沈む、という言葉を使っても、もう大袈裟ではないと思っている。
人材は足りず、インフラは老朽化し、地方は空きはじめている。財政は高齢化に引かれ、実質賃金は長く上がらない。一つ一つは、ずっと前から指摘されてきたことだ。目新しい話は何もない。にもかかわらず状況が変わらないのは、これらが個別の不具合ではなく、互いに噛み合った一つの構造だからである。
私が2010年頃から産業創造に関わってきたのも、このままでは日本は沈むと考えたからだった。当時それを口にすると悲観的すぎると言われたが、見立ては残念ながら、おおむね当たってしまった。
ただ、危機感そのものには何の力もない。
多くの人は、この感覚を持て余している。そして持て余した末に、たいてい二つのどちらかに落ちる。政治が悪い、と誰かを責めるか。自分にできることはない、と黙るか。
どちらも、思考ではない。
感じているものを、構造に変換できていないだけだ。そして構造に変換されない危機感は、不安のまま澱んでいく。焦りだけが残り、判断は雑になる。
だから今日は、その変換の作業を一つ、実際にやってみたい。
まず、平面を詰める
たとえば財政。
近い時点の政府予算で、一般会計は115兆円規模。うち社会保障関係費が38兆円規模にのぼる。国家の支出が、高齢化と社会保障に強く引っ張られている構造だ。
医療費も同じである。国民医療費のうち、65歳以上が占める割合は約60.2%。偏りは明らかに大きい。
ここまでは、誰でも数字を並べられる。そして多くの議論は、ここから「では、医療費を削ろう」「自己負担割合を見直そう」「制度を改革しよう」へ進む。
論理としては正しい。だが、これでは何も考えたことにならない。
シェアが下がっているから、シェアを上げよう。——これと同じ構造だからだ。問題の記述を裏返しただけで、そこには一歩の前進もない。
「なぜ」を差し込む
そこで問いを差し込む。なぜ、医療費はこの形で膨らむのか。
昔の医療は、外傷や急性疾患への対処が中心だった。骨が折れた、感染症にかかった。原因が特定でき、処置すれば治る。医療とは本来そういうものだった。
だが今は違う。中心にあるのは慢性疾患だ。原因は複合的で、生活習慣、環境、人間関係、労働の質——いくつもの要因が絡み合う。一つの診療科では、そもそも捉えきれない。
にもかかわらず、医療の組織は専門分化したままだ。専門化された医師が自分の領域だけを診断し、その領域に対する処方箋しか出せない。対症療法として薬を大量に出す。それで根本が解決するはずがない。
ここで、話の軸が移る。
医療費の問題は、お金の問題ではなかった。急性疾患の時代に最適化された組織構造を、慢性疾患の時代に使い続けている——という設計の問題だったのだ。
本来必要なのは、未病段階でのトラッキング、生活習慣の設計、運動、家族や地域を含めた支援、データサイエンスによる全体最適である。ここを見ずに制度だけをいじっても、問題は解けない。
位相が変わる、ということ
もう一段だけ掘ってみる。ではなぜ、その全体最適が行われないのか。
答えははっきりしている。問題の構造が横串なのに、組織の構造が縦割りだからだ。
医療の問題ひとつ取っても、厚生労働省だけの管轄では解決しない。地域の問題があり、財政の問題があり、産業の問題が絡む。それらが横に貫いているのに、官庁は縦に割れている。だから構造的に解けない。
官僚にも政治家にも、個々には優秀な人がたくさんいる。能力の問題ではない。構造の問題だ。
そして、これが今日いちばん言いたいことである。
論理は必要だ。数字を切り、構造を与え、ボトルネックを特定する。それは思考の土台だ。だが——本質は、論理の延長線上には現れない。
平面を詰めきったあとに「なぜ」を差し込む。すると別の軸が立ち上がる。医療費という平面が、組織設計という軸に移り、さらに縦割りと横串の矛盾という軸に移る。この角度の変化を何度か繰り返したとき、ようやく本質らしきものが見えてくる。
論理を詰めた先に、本質はない。論理を詰めきった地点から、位相を変えたときにだけ、本質は姿を現す。
AIは平面を詰める。だが、位相は変えない
いま起きていることを、この言葉で捉え直したい。
私は世界を七つの次元で見ている。1次元は数字とお金、2次元は論理と構造、3次元は身体と空間、4次元は概念と倫理、5次元は自分だけの道、6次元は一体性、7次元は空。
AIはすでに1〜3次元を深く侵食し、4次元にも踏み込みつつある。とりわけ2次元——論理の平面を詰める作業は、圧倒的に速い。医療費の内訳を分解し、高齢者の比率を特定するところまでなら、いまや数分で出る。
だが、あの分析で価値があったのは、60.2%という数字に辿り着いたことだろうか。
違う。平面を詰めきった地点で「なぜ」を差し込み、軸を組織構造へ、さらに縦割りの矛盾へと移した、あの角度の変化だ。
因果という考え方は、実はかなり人間に固有のものだと私は思っている。横の広がりを大量に計算し、相関を見出すことはAIが強い。しかし、何が原因で何が結果か、どちらが先に来るのかという時間軸に沿った縦の理解は、相関の発見とはまったく別のメカニズムである。
制度の外からでも、構造は見られる
この国は長いこと、エリートを潰してきた。ここでいうエリートとは、学歴の話ではない。社会全体を引き受ける志と能力を持った少数の層のことだ。武士階級でも、インドのクシャトリアでも、ヨーロッパの騎士階級でもいい。名前は何でもいい。だが、それがいない社会は持続しない。
では、その層はどこから生まれるのか。
私は、必ずしも霞が関や永田町の内側からではないと思っている。むしろ縦割りの内側にいる限り、横串で見ることは構造的に難しい。
必要なのは、制度の外からでも構造を見て、本質を突き、必要なら仮説を投げ、場合によっては社会実装まで持っていく人間だ。私はそれを思考家と呼んでいる。肩書きではない。生き方の話だ。
そして重要なのは、これがセンスではないということである。
古文をセンスで読める生徒がいても、良い教師は「センスで読むな、文法を一つずつ押さえろ」と言う。思考も同じだ。分析・論理・統合・想像という四つの筋肉を、一つずつ積み上げた先にしか、洞察はない。
考えるとは、身体技法である
最近いよいよ強く思うのは、「考えろ」という指示は雑すぎるということだ。
「走れ」と言われても、走れるようにはならない。腸腰筋を使え、骨盤を立てろ、足裏で押せ——そう言われて初めて身体は変わる。
思考も同じではないか。分析しているとき、統合しているとき、直感が働くとき。使っている脳のモードは明らかに違う。大脳新皮質、大脳辺縁系、小脳。考えるとは、意識の焦点を身体のどこにどう当てるかという技法なのではないか。
以前、文明とは外部化の歴史であり、その果てに残るのは身体という3.5次元だと書いた。あれは抽象論ではない。論理をAIに明け渡したあとに残る思考とは、極めて身体的な営みだ、という話でもある。
大脳辺縁系のざわめきから、構造へ。その移動は、鍛えられる。
反復の先にしか、宿らないもの
とはいえ、この「位相を変える」という動作は、話を聞いて理解できるものではない。
私はこれまで、広告代理店や銀行、大企業の幹部候補に、思考力の話を何度もしてきた。だが、そのほとんどは一期一会だった。呼ばれて行き、一日か二日の研修をして、少しフィードバックをして終わる。そして現場に戻れば、皆すぐに自社の商品や案件や営業数字に引き戻されていく。結局、アプリケーションだけで仕事をする人間に戻ってしまう。
それでは身につかない。何度も自分で構造を切り、崩され、また組み直す。その反復の先にしか、あの感覚は宿らないからだ。
私はそれを、ロジックの絶対音感のようなものだと思っている。一度身につけば、粒度のずれや論点の重複が、不協和音として聞こえるようになる。逆に言えば、耳ができるまでは何度でも外し続ける。だから本来は、一人ひとりに対して細かく返したい。ただ、時間がそれを許さない。
そこで、せめてその入口だけでも残しておきたいと考えた。それが「山口道場」である。第1弾は構造化思考編、全4回・約8時間。見て終わる教材ではなく、何度でも立ち返る場として作った。講座ではなく道場と名づけたのは、そういう理由による。
山口道場 第1弾|構造化思考編https://dojo.bluemarl.in
もっとも、ここに来ることが目的ではない。
大事なのは、あなたが今いる持ち場で、目の前の問題を一度きちんと構造に切ってみることだ。数字を置き、平面を詰めきり、そこで一度だけ「なぜ」と差し込んでみる。それは今日からできるし、誰の許可も要らない。
そうやって構造を切れる人が一人ずつ増えることでしか、社会の解像度は上がらない。制度を待っていても、誰かが降ってくることもない。
答えが安くなる時代に、問いを立てる力を養ってほしい。