AIが社会のあらゆる場面に浸透しつつある現代。私は「考えること」を専門とする職人として生きてきました。その職人技が、このままでは途絶えてしまうのではないか。人間の思考力が細っていく未来を、座して待つことはできません。
今日は、いつか自分がこの世からいなくなるかもしれないという覚悟のもと、私がこれまで培ってきた思考の「ベーシック」を皆さんと共有する場です。それは、一部の「センスがある人」だけが持つ特殊能力ではありません。それはまるで楽器の演奏における「絶対音感」のように、繰り返し丁寧にフィードバックを受け、実践することで誰もが習得できる技術です。私はそれを「ロジックネイティブ」――ロジックを母国語のように操れる状態――と呼んでいます。この本が、その「絶対音感」を皆さんに身につけてもらうための一助となれば、これに勝る喜びはありません。
本書では、AIがどこまで人間の領域に踏み込み、私たちはどこに活路を見出すべきか、という根源的な問いについて、思考を深めていきたいと思います。さあ、思考の冒険に出かけましょう。ページをめくるたびに、君の世界の見え方は変わっていくはずです。
●プロローグ AIの時代に「考える」ということ
失われたエリート、さまよう社会
現代の日本社会を考えるとき、私はひとつの大きな不在に気づきます。それは「エリート」の不在です。かつて、この国には武士階級に代表される、社会に対する責任感と志を持つエリート層が存在しました。戦後、新たなエリート層を育てようという試みはありましたが、いつしか日本はエリートを不要なものとして、むしろ潰す方向へと進んできてしまいました。
では、現代において官僚がその役割を担っているのでしょうか。残念ながら、個々の官僚は優秀であっても、彼らが属する官僚システムそのものが、戦後80年の時を経て硬直し、形骸化してしまっています。例えば、医療システムの問題は厚生労働省だけで解決できる話ではありません。地域の事情、財務省が管轄する国家財政、経済産業省が関わる産業構造など、複数の要因が複雑に絡み合っています。問題の構造が「横串」であるのに対し、省庁は「縦割り」の組織。このミスマッチが、問題解決を著しく困難にしているのです。
このような社会状況の中で、私は皆さんに、これからの社会的な価値を創造する担い手になってほしいと、切に願っています。そのためには、何よりもまず「自分の頭で考える」ことが不可欠です。
AIがもたらしたキャリアの断絶
AIの進化は凄まじく、私たちの働き方を根底から変えようとしています。かつて、新人が最初に任された情報収集や資料作成といった仕事は、今やAIが一瞬でこなしてしまいます。キャリアの梯子の最初の数段が、ごっそりと抜け落ちてしまったのです。
これは、皆さんが社会に出た瞬間から、マネージャーレベルの「責任」を伴う仕事をせざるを得ない状況に置かれていることを意味します。皆さんは、21世紀の、令和の働き方を自ら「発明」する世代になるでしょう。
では、AI時代に人間に残される仕事とは何でしょうか。2026年3月現在、私はその核心が四つの要素にあると考えています。
1. 洞察(Insight)
2. 判断(Judgment)
3. 監理(Administration)
4. 責任(Responsibility)
特に重要なのが「洞察」です。それはデータや事実を積み重ねた先にある、言語化が難しい「これは本質をついている」という感覚。天賦の「センス」だけで得られるものではなく、地道な分析や統合を繰り返す中で磨かれていく能力なのです。そして「判断」「監理」「責任」。これらはまさに、これからの皆さんに求められる役割です。
●情緒の知性を取り戻せ
AIの進化を考えるとき、私は人間の脳の構造に思いを馳せます。計算や認知を司る大脳新皮質の領域は、AIが得意とする分野です。しかし、まだ破られていない奥深い領域があります。それが、恐怖や喜びといった「情緒」が生まれ、愛や思いやりといった人間的な感情を司る大脳辺縁系、いわば「古い脳」です。
AIが論理と計算の世界の覇者であるならば、私たちはこの情緒の知性、人間だけが持つ「旧知性」とも呼ぶべき領域にこそ、活路を見出すべきです。
先ほど述べた「洞察」とは、まさにこの情緒の知性を活用したものです。「ロゴス(論理)」と「パトス(情念・情緒)」を統合し、「なんとなく、これが最善だ」という解を見つけ出す営み。AIにはまだ届かない、この人間的な深みのある知性こそが、これからの時代を生き抜くための最も強力な武器となるのです。
●第一章 世界を捉える7つの次元
人間ができること、そしてAIに代替されていく領域を理解するために、私は世界を7つの価値レイヤー(次元)で整理しています。
- 1次元:点と線――数字の世界
「お金」や「数字」といった数量化可能な世界です。
- 2次元:論理と平面――フレームワークの世界
物事を構造的に捉え、平面的な図式で理解する力です。
- 3次元:立体と身体――フィジカルの世界
物理的な身体や立体構造の世界です。
この1次元から3次元までの世界は、すでにAIによる侵食が著しく進んでいます。現代のフィジカルAIはディープラーニングによって自ら学習し、物理的な身体さえも自在に操る時代がすぐそこまで来ています。
- 4次元:精神と概念――人間が獲得した共通認識
「倫理」「価値」「道徳」といった、手で触れることのできない抽象的な概念の世界です。しかしAIは、この4次元の領域にさえも、いずれ踏み込んでくるでしょう。
- 5次元:個人の道――「最適化」を超えて
ここからが、人間にとって極めて重要な領域です。4次元が「共通の概念」であったのに対し、5次元は「固有の概念」、つまり「自分だけの道」を指します。AIが得意とするのは「最適化」ですが、5次元の世界は「非最適化」。効率や合理性だけでは測れない、一人ひとりの内なる価値意識やミッションに基づいています。AI時代を生き抜くためには、この「自分だけの周波数」を早く見つけ、その道で生きることが鍵となります。
- 6次元:一体性――自己を超えた「愛」
キリスト教でいう「アガペー(無償の愛)」や、仏教でいう「慈悲」に近い概念です。自分と他者、自分と世界との境界が溶け合い、全体と一つになる感覚です。
- 7次元:空――宇宙以前の根源
東洋思想に見られる「空(くう)」の世界。すべての始まりである宇宙、そのさらに以前にある根源的な領域です。
結論から言えば、AIが6次元の「愛」を理解するようになるのは、まだずっと先のことでしょう。私たちが本当に向き合うべきは、「人間とは何か」という根源的な問いです。そして、その答えを探す旅に出るために、どうしても欠かせないのが2次元の能力、すなわち「構造化」と「言語化」の力です。物事を構造的に捉え、的確な言葉で表現する。この思考の「型」を極めた者だけが、その先の次元へと進むことができるのです。
●第二章 思考のOSをインストールせよ
なぜ、あなたの思考は空回りするのか
「シェアが下がっています」という報告に対し、多くの人は「新製品を開発しよう」「広告を強化しよう」といった「打ち手」から考え始めます。しかし、それでは思考の「深さ」が足りません。
「シェアが下がっている」という現象を、もっと深く、具体的に見ていく必要があります。これが「解像度を上げる」ということです。
「シェアが下がっている」
→「『地方』でシェアが下がっている」
→「なぜなら、販売力が『都市部』に集中しているからだ」
→「しかし、優秀なセールスマンは地方に行きたがらない」
→「なぜなら、地方では生産性が低く、十分な手当が得られないからだ」
ここまで解像度が上がると、「地方に行くインセンティブを増やす」「地方は代理店に任せる」など、具体的な選択肢が見えてきます。表面的な現象だけを見て「シェアを上げろ」と号令をかけるのとでは、結果は大きく異なります。
「思考のOS」をアップデートする
多くの人は、何か問題に直面した時、まず手当たり次第に情報を集めようとします。しかし、本当に必要なのは、まず自分の頭を使うことです。
1. 論点整理: そもそも、解決すべき「目的」と「論点(課題)」は何かを明確にする。
2. 構造化: 論点を整理・分類し、全体の構造を把握する。
3. 仮説構築: 各論点に対して、「たぶん、答えはこうではないか?」という仮説を立てる。
4. 検証: 仮説が正しいか、事実(ファクト)に基づいて検証する。
5. 判断・実行: 検証結果をもとに最終的な判断を下し、行動に移す。
情報を集めるのは、あくまで仮説を検証する段階です。この「思考のOS」とも言えるプロセスを、徹底的に体に叩き込んでほしいのです。このOSがなければ、本質を見抜く力や高度なコミュニケーション能力は身につきません。
思考の体力を鍛えるということ
思考とは、脳に当てに行く作業です。「分析→統合→論理→創造」というサイクルを、渦巻きのようにぐるぐると回し続ける。この一連のプロセスを粘り強く続けられる力、それこそが「思考の体力」です。
では、具体的な訓練方法として、皆さんに宿題を出します。
【宿題】「車の購入」を検討する際の論点を整理し、構造化してください。
「車を買おう」と思った時、あなたなら何をチェックしますか?値段、デザイン、燃費、安全性……。思いつくままに挙げればきりがありません。どのようなチェック項目を、どのような構造で整理すれば、漏れなくダブりなく、効率的に意思決定ができるのか。その「思考の地図」を、できればロジックツリーで作成してください。
かつて『ベスト・キッド』という映画で、師匠が弟子にひたすらワックスがけを命じる場面がありました。地味な反復練習こそが、空手の型そのものだったのです。この「思考の構造化」も全く同じで、あらゆる知的生産活動の根幹をなすOSです。この地味な訓練をやり抜くことができれば、あなたの思考は根底から変わるはずです。
●第三章 【ケーススタディ】赤坂見附の駅ビルを再建せよ
プロジェクト・ベルビー
2026年3月6日、都内某所の会議室。様々なビジネスパーソンを前に、一つの課題が提示されました。
【課題】
駅直結の商業ビル「ベルビー赤坂」は、40のテナントが入居し、売上に応じた変動賃料を得ているが、業績は低迷し続けている。新しいマネージャーとして、施設の利益を上げるために、あなたはまず「どのような分析」を行い、「なぜその分析が必要なのか」を考える。
制限時間は10分。参加者たちは、問題の核心へと迫っていきました。
問題はどこにあるのか?
プロの思考は、まず問題の構造を分解することから始まります。ここで用いるのが「文系的因数分解」です。
「ベルビー赤坂」の売上を因数分解してみましょう。
- ビル全体の入館者数 = 赤坂見附駅の乗降客数 × 入館率
- テナントへの訪問者数 = ビル全体の入館者数 × テナントへの訪問率
- 購買客数 = テナントへの訪問者数 × 購買率
- テナントの売上 = 購買客数 × 客単価
- テナント賃料の総計 = 各テナントの売上 × 賃料率
このように、売上という大きなテーマを、駅の乗降客数という最も根源的な要素まで分解することができました。実際のデータを当てはめていくと、驚くべき事実が見えてきます。
客単価や購買率はそれほど悪くない。問題の核心は、そもそも「ビル全体の入館者数」が減少していることにありました。赤坂見附駅の乗降客数は1日約340万人にも上るのに、ビルに入館するのはわずか23万人。実に15人に1人しかビルに足を踏み入れていない計算になります。
我々が取り組むべき真の課題は、「個々のテナントの魅力向上」ではなく、「駅を利用する膨大な人々を、いかにしてビルの中に引き込むか」という、もっと根本的な問題だったのです。
なぜ顧客は素通りするのか?――ミスマッチの構造
「15人に1人しか入らない」――この数字は、ビルが持つ魅力と、駅利用者のニーズとの間に深刻なミスマッチが存在することを示唆しています。
当時の「ベルビー赤坂」は、近隣で働くOLをメインターゲットに、アパレルやレストランなどを中心に構成していました。しかし、赤坂見附駅の利用者の大半は、次の目的地へ急ぐ「乗り換え客」です。ビル側は「おしゃれな空間」を提供しようとしていましたが、目の前を通り過ぎる人々は「乗り換えの合間に素早く利用できる何か」を求めていたのかもしれません。
解決策の立案――時間軸で顧客ニーズを捉え直す
課題が「乗り換え客のクイックなニーズに応えられていないこと」だと明確になった今、私たちは全く新しい視点から解決策を模索しました。従来の「OL向け」といった切り口を捨て、顧客の「滞在可能時間」という軸でフロアコンセプトを再構築する、というアイデアが生まれました。
- 5分以内フロア: 駅の改札階に、コンビニやドラッグストア、ファストフードなどを配置。
- 30分以内フロア: カフェや書店などを配置。
- 1時間以上フロア: レストランやサービス店舗を上の階に集約。
このように、顧客の時間意識に合わせてフロア構成を抜本的に変えることで、これまで素通りしていた乗り換え客を新たに取り込む。駅ビルであることの必然性を、最大限に活かす戦略です。
しかし、最終的に下された決断は、さらに大胆なものでした。当時の運営母体は「鉄道のプロ」ではあっても、「商業施設運営のプロ」ではありませんでした。クリエイティブな商業開発を継続的に行っていく組織的能力に限界がある、という自己認識に至り、ビルを丸ごと家電量販店のビックカメラに売却するという、きわめて戦略的な決断を下したのです。
●平面的な分析から、立体的な洞察へ
この事例は、思考のプロセスを如実に示しています。「入館率の低さ」という課題は、構造を分析すれば誰でも気づく平面的な問題です。しかし、私たちはそこで思考を止めず、「なぜそうなっているのか?」という問いを立てました。
その問いを突き詰めていくと、問題の本質が、運営会社のインセンティブ不在や組織文化といった、より根深い構造に起因していることが見えてきました。そして、論理的な分析の先に「事業売却」という、論理の飛躍を伴う「洞察」による解決策が生まれたのです。
分析だけなら誰でもできます。しかし、そこからもう一歩踏み込み、本質を掴むためには、論理を超えた「想像力」による飛躍が必要になります。そのとき、問題の「本質」がおぼろげながら見えてくる。この感覚を一度でも体験できた者だけが、真の「思考家」として成功できるのです。
●第四章 四つの知性を使いこなす
思考のプロセスを、さらに四つの能力に分解してみましょう。
1. 分析力:物事を細かく分解し、ファクトに基づいて解像度を上げていく力。
2. 統合力:分解された要素を再びつなぎ合わせ、全体像や構造を把握する力。
3. 論理力:筋道を立てて考え、矛盾なく説明し、相手を説得する力。
4. 創造力:常識の枠を超え、新しいアイデアや可能性を生み出す力。
人にはそれぞれ得意・不得意があります。分析力は豊かだが、想像力がない人は、分析は正しいが「まあ、そうだよね」という当たり前の結論しか出てきません。逆に、創造力は豊かだが論理力がない人は、アイデアは面白いが現実味に欠け、説得力がありません。
重要なのは、まず「自分がどの力が得意で、どの力が不得意なのかを認識する」ことです。そして、弱点を克服するためのトレーニングを一つひとつこなしていく。そうやって、四つの力をバランスよく身につけていくことが理想です。
●思考と身体のつながり
「考えろ」という漠然とした指示がいかに不親切であるか、私は自身の病気の経験から痛感しました。私は「筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群」という病気を患っており、脳の血流を調べる検査を受けたことで、脳のどの部分が働き、どの部分が動いていないのかが可視化されたのです。
それ以来、私は「考える」とは、「脳の中で意識の焦点を当てる場所を、意図的に変えること」だと考えるようになりました。焦点を当てる場所を変えることで、アウトプットの質も変わってきます。分析的な思考をしている時と、全てを統合して本質を見抜こうとする時では、脳の使い方は全く異なるのです。
優秀な思考家は、自分の脳に意識の焦点を当て、思考を深めます。「考える」という行為も、極めてフィジカルな技術なのです。
●第五章 思考は現実をどう乗り越えるか
「正しさ」だけでは壁は越えられない
深い思考の末に「正解」にたどり着いても、それが上司やクライアントにまったく理解されないことは多々あります。思考の正しさをいくら主張しても意味がありません。なぜなら、問題はロジックの次元にはなく、コミュニケーションの次元にあるからです。
「本質を見抜くこと」と「それを実現すること」は、まったく異なる能力を必要とします。本質的思考がインパクト(成果)を目指すものであるなら、コミュニケーションはフィージビリティ(実現可能性)を目指すものです。
もう一つ重要なのは、相手の「アジェンダ(関心事)」を理解することです。人は論理だけで動くわけではありません。その人の個人的な立場やプライドといった、表には見えない動機を読み解き、それを満たす形で提案を組み替える必要があります。
時間を味方につける思考法
コミュニケーションを尽くしてもなお、壁を越えられないこともあります。そんな時、最後の拠り所となるのが「時間」です。
私の同僚に、上司から「君の言っていることはわからない」と一蹴された際、「10年後にはわかります」と言い放った猛者がいました。本当に価値のある思考は、時間をかけてその正しさが証明されます。私が過去に行った投資の多くが成功しているのは、10年後の未来を自分なりに想定し、そこにお金を投じていただけだからです。
あなたがもし、深い思考の末に導き出した答えに自信があるのなら、焦る必要はありません。コミュニケーションの努力を尽くした上で、あとは時間がすべてを証明してくれるのを待つという選択肢もあるのです。
●終章 四つの季節を生きて――思考家としてのキャリア
私のキャリアは、大きく四つの季節(シーズン)に分けることができます。
最初のキャリアはシーズン1:M&Aのプロフェッショナルから始まりました。しかし私は、M&Aはあくまで目的達成の手段だと捉え、常に「目的は何か」「他の選択肢はないか」と一段高い視点から問い直すことを習慣としていました。この習慣こそが、思考家としての私の原点です。
シーズン2:事業創造と起業では、自ら事業を創り出す世界に飛び込みました。
シーズン3:産業創造という挑戦では、日本の未来に対する強い問題意識から、新たな産業を創造することで立ち向かおうと決意しました。創業期に関わったispaceは、後に日本に宇宙開発という新たな産業を根付かせる旗印となりました。
そして今、私はシーズン4:国家システムの再構築を生きています。医療、社会保障、経済成長――。時代ごとに最も根源的な問題は何かを見極め、その解決のために自らの知識、ネットワーク、資金を投じて、社会に実装していく。それが、今の私の仕事です。
皆さんも、これから様々な道に進むでしょう。しかし、どんな専門分野に進んだとしても、その根底には「考える力」が必要です。この社会が抱える課題に対し、自分なりの価値を創造していく。そのための力を、この本で共に磨いていけたらと願っています。
山口道場 第一回 書き下ろしより
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