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ワンパクのデザイナー 樋口です。
元々医療系のコンサルティング会社でアナログメディアのデザイナーとしてキャリアをスタートし、
10年ほど経ったころ、自分がどこへ向かっているのか、はっきり見えなくなり、
「このまま“それっぽいもの”を作り続けて、デザイナーって言えるんだっけ?」
「その状態で10年、20年と仕事がやっていけるの?」
という、生きがいや、やりがいのようなものと、人生に対しての不安が出てきました。
今思えば、それは表層の技術や経験が積まれていっても、それが自分の「仕事の価値」につながっている実感が持てなかったからだなと思います。その物足りなさや不安を埋めるには、一度環境を変えて考えることが必要だと感じ、転職を決意しました。
そんな自分がワンパクにJoinして、5年が経とうとしています。今回は、「デザイナーという仕事」だけでなく、社会人としてどういう変化があったか、振り返る機会をいただいたので、改めて自分の仕事観や社会人としての変化を見つめ直してみました。
ワンパクに入り、自責思考という逃げに気づく
ワンパクに入って、自身の仕事の範囲は一気に広がりました。
何を、どこまでやればいいか明確に決まっているわけではなく、役割を自分で把握し、最適解を考えて動く。
これ以上ないというところまで考え抜き、その上で選ぶ。そしてそれを、チームやクライアントに説明する。
入社して間もない頃、その「説明すること」に一番苦労しました(今でも…)。それまでは、誰かの意見にうなずきながら、裏方として手を動かすことが多く、その方が気楽でした。自分の意見を言うことで、「違う」「ズレてる」と否定されるのが怖かったんだろうなと今では思います。
元々、自分は何かうまくいかないたびに「自分が至らないから」と反省する自責思考でした。誰かのせいなどと言う前に、自分が出来るようになれば良い。そうすれば自身も成長でき、すべて丸く収まる。そう考えていました。
視界を曇らせていた自己都合の“安全圏”
ある日、クライアントとの打ち合わせで進行を任されたとき、参加者が流動的になりアジェンダの進行順がランダムになった結果、重要な検討が漏れてしまうことがありました。
その検討事項はプロジェクトの進行上、今回の打ち合わせで検討しなけば、今後の進行に影響を及ぼす大切なアジェンダでした。
打ち合わせ後、その指摘を受け、私が「事前にもっとアジェンダを整理し、ファシリテートできるようにしておけばよかった、自分の責任です」と先輩に伝えたところ、「もちろんそれもあると思うが、自分が悪いという自責だけで自己完結してしまうと、本質的な課題を見落とす事につながる」と指摘され、その瞬間、自分を守っていた“安全圏”のような思考に気づき、 その思考が壊れた瞬間でした。
「あ、自分の自責思考って、便利な逃げ口上でもあったんだな」と。
「自責」という思考は自分だけでなく周囲にとっても誠実な対応だと考えていたが、実際は本質的な対話や課題の共有を避け、楽なポジションに逃げていたのではないか。
ベストな対応を考えることを放棄して、“考えたふり”をしているだけだったとしたら、それは誠実さからは程遠い行為であり、自責であることと、自身が責任を引き受けて行動することは似て非なるもの。
その違いに気づいてから、任されたタスクにどう向き合うか。自分の意志で進むとはどういうことか。ひとつずつ、自分の中でその線を引き直していきました。
ワンパクでは、たとえどれだけ若手でも「あなたはどう考えるのか」と問われます。
求められているのは、正解か不正解かではなく、考え抜いた自分自身の視点と理由です。
それは、自分の意志の表明であり、同時にそこに責任を負うことになります。
それができなければクライアントや仲間と同じ「土俵」に立つ資格がない、ということなんだなと強く思ったことを覚えています。
ぼんやり見えてきた自身の変化を振り返る
自分の中で何がどう変わってきたのか、明確に気づく瞬間はあまり多くありません、
けれど、ワンパクに入ってからの数年間、さまざまなプロジェクトに関わり、判断の場面に何度も立ってきた中で、以前とは違う感覚で仕事に向き合っている自分に、ふと気づくことがあります。
自分の判断が、最終的にはワンパクとしての総意になり、さらにそれがクライアントの総意として社会に出ていく。
そんな環境に身を置く中で、自分ひとりの考えにとどまらず、チームの視点や、クライアントの温度感にもより敏感になっていきました。
たとえば、どの情報を判断材料として扱うか、どこにリスクがあるか、誰の視点で、どう伝えるべきか、
そういったことの整理と判断において、少しずつですがミスが減り、以前よりも広い視野で状況を捉えられるようになってきた。その実感が、仕事に対して「向き合えている」という感覚につながっています。
より良く、より善い
また、自身が背負い切ることのできない責任に対して取り組まなければならない中、改めて大切にすべきと感じていることは、提案するものが「良い」だけでなく「善い」かどうかということ。
たとえば(あくまで、あくまで例え、ですが)、スマホアプリでよくある「課金すれば広告が消えます」というモデル。一見自然で、よく見る仕組みです。
でもこれは本質的には、「お金を払わないなら不快な体験をさせますよ」という設計になっています。機能を提供するのではなく、お金を払ってくれたら邪魔をしませんというのは、悪意です。
代わりに「課金するとより便利な機能が使えます」という設計なら、ユーザーは前向きに価値を感じて対価を払えます。
そのほうが結果的に満足度も高まり、継続率も上がり、提供側も無理なく利益を得られ、ユーザーにも、クライアントにも、つくり手にも良い、いわゆる三方良しの状態が生まれる。「善い提案」とは、そういうものだとより強く考えるようになってきました。
誰かを我慢させたり、不便に気づかせないようにコントロールすることではなく、誠実な構造をつくること。そしてそれは結果的に、長く信頼されるサービスやプロダクトをつくることにもつながると考えています。
おわりに
気づけば少しずつ、目の前のものごとに対して、自分なりに誠実なあり方を考えるようになってきました。
ただ見た目が良いものをつくるという表面的な行為ではなくて、その場にある選択肢を、できるだけフラットに、偏りなく見渡し、その中で何が一番いいかを考え抜いて、選ぶことでしか最善はつくれないし、
そのためには自分の得意なやり方や、怒られない進め方といった自己都合ではなく、クライアントにとって、チームにとって、ユーザーにとって何が一番いいのか。そういう姿勢の上に立ったアウトプットこそがデザインという仕事の価値につながる。と、最近は思っています…最近は…。
とはいえ、いまだに“自己都合”が抜けきらないことも多々あります。。
もっと俯瞰して、「任された役割を果たす」だけでなく、「この場で自分がどういう役割を担うべきか」を、自分自身で定義し、つくっていく。そしてそれを伝えていく、そんなことを考えながら、これからも仕事に向き合っていきたいと思います。