「訪問看護は楽しいですよ、あなたもハマりますきっと」。
面接や見学にこられた看護師に必ず私は最後にこのように締めくくる。本当に楽しいのだから仕方がない。まるで伝道師のようだと自称している。
私は人口約150万人の神戸という地方都市に住んでいる。自分が住んでいるところは隣近所とドアは隣なのに心の距離は遠い。普通に暮らすのは「そんなもん」である。
訪問看護では一軒一軒家を廻る。そこでは住む人の息吹を肌で感じ、生活の匂いにつつまれる。一軒一軒が人生そのもの、人の「生きる」そのものだ。自分が住んでいる街の中の「生命」を感じながら、知識を毎回総動員する。この人の体は正常に機能しているか?心の働きは大丈夫だろうか?社会的にはつながりを持てているか?では、魂は本当に生き生きしているか?
一人ひとりにそれぞれの人生があり、数えきれないストーリーがある。その中の登場人物、キャストとして私たちは他者の人生の真っ只中へ踏み込んでいくのだ。一歩前進することもあれば、一歩引くこともある。人間模様に巻き込まれて傷つけたり傷つけられたりすることもある。でも、訪問看護がなければ「この出会い」はなかったのだといつも思わせられる。そして、ちっぽけな自分の看護が、関わる人の人生に劇的良くはたらいた時には、悩みや落ち込みも吹っ飛び、とびきりの喜びをみんなで分かち合う。
そうやって、地域に溶け込み共に成長し、歩んでいく。まさに「村に沈む」がごとく医療者としての心地よい生き方がそこにはあるのだ。
近代看護の土台築いたF.ナイチンゲールも訪問を専門としていた看護師について書き記している。
「訪問看護師に要求される能力とそれを発揮する機会は多岐にわたっています。その仕事の中には単に患者の看護だけでなく、その部屋に対する看護や、家族や隣人に看護師への協力の仕方を教えたり、病気治療のための石の指示どおりに事を運んだりすることのほかに、健康を保つ方法を指導することまで含まれており、しかも、その人々に感化を与えて動かす力は、看護師の口先だけの説教からではなく、看護師のありのままの人柄からえられるものだからです。」
そう、自分のキャラさえも組み込められてしまう看護、それが訪問看護なのだ。「あなたらしさ」と対象となる方の「その人らしさ」がマーブル模様のように溶け合う、そこがたまらなく楽しいのが訪問看護なのである。
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セントケア訪問看護ステーション須磨の所長が書いてくださいましたので、ご覧くださいませ。