幸せとは
皆さんにとっての”幸せ”とは何でしょうか。
私にとっての”幸せ”とは…といっても明確に言葉にできるわけではないのですが、
「心の内側からじんわりと広がってくる感覚」
のことであると捉えています。
感覚を言葉にすることは非常に難しいです。
しかし、どういう時に感じている感覚かというのはハッキリしています。
それは「人のために行動した時」です。
”幸せ”というのは相手のことを想い、行動した時にのみ感じる心の充足を指すと考えます。
目指すべきは知行合一(純度100%の善と行動)です。
しかし、私は最初からこれをできる人間はいないと思っています。
ゆえにそれが例え偽善であろうとまずは行動すべきであるとも考えます。
行動を起こす中で善の尊さに気付き、善の純度が上がっていきます。
また、一方でどんなに相手のことを想っている人がいたとしても、行動に起こさなければ、”幸せ”を得るには至らないとも考えています。
皆さんも経験としてあるのではないでしょうか。
例えば、親御さんの誕生日や兄弟の誕生日にプレゼントを用意しているとき、幼いながらに
「来月のお小遣い上がる」とか「周りから褒められる」とか
若干の利己心に突き動かされたこともきっとあるはずです。
それでも周りの人は大いに喜んでくれて、自分もなんだか嬉しくて
「やってよかったな」「次もやろう!」
と思ったはずです。
そうして気づけば、人のために何かをすることから利己心が消え、利他心を抱き、人のために行動できる知行合一を実現するのです。
ゆえに私は社員にまずは行動すること、を強く話しています。
悲しいことに、事実として、他人というのはどこまで行っても自分ではありません。
それは「想っているだけでは届かない」ということです。
どんな想いも行動して初めて、かたどられ、周りに認識されます。
これは仕事においても同様です。
あまりに想いを饒舌に語りすぎてしまうと行動が追い付かず、「口だけの人」になってしまいます。
この状態は非常に危険です。協力者がいないため、抜け出すにも時間はかかります。
チャレンジは大いにして欲しいですが、力相応でやり切るという視点も忘れないでおきたいものですね。
若干話は逸れましたが、私が社員にまず「行動すること」を伝えているのはもう一つの理由があります。
それは人というのは自分が恵まれている、与えられていることに気づいておらず、自分が与える側に回るまで、その”幸せ”に気づくことができないからです。
もちろんこれまでの人生の経験で、人からの好意や善意を感じ取ることができ、”幸せ”を実感できる人はいますが、ほんの一握りです。
その例えとして
「人は幸せの海を泳いでいる」
と表現されることがあります。
魚は海を泳いでいるときに「ああ、自分は塩水の中を泳いでいるな」と感じることはありません。
それは当然で、生まれたときから「その環境が当たり前で、他の環境を知らないから」です。魚はきっと釣られたときに初めて気づくでしょう。
「今まで塩水の中にいたんだな。空気にさらされることは辛いことだ。今まで恵まれていたな」
と
人は常に”幸せ”に包まれているにも関わらず、そこに気付けていません。
それを解決する方法は二つ
・自ら行動すること
・厳しい環境におかれること
です。
いずれも自分の現在の環境を見つめなおすことが出来、そのことで今までの恵まれた環境に気付き、心から感謝をした時、”幸せ”を実感します。
”幸せ”とは新たに発生する何かではなく、そこにあることに気付くことです。
一方で今までは”当たり前”と捉えていたことにも気付きます。
”当たり前”とは”幸せ”と最も遠い感情です。
さて、もう一つ”幸せ”についてお話をします。
それは”満足”との対比における”幸せ”という捉え方です。
簡単に”幸せ”と”満足”の定義を比較してみます。
このように”幸せ”と”満足”は異なる点が多いです。
私の感覚では「味の濃いラーメン」と「オーガニック野菜を使ったソテー」のような差があります。
(瞬間的には美味しいが、健康には良くない、旨味をしっかりと感じ、健康にも良い)
もちろん得るのは”幸せ”の方が難しいと思います。
目には見えないということと、
”前にはない”
ということです。
後ろを振り返った時に「ああ、あれが”幸せ”だったのか」となるからです。
がむしゃらに、結果を追い求める中での工夫や葛藤、仲間との衝突…それでも同じ方向を向いて、本気で良くしたいと思い、進んでいた。
このプロセスこそが”幸せ”なのです。
これは決して結果はどちらでもよいということではありません。
結果に対しての責任、本気さがあるからこそ、この道は光るのです。
この道が光るにはあと二つ条件があります。
それは
・信じられる仲間
・共通した強い目標
です。