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競争の先にある充実へ。やらされ仕事はするな。

全国制覇を目指してようやく一国の主になれる

香川県は西の端にある観音寺市。芸術(絵画、小説、映画、ロックバンド)と砂絵が有名な港町。

土曜の昼はどん兵衛か冷凍ピラフ。そんな質素な家庭に育った私は、とにかく野心がすごかった。

実家の玄関のスライドドアは、日本昔ばなしに出てくるドアのように木の棒でつい立てられていた。(鍵が壊れていたのだ...!)もちろん自分専用の部屋などあるわけもなく、風呂は一人入るのがやっとの大きさだった。いつかは家を買ってやる、好きなものを気にせず買う、そう思っていた。

小学生3年生のとき、NHK大河ドラマ『毛利元就』を観ていたらこんなセリフがあった。

「最初から一国の主になろうと思うては何にもなれぬ」

中国地方を制覇した元就は、全国制覇をしようとしてやっと中国地方を制覇しその一生を終えた。

その言葉に衝撃を受け、”東京に行ってひと旗あげる”。この精神が大学卒業まで続いたのだから、相当強い気持ちだったのだろう。(実際は学校の近くに住んでいたおかげで常に友達が家にいる、幸せな毎日ではあった)

大学では姉と同居するということを条件に、大阪の大学に通った。(お金はないので、入試の成績が上位200人以内に入るともらえる1年間学費無料の権利を手に入れての入学だった)

マスコミにどっぷり浸かる大学3年間

本当は、幼少期からアナウンサーになりたくて(父親が”まりこさん”と呼んで愛していた瀬戸内海放送の看板アナに憧れてのことだった)、何十倍もの倍率がある関西大学のマスコミ選考に入学したのだが、学んでいくうちにまたここでも”自我”が出てくるのである。

アナウンサーは当然、決められた原稿通りに話さなくてはならないが、自分の表現や考えを発言したいなら違うのではないか?大学在学中に考えが変わってきてしまった。

関西大学マスコミ専攻では、2年次から本気でマスコミを目指す学生のためのJP(ジャーナリスト養成プログラム)というのがある。JPに合格してからは、現役の新聞記者の先生に毎日社説を書かされ、夏になると奈良県明日香村の合宿所に缶詰めにされ、ドラマを撮影し続けるという鬼の日々が始まった。

JPの先輩や同期にはテレビ局や共同通信などマスコミに就職する人ばかりだったが、就職活動の際、これまた私の野心をくすぐってくる企業を知ってしまう。

「君にこの難題が解決できるか」

ワークスアプリケーションズという、業務基幹パッケージ『COMPANY』を開発・販売する会社のインターン募集のページが目に止まった。

当時、働きがいのある会社ランキング1位を独走し、インターンに日給1万円を支払い、インターンを突破した人には2年間いつでも入社できる”入社パス”(確かAパスは3年だった)を発行するというぶっ飛んだ会社だった。(2009年の当時はインターンの開催自体も珍しく、日給を支払う会社などなかった)

会社のためにやるな、自分のためにやれ

ワークスアプリケーションズはとことん奇抜で先をゆく会社だった。面接もなければ履歴書はインターン時に出したプロフィールのみ。インターンでパスを取得し、ロジカルシンキングテストで偏差値70を超していれば、会社が欲しい問題解決能力を備えた人材だ、と認めるというのだ。

入社後の研修は新卒社員を一部屋に300人詰め込み、成績で席の順番が変わるので自分にも他人にも自分の成績は丸見え。「不動産業務を解決するシステムをつくれ」とだけ書かれた紙を渡され、インターネット環境なし、支給される参考書もなしの状態でプログラミングがスタートする。

教え合い禁止、教え合いをしている人間がいたら人事にチクること。締切は2週間ごとにやってくる。業務自体も知らない状態で機能を考え自分で作っていく。不具合が悪い、操作性が悪いなどの理由で不合格が3回続くと、入社しているはずなのに社員にはなれないのである。なんという過酷な環境。実際に300人中10人はトレーニーという社員になれなかった人のレッテルを貼られた。

私のキャリアにもっとも影響を与えたのは、この会社の牧野代表だ。

日本のROIを最大限に高める、をビジョンとした企業で、3.11の地震が起きたときは、翌日に「お前らが手を止めると日本経済が終わる、働け」とHIROTAのシュークリームを5,000人に配り、泣く泣く働いたのを覚えている。

会社のためにやるな、自分の(成長の)ためにやれ、牧野代表のこの言葉のせいで、成長意欲が異様に高い社会不適合な大人が誕生することになる。

ワークスの仕事は、とにかく業務難易度が高かった。何時間あっても足りなかった。

ド文系であろうが、業務素人だろうが、システムについても業務についても理解した上で効率化をしていかなければならない。配属はドラフト会議で決まる(自分の取り柄は「体が丈夫なことです」と言ったら、一番辛い開発部門の一番忍耐力の必要なQA(品質管理)に配属されてしまった)。

コンサルが良かったのに、と思いながらやったQAのおかげで今は開発とも話ができるし、ソフトウェアからWEBに変わったが今の仕事はできていないな、と感じるので、キャリアパスは不思議なものである。

マスコミにいきたかった私が、WEBマーケティングという、伝えるということとITの組み合わせたる職種で起業しているのだから。

コロナ前に起業、新潟という地との出会い

ワークスを6年半で辞めた当時は29歳になっていた。もともとやりたかった”伝える”ということを仕事にするには最後のチャンスかもしれない。そう思って訪ねたのは、Branding Engineer(現・TWOSTONE&Sons)というエンジニアを主軸としたサービスを展開する企業。まだ10人ほどだった渋谷のスタートアップに年収を半分に下げてジョインしたときは、周囲から「頭おかしい」と心配された。

そこでメディア事業部を社員1名・自分のみで立ち上げ、5ヶ月後に月間300万PVのメディアに成長させた。

伝えることは仕事にしたかったが、最初は独立する気持ちはなかったため起業の意向が出てきたのはこの会社が与える影響が大きかったと思う。今は上場し、後輩が偉いさんになっている。

その後、SNSや ECサイト、toC向けアプリなどの経験を求め、ジョブホッピングして2020年1月にpapapa marketingを起業。

起業する半年前から新潟の専門学校からSNS講師の依頼を受け、新潟と東京を行ったりきたりする生活が始まっていたのだが、東京に少し疲れていた頃で、新潟に住まなくても仕事はできたのに、レオパレスで部屋を借りて週末・新潟生活が幕を開けるのだった。

新潟にはとても癒されていた。いつの日かコロナで行き来も難しくなり、気付けば新潟に移住していた。

安心感と刺激の両方が手に入る新潟

coming soon...

Invitation from Branding Company 語れ。
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