、その言葉がなぜか入ってきた記憶がある。その言葉は「ありのまま受け入れなさい」という言葉。私に衝撃が走った。一見シンプルで簡単そうだが、私は一番難しいとかも?感じてしまった。でも何もできない私が、一歩前に進めるとしたら、ありのまま受け入れることかもしれない。と、思い直しその言葉と真剣に向き合った。

その時初めて、「障がい者である自分」「手足が動かない自分」「収入がない自分」「母や家族に依存してる自分」「パソコンやテレビで現実逃避してる自分」「だけれど、、、将来は治っている。変わっている。昔は違った。」などの言い訳的な語尾を一切封じてみた。言い訳的な思考は一切止めて、ただ今の事実だけを見つめようと試みた。その時気がついた。私は全く今の自分の姿や状況を正面から見ることなく逃げていたことに。その時思った。もう逃げるのはやめて、事実を客観的に見て受け入れてみよう。と、、、今、それが私にできる最大限のことだった。


バーチャルな人のぬくもり。

それ以降なんとなく、苛立ちや日中夜の逆転生活。母と喧嘩する日々が、なんとなく少なくなっていった気がする。状況は何も変わらなかったが、少しは母を大事にしようだとか、お世話になってる祖父母にも感謝しようだとか、兄弟にも助けてもらっていて感謝しよう。そういう思いが少し芽生えて行ったもしれない。

だが、依然としてテレビとパソコン依存の現実逃避は変わらなかった。パソコンの技術も色々進化しながら、インターネットを割と器用に使えるようになった。そんなある日、あまりにも暇でネットサーフィンも飽きてきた頃に、とある掲示板やチャット機能を見つけた。今のネットの世界はこうやって人と交流できることまで出来るのかと、感心しながら恐る恐る書き込みを見るようになっていった。

そこには、たくさんの社会人の方がサラリーマン、OL、主婦、フリーター、ニート、、、様々な人が掲示板に書き込み、チャットルームというところでリアルタイムで、会話ができる部屋で昼間っから入室し、雑談を繰り広げていた。世の中こんなに仕事をしないで、インターネットに入り込んでいる人達がたくさんいるのか、、、と感心しつつも、私だけでなく、満たされないで、ネットの中で顔や名前を見せることなく、匿名で交流の時間を過ごしている人たちがいることを初めて知った。

私にとっては、交通事故後は社会人として誰とも交流もなく、社会との接点もないし、いわゆる一般の人たちが何を考えているか?という情報に触れることがなかったので、かなり新鮮だった。また名前や姿形を隠せるということで、相手は私が障がい者ということを知らなくて済むので、相手に気を使わせること、差別や偏見を持たれずして、コミュニケーションをパソコンの中バーチャルではあるが、できることにコンピューター相手でなく、素直に人と繋がってる感覚を得られた。

バーチャルの繋がりは、あまり好きではく、抵抗があったが、一人でパソコン相手に黙々と取り組むだけでなく、バーチャルであるがその奥のリアルな人との交流は、私にとってとひとりの孤独感を解消してくれた。次第に引きこもりではあるが、私はバーチャルの人との関わりを体験するようになり、交流するようになっていった。

【#6】へ続く…

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