株式会社チカクに入る前
6歳から30歳まで学生の身分を保持し続けましたが、博士号を取ってこれ以上学割を維持できなくなるまでに都合3人の社長に仕えてきました。
一社目はマーケティング会社の社長の小間使いでした。なぜ工学系の僕がマーケの会社で働いたのか今でもよくわかりませんが、この世界には理屈抜きの圧倒的な感性で仕事を成功させ続ける人種がいるのだと学ばせていただきました。
二社目はスタジオモリケンという当時はWeb・ガラケーアプリ製作の会社に法人化前から第一号奴隷としてお世話になっていました。社長の森井ケンシロウ先生にはFlashからFlash Liteまで叩き込んでいただき恩師と思っていますが、ご本人の職業は何故か商業漫画家でした。普通に単行本も出てます。ここでは主に締め切り前のアドレナリンの味を学ばせていただきました。
三社目はシンガポールにあるベンチャー企業でエンジニアリングからビジネスまでやらせてもらいました。ジョインしたときはセンサベースのモバイル用行動認識アルゴリズムを作っていたのですが、それが大体出来たあとはもっぱら貿易と認証関連と営業でした。そもそも会社で唯一の日本人(英語力が社内で下から2番目)になぜビズ側の仕事をさせたのか分かりかねますが、おかげで身の丈以上の経験をさせてもらえました。畢竟、営業の売り物は商品ではなくそいつの人格であることを学びました。
そしてついに4人目の社長です。博士の学位取得(と卒業)を3週間後に控えたある日、僕の最初のキャリアは主夫に内定している状態でした。 ヤバい。と思い最近ベンチャーを興した友達をランチに引っ張りだして良い仕事先がないか相談していました。僕は「せっかくキャリアをリセットする機会なので、できるだけ危ない橋がいい。まだ1人-2人の会社とか危なさがあって良い。でも事業内容は面白くないと嫌だ。」と言いました。呆れた様子の友人は、それでも一人だけ心当たりがある。とランチもそこそこにあやしいおじさんのところに連れて行ってくれました。そのあやしいおじさんがチカク代表の梶原でした。
当時の僕は基本的にアカデミックに残ることは考えておらず、いくつかのスタートアップに遊びに行ったりして、どこかいいところないかなーと探索している状態でした。中にはかなり後ろ髪をひかれる会社もありましたが、梶原パイセンのエッジ感にはやられました。事業アイディアがトップカンファレンスの論文で通りそうな内容なうえ、発案の当人はビジネス出身という謎。曲がりなりにも研究者のひよこまで行った僕は、会談場所の新宿ワイヤードカフェで強い衝撃を受けたのです。
家に帰った僕はすぐに妻にその日のことを話しました。そして誠に遺憾ながら主夫の内定を辞退したい旨を心苦しそうに伝えました。 妻は、「いいから早く仕事しろ。この穀潰しが。」と快く内定取り消しを宣告してくれました。ありがとう。
そうして僕はハードウェアスタートアップの道に足を踏み入れ、アドレナリン漬けのぱっぱらぱーになっていくのでした。。
(次号!「こんなはずじゃなかったと思ってからがスタートアップの始まり」お楽しみに!)
現在
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