彼は、営業として働き始めてまだ二年だった。
どちらかと言えば不器用で、言葉を選ぶのも遅くて、
商談の場でうまく話せないことも多かった。
それでも、彼には一つだけ誰にも負けないことがあった。
「相手の話を最後まで聞く」ということだ。
ある店に、彼が特に気にかけている女性の店主がいた。
年齢はもう70に近く、店は家族でやっているわけでもなく、
一人で切り盛りしていた。
彼が訪ねると、店主はいつも少し照れたように笑って迎えた。
「あなた、話を聞くのが上手ねぇ」
そう言って、売場の悩みをぽつぽつと話してくれた。
ある日、彼が店に行くと、店主はいつものように笑って迎えた。
ただ、その日は少しだけ、息が浅かった。
「最近ね、体が思うように動かなくてね」
店主は、売場の奥の椅子にゆっくり腰を下ろした。
彼は心配になったが、店主は手を振って言った。
「大丈夫よ。まだ店は続けるから」
その言葉を信じた。
それから数週間後、彼が店を訪ねると、シャッターが閉まっていた。
貼り紙が一枚だけあった。
「しばらく休業します」
胸がざわついた。
嫌な予感がした。
翌週、彼はもう一度店に行った。
シャッターは開かなかった。
その日の夜、彼の携帯に一本の電話が入った。
店主の親族からだった。
「母が亡くなりました。
あなたのことを、最後まで話していました。
“あの人はね、私の話をちゃんと聞いてくれるのよ”って。
あなたに、ありがとうと伝えてほしいと言っていました。」
彼は言葉が出なかった。
電話を握る手が震えた。
店主は、最後に「ありがとう」と言おうとしていた。
でも、その声は彼に届かなかった。
翌日、彼は店の前に立った。
シャッターは静かで、風の音だけが聞こえた。
彼はゆっくりと頭を下げた。
声にならなかった「ありがとう」を、胸の奥で受け取った。
その日、彼は決めた。
「話を聞くことを、絶対にやめない」
誰かの最後の言葉を、もう二度と受け取れなくなるのが怖かったからだ。
涙は、気づいたら止まらなくなっていた。
店主の声はもう聞こえないのに、
胸の奥ではずっと響いていた。
「ありがとうね」